僕は生きる。君のために。

 が斎藤と出会ったのは、一くらいの時だった。恐い顔をしていると思っていたけれど、話してみると案外優しい人で驚いたのを覚えている。けれど屯所の外では子供どころか大人にも怖がられていて、本当はいい人なのに、といつも思っていたものだ。
 けれど、周りからそういう風に見られる人だから、斎藤のことを本当に理解しているのは自分だけだと思えて嬉しかった。他の女には見せない優しさを独り占めしているように思えたものだ。
 優しくて大人で、あんな人は他にはいないと思っていた。昔も今も、あんなに誰かを好きになったことも無かった。そして、あんなに愛されたことも。
 これまでも、再婚の話を世話されたことは何度かあった。子供がいても構わない、と言ってくれた人もいた。一の父親としても良い人もいたけれど、どうしても踏み切ることができなかったのは、ふとした時に斎藤と比べてしまっていたせいだ。
 誰と会っていても、話していても、斎藤のことを思い出してしまう。いなくなってしまった人のことは忘れて、違う人とやり直そうと何度も思ったけれど、結局駄目だった。にとって、斎藤以上の男など存在しなかったのだ。
 そんな人なのに、どうして信じることができなかったのだろう。勝手に変わってしまったと思いこんで、碌に話もせずに別れて―――――それでも斎藤は、今も昔も気持ちは変わらないと言ってくれたのだ。離れていって当然のことをしたのに、一のことは勿論、のことも変わらず気にかけてくれている。
 斎藤は昔からそうだった。が一方的に別れを告げた時も、黙って待ってくれていた。今回もきっと、の気持ちの整理がつくのを待っているのだろう。
 あのときは山崎がお膳立てをしてくれたけれど、今はそんなことをしてくれる人はいない。が自分で解決しなければならないのだ。
 一体、どんな顔をして会いに行けばいいのだろう。警視庁に行くことを想像するだけで足が竦んでしまう。
 一を通して外で会う段取りを付けようかとも考えたが、きっとそれでは駄目だ。きちんと警視庁に行って斎藤に会わなければ、何も変わらない。はもう子供ではないのだから、誰かを頼っていては駄目なのだ。
 明日、時間を作って警視庁に行ってみようか。こういうことは思い立ったときに行動しないと、ぐずぐずになってしまう。
「一」
 隣で寝ている一に、は思いきって声をかける。
「明日、あのお巡りさんに会ってくるから、一寸帰りが遅くなるかもしれない。夕飯は作っておくから、先に食べてね」
「ふーん………」
 一は少し考えるような顔をした。
 斎藤は実の父親だが、何も知らない一にとっては赤の他人である。しかも昔からのことが好きだったという男なのだ。そんな男に母親が会いに行って、しかも帰りが遅くなると言われたら、子供の立場としては複雑だろう。
 嫌な顔をするなら止めておこうかとが考えていると、意外にも一は笑顔を見せた。
「私のことはいいから、ゆっくりしてきなよ」
「そ……そう?」
 そう言われると、は戸惑ってしまう。これまでが他の男と会う時は、一は少し嫌そうな素振りを見せていたのだ。こんな顔をされたのは初めてのことである。
 一も少し大人になったのかとも思ったが、“あのお巡りさん”だからかもしれないとも思う。一はどうやら“あのお巡りさん”をとても気に入っているようなのだ。斎藤の言葉をわざわざに伝えたのも、ひょっとしたら新しい父親にと思ってのことだったのかもしれない。
 一がそう思っているとしたら、斎藤ともう一度やり直すことも難しいことではない。こういう時に一番の問題になるのは、子供のことなのだ。斎藤も一のことは可愛いと思っているようだし、家族としてやり直すことに障害は無さそうだ。
 一は父親というものを知らないから最初は戸惑うかもしれないが、きっと親子としてうまくやっていけるだろう。血の繋がらないと山崎だって、本当の親子よりも親子だったのだ。血が繋がった二人なら、すぐに親子になれるだろう。
 そこまで考えて、は顔を紅くした。まだ斎藤と何も話していないのに、当たり前のように家族でいることを考えているのだ。あんな別れ方をしたくせに断られることを微塵も考えていないなんて、調子がいい。
 けれど、斎藤から拒絶されるなんて考えられない。考えたくないということもあるけれど、一を可愛がっている彼が断るとは思えないのだ。
「ねえ、もし……もしもあのお巡りさんが一のお父さんになってくれるって言ってくれたら―――――」
 そこまで言ったところで一の方を見ると、もうすっかり寝付いてしまっているようだ。
 寝付いてくれて、良かったのかもしれない。突然、“新しいお父さん”の話をされても、一だって戸惑うだろう。
「まだ気が早いよね………」
 斎藤とやり直すことも、家族としてやり直すことも、まだ何も話してはいないのだ。一人で考えて勝手に結論づけるのは、昔からの悪い癖である。
 とにかく、そういうことを考えるのは斎藤と話してからだ。彼にだって都合はある。
 明日のことを考えると、今から胸がどきどきしてきた。まず何を話せばいいだろう。今度はちゃんと話せるだろうか。
 明日話さなければならないことを頭の中で纏めながら、も目を閉じた。





