「絶対」って、あるんだと思う。
父親であることを自分の口から伝えると言ったものの、何から伝えたものか悩ましい。一とは毎日のように顔を合わせ、斎藤にも十分に懐いているのだが、最初の一言が出てこないのだ。何故は本当のことを言わないのだろうと不審に思っていたが、今なら斎藤にもその気持ちが解る。言わないのではなく、言えないのだ。
あの公園に行くまでは、今日こそ言おうと気合いを入れているのだが、一の顔を見るとその気合いも萎れてしまう。一が懐いているだけに、本当のことを言えば離れてしまうのではないかと考えてしまうのだ。
最初に会った時、は父親に対して冷淡な印象だった。会ったことも無い、生死も判らぬ相手に愛着を持てというのも無理な話ではあるが、それにしても冷ややかな感じだ。
父親は死んでいるに決まっていると一は言っていたが、もしかしたら本当は何処かで生きていて、自分たちを捨てて消えたのだと思っているのではないのだろうか。死んだと噂されている人間を十年経った今でも必死に探し続けているの姿を見ていたら、そう勘ぐってもおかしくはない。そう考えると、一のあの冷淡な態度は納得がいく。
今は懐いているが、父親だと名乗り出たらどうなるか。これまでのことを説明したところで、それは斎藤の事情だ。どうして捜し続けてくれなかったのかと詰られることもあるだろう。
それを考えると、話を切り出すのは難問だ。が言い出せなかったのも、その辺りを考えたのだろう。
しかしこのまま黙っていても事態が好転するはずがない。そえどころか、時間が経てば経つほど話がややこしくなるだけだ。なぜ今まで話してくれなかったのかとなる前に、何とか切り出さなくては。
菓子を食べている一に、斎藤は思いきって話を向けてみた。
「親父さんのことだが―――――」
「あ、それ、もういいです」
漸く決心が付いたというのに、あっさりと話の腰を折られてしまった。
「もういいというのは………?」
「もう捜さなくてもいいです。お母さんもやっと諦めがついたみたいですし」
そう言って、一は晴れやかに笑う。何だか、父親を捜さなくて済んで清々したという感じだ。
が捜しているから斎藤に頼んだのであって、一は父親なんて本当にどうでもよかったのだろう。十年放っておいたとはいえ、ここまで不要扱いされると父親としては立場がない。
これはますます名乗り出にくくなってきた。どう切り出そうかと必死に考えている斎藤をよそに、一は話し続ける。
「新しいお父さんができるみたいだし。ね?」
そう言って、一は斎藤を見て嬉しそうに笑った。
どうやらは、よりを戻す話はしているようである。そして一も、その話は歓迎しているようだ。
新しい父親として受け入れるつもりでいるなら、斎藤が実の父親であると名乗っても問題が無さそうな気がしてきた。継父より実父の方がいいに決まっている。
この雰囲気に乗じて、今なら告白できそうな気がしてきた。
「新しいというか、本当のお父さんなんだがな」
「………え?」
いい雰囲気に流れるかと思いきや、意外にも一の表情は強張ってしまった。そのまま険悪な表情になる。
新しい父親が実の父親だったという展開なら喜ぶと思っていたのに、これはどういうことなのだろう。斎藤が父親になることについては不満は無さそうだったではないか。
「いや、新しいお父さんというのは俺のことだと思うんだが、俺が本当の父親で………」
何から説明すればいいのか、斎藤はしどろもどろになってしまう。ますます一の表情が険しくなってきた。
今までずっと会っていたのに名乗り出なかったことへの不信感なのだろうか。しかし斎藤も、一が娘だったなんて知らなかったのだ。お互い会ったことが無いのだから、親子だなんて判るわけがない。別れた時はの妊娠すら知らなかったのである。
に再会した後だって、口止めされていたのだから言えるわけがない。許可が出てやっと言えるようになって、さんざん悩んで言えたくらいなのだ。一は子供だから分からないかもしれないが、こういうことは芝居のようにとんとん拍子にはいかないものである。
「の娘だとは知らなかったんだ。会ってからも口止めされていて、言おう言おうとは思っていたんだが―――――」
「私たちのこと、捜そうとは思わなかったんですか?」
一は完全に、斎藤に不信感を抱いている。
十年捜し続けていた母親と、捜そうともしなかった父親―――――斎藤も捜そうとはしたのだが、諦めてしまったのだから同じことか。
「捜さなかったわけじゃない。だが―――――」
身寄りの無い女を手掛かりも無く捜そうなんて、無理な話だ。それでもは捜し続けたと言われれば返す言葉が無いが、捜すことは諦めても、のことを忘れたことは一度も無かった。これだけは本当だ。
一は何も言わない。自分の中で気持ちの整理をつけているのか、斎藤と口も利きたくなくなったのか。
重苦しい空気に耐えかねて、斎藤は大きく息を吐いた。ある程度は予想していたこととはいえ、やはりこの沈黙は耐え難い。
「諦めていたのは認めるが、のことを忘れたことは無かった。これだけは本当だ」
「お母さんは諦めませんでした」
あっさりと諦めてしまったのは、その程度の気持ちだったのだと、一は思っているのだろう。斎藤は現実的に考えていたのだが、それも言い訳にしかならない。はずっと斎藤を捜し続けていたのだから。
の気持ちに対して、斎藤の気持ちが格段に軽いものだったとは思わない。そうだったら、この十年の間にとっくに再婚していた。今日まで独りだったというのは、そういうことなのだと思うのだが、一にはまだ分からないかもしれない。
「それについては、すまないと思っている」
