黎明

黎明 【れいめい】 ものごとの始まり。
 最近のの楽しみは、仕事帰りに同僚の郁と食べ歩くことだ。美味しい食事と美味しい酒さえあれば、大抵の嫌なことは忘れられる。
 そして今夜もは、最近郁が贔屓にしているという小料理屋にいた。
「良い雰囲気のお店じゃない。女一人でも抵抗無く入れそう」
 座敷席に上がって店内をぐるりと見回しながら、が小さな声で言う。
 この店は、老舗料亭の『葵屋』が別館として出した小料理屋だ。料亭の味をもっと気楽に楽しめるようにと、本館の方で出している懐石料理を単品料理として出してくれるらしい。それに各地の銘酒も取り揃えられていて、酒好きののためにあるような店だろう。
「一人で、なんて寂しいこと言わないの。今度彼を誘ってみようかしら、くらいの見栄張りなさいよ」
 の言葉に、郁が窘めるように笑いながら言う。続けて、一寸声を潜めるように、
「たまにね、料亭の方の若旦那が来ることがあるのよ。それがまたいい男なんだ。暗そうだけど」
「何? 実はそっちが目当て?」
 目を輝かせて熱く語る郁に、は苦笑する。
 と同じく美味しいものに目の無い郁だが、いい男の探求にも余念が無い。彼女には男前の恋人がいたはずなのだが、御苦労なことだとは思う。
 しかし、面食いの郁がいい男と言うのだから、その若旦那が美形なのは間違いないだろう。陰気な感じというのは一寸引っかかるが、郁がわざわざ言ってくるほどのいい男というのは見てみたい。
「あんたに丁度良いんじゃないかと思ってさ。板前さんに訊いたら、決まった相手はいないって言ってたし」
「はあっ?!」
 思わず頓狂な声を上げてしまって、は慌てて口を押さえた。
 そりゃあ確かには独り身だけれど、一体どうしたらそんな話になるのか。しかも板前に若旦那のことを訊いているだなんて。
「あんた、おかしなこと言ってないでしょうね?」
「別に〜。若旦那さん、あれだけの男前さんなら、もういい人がいるんでしょう? って訊いただけよぉ」
 しれっとして答えているけれど、郁がこうやってにやにやしている時は絶対何かある。は上目遣いに睨むような怖い顔を作って、更に追求した。
「それから?」
 にやにやしたまま、郁は惚けるように訊き返す。が、が表情を崩さないのを見て、観念したように小さく溜息をついた。
 本当は黙って話を進めようと思っていたのだが、誤魔化せないのなら仕方が無い。下手に隠して、それで怒らせて臍を曲げられたら、後が面倒だ。
「あたしの知り合いに丁度良いのがいますから、連れてきてみましょうか、って。あ、でも大丈夫よ。あっちには具体的な話は全然してないから。あんたが気に入らなかったら、この話はここで止めるし―――――」
「信じられない! 帰る!」
 郁の話を最後まで聞かず、は憤然と立ち上がると、草履を履き始めた。
 の知らないところでこんな見合いじみた話が出来上がっていたなんて。これじゃあ騙し討ちと同じだ。考えてみれば、店の人間がやたらと自分を見ているような気がしたのも、単に一見の客を観察していたのではなくて、を若旦那の相手候補として観察していたのだ。そう思ったら、周りの何もかもに腹が立つ。
「待ってよ。本当に良さそうな人なのよ。見るだけ見て。ね?」
 出口に行こうとするの袂を掴んで、郁は宥めるような猫撫で声で引き留める。折角此処の板前が若旦那を来させるように手配してくれたのに、肝心のが帰ってしまっては話しにならない。
 は嫌がっているけれど、この話は決して悪い話ではないと郁は思っている。何度かこの店に足を運んで、たまに売り上げや帳簿を取りに来る若旦那の姿を観察していたけれど、浮ついた感じも無いし、面白味は無さそうだが誠実そうだし、正直郁に恋人がいなければ自分がお近付きになりたいような“優良物件”なのだ。
 が頑なにこういう話を嫌がる理由は、郁にも解っている。でも、だからこそこの話は是非まとめてやりたいのだ。
「板前さんにも訊いたけど、本当に真面目で誠実な人なんだって。あいつみたいな見てくれだけの男じゃないし―――――」
 自分の失言にはっとして、郁は慌てて口を押さえた。“あいつ”の話は、二人の間では触れてはいけないことなのだ。
 案の定、は石のように全身を強張らせたまま、郁の方を見ようともしない。あの時のことを思い出したのか、今にも泣き出しそうなほど目に涙を溜めて、ぎゅっと唇を噛み締めている。
 もう二年も前の話なのに、の中では未だに気持ちの整理がつかない。いつまでも引き摺っていたって時間が戻るわけでも、あの男がのところに戻って来るわけでもないことは解っているけれど、でも前に進めない。
 新しく誰かいい人を見つければ案外簡単に忘れられるのかもしれないし、そう思って郁も若旦那を紹介しようとしてくれているのも解ってはいる。けれど、頭では解ってはいても、心がついていけないのだ。