 警視庁というのは初めて来たが、気軽に入りづらい雰囲気の建物である。日本人にはまだ馴染みの薄い煉瓦造りの建物というのも、余計に入りづらくしているのかもしれない。
 こんな立派な建物の中で斎藤は働いているのかと、は改めて驚いた。外観は勿論、規模も新撰組の屯所とは大違いだ。中に入ったら迷子になりそうである。
 斎藤に会う前から萎縮してしまっているが、は勇気を出して門の前に立っている警官に声をかけた。
「あの……藤田警部補にお会いしたいのですが………」
「それなら受付でお願いします」
 此処で呼び出してもらえるかと思ったら、奥の正面玄関を指されてしまった。こういうところでは、門番は門番の仕事しかしないらしい。
 できれば中に入らずに済ませたかったのだが、そういうわけにはいかなくなってきた。まさかの素性を知られているとは思わないが、薩摩の巣窟に入るというのは覚悟が必要だ。
 は小さく息を吐いて気持ちを落ち着け、敷地に足を踏み入れた。
 受付は若い女で、想像よりも物腰の柔らかな印象だった。こういうところでも人当たりを重視しているのかもしれない。
 藤田警部補に会いたいと伝えると、すぐに判ったようだ。受付だから全ての職員を把握しているのか、斎藤が有名人なのか。
 職場での評判を訊いてみようかとも思ったが、やめておいた。警視庁の中でどう思われていたとしても、斎藤は斎藤なのだ。が気にすることではない。
 暫くして、斎藤が姿を現した。
「あ………」
 最初に何を言おうかと昨日の夜からずっと考えていたはずなのに、斎藤の姿を見た瞬間、全部忘れた。とりあえず挨拶はしなくてはと思っているのに、喉に何か詰まったように声がでない。
「………一寸出るか」
 の異変に気付いたのだろう。斎藤が静かに促した。





 受付で見たの顔は、斎藤が驚くほど青白かった。本人は気付いていたか判らないが、手も震えていたようだ。
 あれが警視庁に来たせいなのか、斎藤にあったせいなのか判らない。わざわざ此処まで足を運んで会いに来たのだから斎藤のせいではないとは思うが、難しいところだ。
 警視庁を出てからも、はずっと押し黙ったままだ。斎藤から声をかけるべきなのかもしれないが、何を言っていいのか分からない。
 よりを戻すつもりで来たのだろうとは思う。しかしのこの態度はどうだろう。とても昔のように気軽に声をかけられる雰囲気ではない。
 十年の空白は、簡単に埋められるものではないことは解っていたつもりだ。二人を取り巻く環境は劇的に変わり、すぐに受け入れられるものではなくなってしまっていることも理解している。何もかも最初からやり直すくらいの覚悟ではいたけれど、これではまだやり直す以前の問題だ。
「昼飯、まだだろ? そこの蕎麦屋でいいか?」
 斎藤が行きつけの蕎麦屋を指すと、は無言で頷いた。
 店に入ってからも、は何も言わない。これではこの前の繰り返しだ。
 昔のは、よく喋る女だった。少しは黙ってろと思っていたことが懐かしい。
「あの……突然すみませんでした」
 不意に、が頭を下げた。緊張しているのか、声が別人のようにか細い。
 の声は、張りのある快活なものだったと記憶している。子供の頃から知っているけれど、こんな声は聞いたことが無い。自分に対してそういう声を出すのだということに、斎藤は改めて十年の空白を感じた。
「いや、どうせ外に出るつもりだったんだ。午後からは大体外に出てるから、丁度良かった」
「そうですか………」
 の顔が少しほっとしたように見えた。仕事中だったらどうしようと気にしていたのかもしれない。
 そういえばは、変なところに気を遣う女だった。一度斎藤に別れを告げた時も、山崎のことを気にしていたせいだった。そういう風に自分より周りを気遣う優しいところも、斎藤は好きだった。
 斎藤は自由に外に出られる仕事だから、最初からそう伝えておけば良かった。都合の良い日時を伝えておけば、変な気を遣わせずに済んだかもしれない。けれどあの時は、そんなことを伝える余裕も無かった。
 今日までが来なかったのは、もしかしたら斎藤の都合を考えていたのかもしれないと、調子の良いことを考えてみる。本当は違うかもしれないが、とにかくは警視庁にきたのだ。斎藤との仲を前向きに考えているのは確かだろう。
 それを確かめるように、斎藤はを見た。
「お前が来てくれるのを、ずっと待ってた。この十年を取り戻すことはできないが、これからは―――――」
「この十年―――――」
 が静かに言葉を重ねた。
「斎藤さんの気持ちは変わっていないと、一から聞きました。本当に嬉しかった………。もしまだ間に合うのなら、一のためにも―――――ううん、一のことを持ち出すのは卑怯ですね。私はもう一度、斎藤さんとやり直したいと思っています」
 の声は次第に力強いものになり、最後は強い決意さえ感じられた。
 警視庁に行くことは勿論、このことを伝えることもにとっては思い悩み、ありったけの勇気を振り絞るものだっただろう。の顔は緊張で強張り、化粧をしているはずの顔にも血の気が無い。
 こんな顔は、昔も見たことがある。が初めて斎藤の家に来た時だ。あの時も、こんな青白い顔で震えていた。随分昔のことのはずなのに、今も鮮明に覚えている。
「あの……どうかしました?」
 が怪訝な顔をした。無意識に笑っていたようだ。
「いや………」
 あの日のことを思い出していたと言ったら、はどんな顔をするだろう。その顔を見てみたい気がしたが、今はやめておくことにした。
 代わりに、斎藤は苦笑して言う。
「俺が言うつもりだったのに、先を越された。女に言わせるなんて格好つかないな」
 本当は、一を通してではなく、斎藤の言葉でに伝えたかった。やり直したいということも、に言わせるのではなく、自分から言いたかったのだが、どうも思うようにいかないようだ。
 考えてみれば、とのことは何でも斎藤の計画通りに進まなかったような気がする。思うようにいかないのが男女の仲というものなのだろう。
 けれど過程がどうであれ、最終的には斎藤の望むところに落ち着いたのだ。計画通りでなくても、これで良かったと思う。
「この十年、あの頃のことを忘れたことは無かった。京都で別れた時のことは、今でも時々夢に見る」
「私もです」
 が嬉しそうに微笑んだ。
 そういえばが笑ったのは、再会して初めて見た。昔のような弾けるような笑顔ではなく、静かに微笑む姿に、十年という時の流れを感じる。あんなに大きな子供がいるのだから歳相応の表情なのだろうが、この十年を知らない斎藤には驚きだ。
 けれど、そんなの表情も悪くはない。これからもきっと、斎藤の知らない表情をいくつも知ることになるのだろう。全てを知っていたはずの女だったのに、また一から新しい発見をしていくというのは、何とも妙な感じではあるが。

