母は、少女であった。

 今まで休みの日は家事だけで終わらせていたが、最近は頻繁に一人で外出するようになった。あの警官に会っているらしい。
 これまでそういうことに関心が無いように見えたが、誰かと積極的に出かけるようになったのは良いことだと、一も思う。全く知らない相手ではないことも、何となく安心だ。母親という立場からか、いつも尤もらしい理由をつけて出かけているけれど、あれは絶対逢引というやつだと思う。
 一から見ても、はまだ若いのだ。新しい恋人ができるのは当たり前のことだと思うし、その流れで再婚というのも十分ありえる。そうなればこの引越し生活から解放されることだし、一にとっても良いことだ。
 本当の父親の存在が気にならないと言えば嘘になるけれど、今日まで見付からないのなら、もう生きてはいないのだろう。生きていたとしても、きっと違う人と結婚しているに違いない。元々会ったことも無い相手なのだから、一自身も特に思い入れは無い。
 それにあの警官は、一から見て悪い人間のようには見えないし、も昔から知っているらしい相手なのだ。昔の知り合いで、あんなに楽しそうに会いに行っているのなら、悪い人ではないのだろう。
 あの警官と会うようになって、は本当に毎日が楽しそうだ。約束の前日からそわそわしていて、まるで若い娘のようである。
「ねえ、お母さん」
 いつもより念入りに化粧をしているに、一が声をかけた。
「あのお巡りさんとは、どんな感じなの?」
「どうって……別にどうもしないわよ」
 会ってどんな話をしているのかというつもりで尋ねたのだが、何故かは娘のように顔を赤らめる。その反応で、とあの警官が知り合い以上の関係になっているだろうと、一は何となく解った。
 あの警官はのことをずっと好きだと言っていた。きっとそのことをにも伝えたのだろう。一が生まれる前からの“好き”が今になって成就するなんて凄いことだ。
 十年も離れ離れになっていたのに想いが成就するなんて、御伽噺みたいだ。そんなに長い間好きだったなんて、あの警官は一途な人なのだろう。本当の父親よりもいい人な気がする。
「あのお巡りさんはいい人だと思うよ」
「えっ………?! そりゃあ、まあ………」
 一の言葉に、は慌てた様子で顔を赤らめた。





「―――――なんてことを言うのよ、一ったら」
 そう言って、はころころ笑った。
 一がどういうつもりでそう言ったのかはには分からないけれど、斎藤のことを歓迎しているのは確かだ。全く知らない相手ではないのだし、悪い印象は持っていないのだろう。
 斎藤に悪い印象を持っていないのなら、簡単にやり直せそうな気がする。斎藤が本当の父親だと教えても大丈夫だろう。
「まだ一には本当のことは言っていないのか?」
 少し考えた後、斎藤が真面目な顔で尋ねた。
「もう少ししてから言おうと思ってたんだけど………」
 は気まずそうに口ごもる。
 一が斎藤のことを気に入っているのは、再会する前から知っていたけれど、それは知り合いとしてであって、父親としてではない。本当のことを教えて、せっかくうまくいっていたものが壊れてしまうのではないかと、はずっと考えていたのだ。
 けれど、今日の一の様子を見たら、そんなことは杞憂だったようだ。今まで言う勇気が出なかったけれど、今なら言えそうな気がした。
 は弁解するように明るい声で、
「今日、帰ったら言おうと思うの。一もきっと今なら喜ぶだろうし」
「まだ言ってないなら―――――」
 そこまで言って、斉藤はまた考え込むように言葉を切った。言って良いものかどうか迷っているようだ。
「どうしたの?」
「俺から話そうかと思うんだが」
「え………?」
 斎藤の口から真実を告げるのは危険ではないだろうか。彼は一がどんな性格なのか、まだよく知らないのだ。様子を見ながら少しずつ話をしなければ、斎藤どころかにまで心を閉ざしかねない。
 斎藤は焦っているのだろうか。父親であることを隠し続ければ続けるほど、真実を伝えた後の関係は難しくなる。今日まで言い出せなかったが「帰ったら話す」と言っても、信用できないのかもしれない。
 けれど、今日こそ絶対に話すとも決心したのだ。ここは全て任せてもらいたい。
「あの子のことは私に任せて。私からちゃんと話すから」
「俺はあの子の父親だぞ。いつまでも他人のふりはできん」
 一の話では毎日のように会っているらしいから、斎藤がいつまでも他人のふりを続けるのは難しくなっているのかもしれない。何かの拍子に、父親でなければ分からないことを話してしまうこともあるだろう。そうなると話がややこしくなるから、その前に知らせておきたいという斎藤の気持ちも解る。
 けれど、事情が事情だけに、斎藤に任せてしまってもいいものか。悪い方向には進まないと信じてはいるが、それでもは迷ってしまう。
「一のことなら大丈夫だ。あの子はお前よりしっかりしている」
 冗談とも本気ともつかない口調で斎藤は言う。
 確かに一は他の子に比べてしっかりしているとは思うが、今のよりしっかりしているというのは無い。これが親馬鹿というものなのだろうか。
「私だって、一くらいの時はあんな感じだったわ」
 親子なのだから、同じくらいの歳の頃は似たようなものだったと思う。一の方がしっかりしているように見えているのなら、それは斎藤の記憶が間違っているのだ。
 が、の反論に、斎藤は可笑しそうな顔をして、
「子供と張り合っているようじゃ、まだまだだろ」
「〜〜〜〜〜〜」
 それを言われると、も反論のしようが無い。ここは娘自慢をするのが正解だったか。
 何と言い返してやろうかとが必死に考えていると、斎藤がまた真面目な顔に戻って言った。
「だから俺が言っても大丈夫だろう」
 斎藤はどうしても自分で伝えたいらしい。一に直接言いたいこともあるのだろう。
 の口からでは伝えきれないこともあるし、誤解を生むこともあるかもしれない。それなら斎藤に言わせた方が、どんな結果であっても納得できるだろう。
 まだ不安はあるけれど、一と斎藤ならきっと大丈夫だ。
「そうね。じゃあ、次に会った時にでも」