「………ごめん。まだそういう気持ちにはなれないから」
 声が震えそうになるのを必死に堪えてそれだけ言うと、は郁の手をすり抜けて出入り口に歩いて行った。が、格子戸を開けた瞬間―――――
「あっ………」 
 丁度入ってきた人とぶつかりそうになって、はビクッと身を竦めた。
「失礼」
 頭の上から落ち着いた男の声がして、は慌てて顔を上げた。
「すみませ………」
 相手の背の高さに、は男を見上げたまま唖然としてしまった。
 その男は、日本人のくせに西洋人のように背が高い。は平均的な日本人女性より背が高いが、それでも見上げるような大男だ。
 否、もの凄く背が高いが、どちらかというと細身だから、“大男”という表現は少し違うかもしれない。けれど、細身でもこれだけ背が高いと威圧感というか、圧迫感がある。その存在感に圧されて、は心臓がどきどきしてきた。
「大丈夫ですか?」
 見上げたまま茫然としているに、男が怪訝そうに問いかける。無表情ではあるが、声は優しい。
「あっ……はい! 大丈夫ですっ」
 その声にはっとして、は跳ねるように男の前から立ち退いた。
さん、どうし―――――あら若旦那さん、こんばんは」
 の頓狂な声に、座敷席から出てきた郁が、男を見て軽く頭を下げた。
「若旦那さん?!」
 またまた頓狂な声を上げて、は行くと若旦那の顔を交互に見る。 
 帰ろうとしたところに、若旦那が登場だなんて。板場からの視線がに集中しているのが痛いほど感じられて、ますます彼女の心拍数は上がっていく。
 けれど若旦那だけは周りの空気など全く察していないような無表情で、
「初めまして。四乃森です」
「あ…です。初めまして」
 若旦那のあまりにも普通な様子に、変に意識してしまっているの方が恥ずかしくなってくる。これでは彼女がよほど意識しているみたいで、郁たちの思う壺ではないか。
「今日はもうお帰りですか?」
「は―――――」
「いいえぇ。まだまだこれからですよぉ」
 の言葉を遮って、郁が力一杯言う。の態度が不自然なのを、意識して硬くなってしまっていると勘違いしているらしい。
 勘違いを否定してやろうかと口を開きかけただが、その前に郁から腕を掴まれて、そのままもとの座敷席に連れ戻されてしまった。
「で、どぉよ、若旦那さん? かなり良い感じでしょ?」
 にやにやと笑いながら、郁が低い声で問いかける。もうすっかり、が若旦那を気に入っていると思い込んでいるようだ。
「別にそんな………」
 一寸顔を見たくらいで、気に入るも何もない。には背が高いという印象が強烈に残っているだけで、碌に顔も見ていないのだ。
 しかしこうやって口籠もっているのも、郁に要らぬ誤解を与えかねない。仕方なくは、若旦那の様子を横目で盗み見る。
 板前から帳簿らしいものを受け取っているが、特に何かを喋るということは無いようだ。表情も相変わらず変わらないし、郁が言うように暗い感じがするし、そんな良い感じと騒ぐような男ではないと思う。
 しかし、顔だけは良いのは、も認めるところだ。整った目鼻立ちの、所謂“美形”である。かといって、流行役者のような浮ついた感じではなくて、きちんとした折り目正しい人物であろうことを想像させて、そこは好感が持てるところだ。切れ長の目というのも、悔しいがの好みに適っている。
 けれど、男は見た目ではない。顔だけで簡単に好きになるには、は歳を取りすぎているのだ。
「そんな知らない人を、どうこう思ったりしないわ」
「ふーん………」
 ぶっきらぼうに吐き捨てるを見ながら、それでも郁はにやにやしている。いつものならこういう時、「顔だけは良いわね」とか「ああいう暗い人は無理」とか、すぐに結論を下して話を続かなくさせるのだが、今回は結論を先送りにしている。「知らない人をどうこう思わない」ということは、知らない人でなくなれば脈が出てくるということだ。
「名前は四乃森蒼紫。趣味は読書と、茶の湯を少々。あんまり外に出歩く人じゃにみたいね。ここ何年も女の影は無いようだし―――――」
「ち……一寸!」
 報告書でも読み上げるようにすらすら言う郁に、が慌てて突っ込む。
「あんた、一体何調べてんのよ?! まさかお店の人に訊いたの?!」
 郁がどうやって若旦那の情報を聞き出したのか想像すると、は頭が痛くなってきた。彼女の口の軽さは重々承知しているから、きっとの情報も店の人間の耳には入っているに違いない。
 頭を抱えて突っ伏してしまうに、郁はしれっとして、
「だって、大事な友達にいい加減な人を紹介するわけにはいかないでしょう。下調べはばっちりよ」
 悪びれる風でもなく、逆に手柄顔で郁は胸を張る。
「あんたね〜………」
 多分いくは本当に、のことを考えてくれているのだろう。そのことは、も非常にありがたいと思う。ありがたいとは思うのだが、のことを考えてくれるのなら、もう少し違う方向で考えて欲しいと思うのだ。