 十年ぶりに名前で呼んでみた。夢の中では何度も呼んだその名は、声にすると酷くぎこちないもののように感じられる。
 は少し驚いた顔をしたが、すぐに昔と同じ嬉しそうな笑顔を見せた。





 始めのうちはぎこちなかったものの、時間が経つうちに少しずつ打ち解けた話し方に変わっていった。まだ昔のようにというわけにはいかないが、それは時間が解決してくれるだろう。
 初詣の日の、まともに話せなかったあの時に比べれば、今日は飛躍的な前進だ。嫌になって別れたわけではないのだから、きっとすぐに昔のようになれる。
 ただ昔と違うのは、一の存在だ。難しい問題だが、これもきっと解決できると斎藤は信じている。公園で話す様子を見た感じでは、一は素直な子だ。斎藤にも懐いているのだから、きっと自然に“家族”になれるだろう。
「今日はお仕事中にすみませんでした」
 が軽く頭を下げる。言葉遣いは相変わらずだが、表情は笑顔で、初めの頃のような固さは無い。
「昼休みだったんだから、気にすることはない」
「次はもっとゆっくり話したいですね。斎藤さんのお休みって、いつですか? それに合うように私もお休みを取れるようにしますから」
「あー………」
 楽しげに話を進めるに、斎藤は微妙な顔をした。
「あの……どうかしました?」
 が不安げに表情を曇らせる。
「いや………。今日は先に言われてばかりで格好つかんなあ」
 昔は斎藤がを引っ張っていたはずなのに、今日は主導権を取られてしまっている。が大人になったからだと思ってもみたが、歳の差は今も変わらないのだから、斎藤だってあの頃よりもずっと大人になっているのである。やっぱり格好がつかない。
「あら………」
 きょとんとした後、は可笑しそうに笑った。どちらが先に言うかなんて、にはどうでも良いことなのだろう。
 どちらが言っても結果は同じなのだから、どうでも良いと言えばどうでも良いことなのかもしれない。けれど、こうも先回りされると、何だか斎藤がに引っ張られているような気がしているのだ。
 まだもやもやしている斎藤に、は笑いながら言う。
「どっちでも良いじゃないですか、そんなの。そんなに気になるなら、斎藤さんが先に言えばいいんですよ」
「うーん………」
 斎藤は渋い顔で唸る。
 それはの言う通りだ。これからはずっと一緒なのだから、巻き返す機会はいくらでもある。
 けれど、何となくではあるが、この先もこのままに引っ張られてしまいそうな気もする。勿論最終的には斎藤が主導権を取るつもりではいるが、に引っ張られる未来も悪くはないような気もした。
<あとがき>
 というわけで、元サヤです。元々が誤解だったんだから、収まるところに収まるのは早いのです(笑)。
 で、問題は斎藤が“お父さん”なことをカミングアウトすることなんですが……まあこれも大丈夫でしょう。一ちゃん、すっかり餌付けされてるし(笑)。根回しは完璧です。
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