この娘の母親が本当に好きだった。それを今、思い出した。

 は可愛らしい菓子が好きだった。色とりどりの金平糖やら飴玉やら、よく山崎に買ってもらっていたことを思い出す。
 一はどういう菓子が好きなのだろう。と同じように甘くて可愛い菓子が好きなのだろうか。それとも、斎藤の娘だから、煎餅やおかきのような塩気のある菓子が好きなのだろうか。
 自分の娘だというのに、斎藤は一のことを何も知らない。自分の娘だということさえ最近になって知ったのだから、普通の親子より圧倒的に不利なのは仕方がない。これまでのやり取りで知り合い以上に懐いてくれているのは、不幸中の幸いだが。
 との関係が修復不能なものになったと判って尚更、一との関係が大切なものに思える。あの娘は、あの頃確かにと共にいたという、たった一つの証なのだ。はどう思っているのか分からないけれど、斎藤にとっては過去と今を繋ぐ大切な存在だ。
「十歳くらいの女の子というのは、どんなものが好きなんだ?」
 一人で考えても埒があかなくて、斎藤は思いきって女の店員に尋ねてみた。
 さっきから厳めしい顔で立っていた警官にいきなり声をかけられて、店員は一瞬怯えたような顔をする。客観的に見て自分の顔が怖い部類に入るのは自覚しているが、声をかけただけでそんな顔をされるとは思わなかった。
 そういえば一は、初めて会った時から今まで、斎藤を怖がったことが無かった。気にしたことが無かったが、今思えばそれも親子の証のように感じられる。単に、一がこの女店員よりも肝が据わっているだけかもしれないが。
「あ、えっと……贈り物ですか?」
 店員は愛想笑いで尋ねる。すぐに何事も無かったように笑顔を作れるのは、流石商売人だ。
「それならこちらは如何でしょう? 新発売で人気なんですよ」
 そう言って店員が見せたのは、兎の形をした小さな饅頭だ。これは女の子が好みそうな菓子である。
 饅頭なんて、斎藤は丸いものしか知らなかったが、今はいろいろな形があるらしい。ひよこだの狸だの、子供でなくても目移りしてしまう。
「じゃあ、この動物のやつを適当に………」
 結局決めきれずに、店員に任せることにした。





「あ、お巡りさん!」
 斎藤に気付いて、一が駆け寄ってきた。
 あの日、は自分から一に話すと言っていたけれど、この様子ではまだ何も教えていないらしい。もしかしたら、教えることさえ躊躇っているのかもしれない。
 やはり斎藤の口から、と考えたこともあったが、話すことで一との関係がおかしくなるかもしれないと思うと躊躇われる。いつまでも隠しておくわけにはいかないことは分かっているのだが。
「よう」
 何も知らなかった頃と同じように、斎藤は軽く片手を上げる。
「ほら、新発売だそうだ」
 菓子の包みを渡すと、一は早速開けて中を見た。そして嬉しそうな顔で、
「わあ、可愛い! ありがとうございます」
「ああ」
 喜ぶ一の姿は、昔のに本当によく似ている。顔立ちそのものはあまり似ていないが、やはり親子だ。
 の娘だと思って一を見ると、何だか昔を思い出してしまう。斎藤もも今よりずっと若くて、今よりもずっと相手に対して素直だった。あの頃の斎藤ならきっと、と再会したあの日も、黙って引き下がりはしなかっただろう。どうしてあの時、手を離してしまったのか。
 歳を取ったということなのだろうな、とは思う。歳を取ると若い頃には見えなかったものが見えてしまって、攻めるより先に引き際を考えてしまうものだ。
「ねえ、お巡りさん、お母さんと何を話したんですか?」
 ぼんやりと考えていると、不意に一に話しかけられた。
「何って………」
 斎藤と会ったことでの様子がおかしくなったのかと思ったが、一の様子を見るとそういうわけではないらしい。何となく尋ねただけのようだ。
「まあ……昔のこととか………」
 何とも説明のしようが無くて、斎藤は言葉を濁す。
 あの日は突然すぎて、昔を懐かしむこともできなかった。あの頃のことを話し合うことができていたなら、の態度も少しは違っていたかもしれないと、今になって思う。
「昔のことって? お父さんのこととか?」
 斎藤の憂鬱など知らない一は、好奇心に目を輝かせて見上げる。一にとっての“昔のこと”は、若い頃の両親のことなのだろう。
「うん……まあ………」