何と言ったところで、今の一には言い訳にしか聞こえないだろう。それなら一の言い分を受け入れた方が、まだ心証がいい気がした。
が、この謝罪を、一の考えを肯定したものと思ったらしい。一はきっと眦を吊り上げた。
「お母さんは、絶対見つけるって言ってたんですよ。それなのに、そんな簡単に諦めるなんてっ………。私たちが見つからなくても、別にどうでもよかったんでしょ!」
「そんなわけあるか!」
一につられて、斎藤まで大声を出してしまった。落ち着いて話そうと思っていたのに、我ながら大人げない。
しかし、どうでもいいなんて解釈は、いくら一でも聞き流せるものではない。諦めたとはいえ、どうでもいいなんて思ったことなど一度だって無かったのだ。
大人の男に大声を出されたのは初めてだったのか、一は怯えた顔で固まっている。ただでさえ人相が悪いのに、大声まで出されたら、一くらいの子供には恐ろしいものだろう。
「あ、いや、悪かった………」
子供相手に何を熱くなっているのか。いや、我が子だからこそ熱くなるのだが、それにしたってあんな大声を出すべきではなかった。
心を落ち着け、斎藤は今度は静かに話し始める。
「別れた日のことは、今でも夢に見るくらいだ。忘れられるはずがない。絶対に何処かで生きてるとは思っていたのだが、捜し続けなかったのは、捜し出すのが怖かったからかもしれないな」
「怖い?」
一が怪訝な顔をした。
「他の誰かと所帯を持ってるかもしれないだろ? あの頃は、そういうことが当たり前に起こっていたんだ」
やっとの思いで戦争から戻ってきて、待っているはずの家族が他の男のものになっていたという話は、よく見聞きしたものだ。に限って絶対にそんなことは無いと思う反面、もう待っていない可能性を考えていたのも事実だ。そしてその可能性を怖れ、手掛かりが無いだの何だの言い訳をして捜すのを諦めてしまった。斎藤はほど強くなかったのだろう。
「でもお母さんは―――――」
「ああ。“絶対”ってあるもんなんだな………」
は“絶対見つける”と言い続けて、本当に斎藤を捜し出した。斎藤は“絶対再婚なんかしていない”と思いつつも、最悪の可能性を考えて諦めてしまった。斎藤ものように“絶対”を信じていたら、もっと早くに再会できていただろうか。
今更悔やんでも仕方のないことだ。過ぎてしまったことはどうしようもないのだから、十年の空白を埋めることを考えなければ。
「やり直すことができるなら、次は絶対に何処にも行かない。いや、出張が多い仕事だから、一緒にいられる時間は少ないだろうが、絶対に帰ってくる」
斎藤の今の仕事は警官だが、いわゆる“町のお巡りさん”とは大分違う。昔の仕事とあまり変わらないところが多いから、家を空けることも多い。一の望むような父親にはなれないかもしれないが、“必ず戻ってくる”という約束は守る。これは絶対だ。
一は黙って考え込む。斎藤を受け入れるべきか、とのことも併せて迷ってるのだろう。
今まで放っておいた父親が、今になって“絶対に戻ってくる”と言ったところで、簡単に信じられるものではないだろう。その気持ちは斎藤にも解る。だから信じることを無理強いはできない。
暫くして、迷いながらも一は口を開いた。
「お母さんがそれでいいって言うなら………」
「そうか………」
一はまだ許したわけではないが、が望むなら仕方がないということか。最初のうちはそういうものだろう。
だが、一の許可が下りたのなら、これから巻き返す機会はいくらでもあるということだ。信用は、これから築いていけばいい。
「絶対にいい父親になる。約束する」
“絶対”なんて無いと思っていたけれど、これは決して裏切ってはいけない“絶対”だ。斎藤は固く決意した。
「“絶対”ってあるのかなあ………」
「どうしたの、急に?」
一は独り言のつもりだったが、に聞こえていたらしい。怪訝な顔をされてしまった。
「うん、一寸ね………」
今日のことを話そうかと迷ったが、やめておくことにした。このもやもやした気持ちを言ってしまったら、きっとは悲しむだろう。
あの警官が本当の父親だったなんて、今でも信じられない。いい人だと思っていたし、新しい父親になってもいいと思っていたけれど、本当の父親だったとなると複雑だ。これまでのことを捜していた様子も無かったし、偶然再会できたからやり直す気になったのではないかと、少し疑っている。
ただ、のことを忘れたことは無かったということだけは、多分本当だと思う。前にも一度、そんなことを言っていた。
嫌になって別れたわけではないのなら、今度はいきなりいなくなったりはしないだろうか。家にいるのは少ないと言っていたが、必ず帰ってくるとも言っていた。
あの言葉を信用していいのか、一にはまだ判らない。だったらどうするだろうか。
「ねえ、お母さん」
一は思い切って訊いてみた。
「“絶対”ってあると思う?」
「随分と難しいこと言うのねぇ」
何が可笑しいのか、はくすくすと笑った。そして少し考えた後、
「まあ、場合によるけど、お母さんはあると思うなあ」
場合によるというのは、あの警官のことだろうか。確かには「絶対会える」と言い続けて再会を果たした。
それならあの警官の“絶対”もあるのだろうか。よく分からないけれど、あるといいなあ、と一は思った。
さて、漸く親子の御対面です。抱き合って涙を流すなんて、現実ではなかなか無いんじゃないかと思うんですが。余程お互いが必死に捜してなければね。
「今更何言ってんだ?」とか「どの面下げて出てきた」とか言われなかっただけでも、斎藤は幸せか。一ちゃんの態度は微妙なものでしたが。
しかし一ちゃん、弥彦と変わらん歳なのに大人だな………。