 帰ってきてからずっと、の表情は冴えない。いつもならあの警官とどこに行ってきたとか、一が訊きもしないのに話し出すというのに。
 あの警官と何かあったのだろうか。何だか酷く悩んでいるように見える。
「お母さん、あのお巡りさんと何かあったの?」
「えっ?!」
 気付かれていないとでも思っていたのか、は驚いた顔をした。
 あれだけいつもと違うなら、いくら一が子供だって判る。は普段から思っていることが顔に出る方だけれど、今日はいつも以上なのだ。
「喧嘩でもしたの?」
 がこんなにふさぎ込むなんて、それしか考えられない。
「そんなんじゃないんだけど………」
 そう言って、は言いにくそうにもじもじする。いい大人なのに、何をもじもじするようなことがあるのかと一は思うのだが、なりにいろいろあるのだろう。
 の様子を見る限りでは、喧嘩というのは無さそうだ。逆に良い話を聞けそうな雰囲気である。
「どうしたの?」
 もじもじしたまま埒の明かないに、一が話を促す。正直、一にはどうでもいい話なのだが、こうやって聞き出してやらないと、はいつまで経っても話そうとしないのだ。自分の母親ながら面倒臭い女だといつも思う。
 いつもならこの辺りで話し始めるのだが、今回は一の様子を窺うようにちらちら見るだけで、なかなか話し出さない。今回の話題はよほど重大なことらしい。
 重大なことならさっさと話せばいいのにと一は思うのだが、まあにも事情があるのだろう。こういうのを面倒臭がらずに聞き出してやるのが大人なのだろうと思う。母親に対して大人にならなければならないというのは、おかしな話だが。
「あのお巡りさんと結婚したいなら、別にそれでいいと思うよ」
 がこれだけ言いにくそうにする話題となったら、一にはこれしか思い浮かばない。
 の再婚については、よほど酷い男でない限り、一は反対するつもりはない。これまでそういう姿勢できたのだから、今回の警官との再婚なら大賛成だ。
「あっ、いや、うん、そう……そうなんだけど………」
 まだ何かあるのか、はまだ顔を赤くしてもじもじしている。
 ひょっとしてこれを一つ一つ聞き出していかなければならないのかと思うと、一は早くもげんなりしてきた。相手はいい歳をした子持ちの女なのである。女学生の恋のお悩み相談ではないのだ。
 まあ、一の父親とはそういうのをすっ飛ばして結婚したのかもしれないし、あの警官とはそういう悩みも含めて、恋愛というものを楽しみたいのだろう。そこに一が協力してやる義理があるのかどうかが分からないのだが。
「まだ何かあるの?」
「ああいう人、一から見てどう?」
「は?」
 どうと言われても、一には答えようがない。いい人だとは思っているし、そのことについては何度もに言っているつもりだったのだが、それ以上の感想はこれといって無いのだ。
「だからね、ああいうお父さんってどうかなって………」
「どうって言われても………」
 やっぱりそうなのか、と一は納得した。今までそういう話に関心の無かったがあれだけ積極的に会いに行ってるのだから、そういう話が出るのは自然な流れだ。そして、そういう話が出れば、障害になるのは一の存在だ。
 “新しいお父さん”というのは考えたことが無いわけではないけれど、そういうのは自分には縁の無いものだと思っていた。あの警官を“お父さん”と呼ぶのを想像すると変な感じだが、不思議と嫌ではない。そう呼ぶのが自然な気さえしてきた。
「まあ、良いんじゃないかな」
 おおっぴらに歓迎するのは恥ずかしい気がして、一の声は素っ気無いものになってしまう。
 けれどにはちゃんと伝わったらしく、一が驚くほど嬉しそうな顔をした。
「そうよね! あの人がお父さんなら一も嬉しいわよね!」
 別に嬉しいとまでは言っていないのに、は一人で舞い上がって華やいだ声を上げた。やはりとあの警官の間で再婚の話が出ているらしい。
 嬉しいとかそういう話は別にして、悪くない話だとは一も思う。こんなに嬉しそうなの顔を見るのは初めてなのだ。
「う〜ん、まあねぇ………」
 年甲斐も無く浮かれるの姿は何だか微妙だが、多分いい話なのだろう。ここは自分が大人になっておくかと、一は言葉を濁した。

<あとがき>
 一ちゃん、こまっしゃくれ過ぎだろ(笑)。年齢的には弥彦と変わらんくらいのはずなんだが。
 この話の中で誰が一番大人って、一ちゃんが一番大人だと思う。親が駄目だと、子供がしっかりするってことなんだろうなあ。
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