「四乃森蒼紫、ねぇ………」
 頭を抱える問題ではあるが、やはり少しは気になって、は板前と話している若旦那をそっと盗み見る。
 名は体を現すと言うけれど、人目を引く容姿に合う派手な名前だと思う。が、たまたま男前に育ったから良かったものの、親は何を考えて付けたのかと問い詰めたくなるような名前だ。
 そして派手な名前と外見に似合わず、性格は地味らしい。遊び好きすぎる男というのはも苦手だし、家で大人しくしているのが好きというのは、と気が合うかもしれない。も食べ歩きは好きだが、基本は家でごろごろというのが好きな性格なのだ。長い付き合いだけあって、郁もよく心得たものだと、は妙に感心した。
 けれど、それから先に話が進むかといえば、それは話は別だ。一度痛い思いをしたから、まだ暫くは新しい恋は考えられない。“もう二年”と郁は言うけれど、にとっては“まだ二年”なのだ。
 そんなことを考えているうちに、知らず不躾な目になっていたらしい。視線に気付いた蒼紫と目が合ってしまった。
「?!」
 ビクッとして、は慌てて顔を背ける。その後すぐに、こうしたらますます不審者じゃないかと激しく後悔した。
 一連の動きを見て、いくは満足げににやにやと笑う。どうやらは蒼紫に関心を持ち始めているようだし、良い傾向だ。前のこともあるから、簡単にいけるとは思わないけれど、でもきっとこの二人はうまくいくと思う。郁のこの手の勘は外れたことが無いのだ。
 そうとなったら、話を進めなければ。もどうやら気にはなっているようなのだから、きっかけを作って強引に押し切れば、こっちのものだ。
 郁は跳ねるような動きで座敷席から降りると、板前と話している蒼紫に駆け寄る。
「若旦那さん、お食事は済まされました?」
「………いや、まだですが………」
 表情は変わらないが、いきなり話しかけられて驚いたのだろう。蒼紫の返答には少し間があった。
 しかし郁はそんなことは全く意に介さないように、大袈裟にはしゃいだ声を上げる。
「よかったぁ! じゃあ、私たちとご一緒しません? 二人で食べるより三人で食べた方が、きっと楽しいわ」
「いや、しかし………」
「そりゃ良いですね。若旦那もたまにはこっちの店のものも食べてみないと。おまけにこんな美人二人を独占なんて、二度と無いかもしれないですよ」
 突然の誘いに動揺しているのか、もぞもぞと口籠もる蒼紫の言葉を遮って、板前が畳み掛けるように言う。既に郁とは話が付いているのだから、息が合っている。最初から打ち合わせをしていたのではないかと思うほどだ。
 いつもならそんなことは言われないのに、いきなり客と同席しろと言われ、初めて蒼紫の目に困惑の色が現われた。元々人付き合いは苦手な性質らしいから、当然だろう。
 が、郁はそんなことには全く気付いていない振りをして、強引に袖を引く。
「良いじゃないですか。これも何かのご縁ですよ。ね、少しだけ」
 まだシラフのくせに、酔っ払いのような強引さで蒼紫を自分たちの席に連行すると、当たり前のようにと対面に座らせた。そして自分は、上がり口の下座に座る。要するに、お見合いする男女と世話人の配置だ。
 郁の仕事の早さとこの展開に頭が付いていかなくて、は蒼紫と向かい合った今でも茫然としている。話を聞いていた彼女でさえそうなのだから、全く何も知らない蒼紫は尚更のようだ。
 この人も周りのお節介に振り回されて大変だなあ、と居心地悪そうに座っている蒼紫を見ながら、は他人事のように思う。目の前の男も別に恋人を欲しがっているわけでもなさそうなのに、周りに囲い込まれたような形になってしまって、彼もと同じ被害者だ。どうして世の中というのは、こういう“独りでも良い”と思っている人間を放っておいてくれないのだろう。
 まあ蒼紫については、『葵屋』という料亭が後ろに付いているから、早いところ若女将を迎えて欲しいという周囲の思惑もあるのだろう。この様子では、どうやら客商売には向いていないようだし。『葵屋』を守るためにも、“若女将”は早急に必要だ。しかしそれは、の知ったことではない。
 とりあえず、郁はこの店を贔屓にしているようだし、ここで大人気なく席を蹴ってしまえば彼女の面目は丸潰れだろう。今後、この店の敷居をまたげなくなるのは必至だし、それなら今夜だけは大人になって、適当に流してやろうとは思う。一度こうやって顔合わせをしてやれば、どんな結果になっても周りは納得するものなのだ。
 そんなやる気のないことを考えているに気付いているのかいないのか、郁は白々しいほど明るい声で言う。
「今夜は初対面同士、親睦を深めてぱぁっとやりましょ!」
 面倒臭ぇな、と心の中で毒づいて、はそっと溜息をついた。
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