 一応、嘘ではない。一の父親は斎藤なのだから、彼ととの会話はすべて、“お父さんのこと”だ。
 一は一寸考えた後、思い切ったように尋ねた。
「お父さんって、どんな人だったんですか?」
 斎藤も父親のことを知っていると分かって、他人から見た父親の姿を知りたいと思ったのだろう。の目からではなく、冷静な第三者から見た姿を知りたいと思うのは自然なことだ。
 けれどこれには、斎藤もどう話せば良いものか困ってしまう。赤の他人のことならいくらでも話せるが、自分のことなのだ。持ち上げるようなことも言いにくいし、かといって下げることはもっと言いにくい。
 客観的に見て、あの頃の自分はそう悪い人間ではなかったと思いたい。誰からも好かれるといった人間ではなかったとは思うが、上司に信頼され、仲間と上手くやっていける程度の人間ではあった。何より、あの頃のが選んだ人間なのだから、悪人ではなかったと思う。
「まあ……普通だったと思うぞ。愛想は悪かったが、悪い人間じゃなかった」
 悩みに悩んで、結局当たり障りの無い言葉になってしまった。こんな言い方では、逆に何かありそうな印象を与えそうだ。
 一の様子を見ると、何か考えているようである。斎藤の言葉をそのまま受け取って良いものか、子供なりに悩んでいるのだろう。
 悪い印象を持たれる前に、斎藤は慌てて言葉を付け足した。
が―――――お前のお母さんが好きになった男なんだから、悪い人間なわけがない」
 大勢の男の中から、はわざわざ自分を選んだのだ。そう思えば、斎藤の言葉も力強いものになる。
「じゃあ、お母さんはどんな人でした?」
 そう言って、一は少し恥ずかしそうな顔をする。
 どんな人も何も、一が見た通りの人間だと思うのだが、父親と出会った頃の姿を知りたいのだろう。本当は両親の馴れ初めを知りたいのだろうが、それを言うのは子供でも恥ずかしいらしい。
「そうだなあ……血の繋がりは無かったけど父親思いの優しい子で、動物が好きで………。たまにびっくりするようなことを言ったりして、一緒にいて飽きない奴だったなあ」
 あの頃のことを思い出すと、斎藤は今でも笑いがこみ上げてくる。山崎に邪魔をされ続けたのも、の言葉に振り回されたのも、今となっては何もかもが良い思い出だ。
 あの頃はいつも、どうやってと二人きりになるか、どうやって外に連れ出すか、いつもそんなことばかり考えていた。女のことであそこまで知恵を絞るなんて、今になって思えば必死すぎる。斎藤も若かったということなのだろう。
 いつ死んでもいいように、あの頃は何に対しても全力だった。山崎に妨害されても、一旦はに拒絶されても、諦めようとは思わなかった。必死すぎて笑えることもあったけれど、あの頃は今よりずっと、真剣に生きていた。
「いつ死んでもおかしくなかったから、ただ一緒にいるだけで楽しかった。あの戦争が無かったら―――――」
 そこまで言って、一の視線に気付いた。真剣な顔で斎藤をじっと見上げている。
「お巡りさんは、お母さんのこと好きだったの?」
 その問いに斎藤はぎくりとした。平静でいなくてはと思うものの、じわじわと顔が熱くなるのが分かる。
 一の中では、斎藤とはただの知り合いでしかない。一から見たら、斎藤が横恋慕しているように見えたのだろう。顔を紅くしたことで、今も変わらず好きだと思われそうだ。
 のことは、本当に好きだった。だから山崎の嫌がらせにも負けずに自分のものにした。山崎に許された後は、誰よりも幸せにしたい、二人で幸せになろうと思った。
 維新さえ無ければ、今もそうやって暮らしていけたと思う。一にだって弟か妹を作ってやれただろう。けれど今は―――――
 十年の空白が埋め難いものになってしまったことを知ってしまった。は明らかに斎藤を拒絶していて、今更やり直すことはできないだろう。それならば潔く身を引いてやるのも愛情だ。
「そりゃあ―――――」
 もう昔のことだ、と言いかけて、斎藤は言葉を飲んだ。
 一の真っ直ぐな目は、嘘や誤魔化しを許してはくれない。物怖じすることなく真っ直ぐに相手を見つめるその目は、昔のによく似ている。
 の、自分を真っ直ぐに見つめる目が好きだった。それを今、思い出した。
「―――――そうだな、うん」
 十年前、のことが本当に好きだった。今もその気持ちは変わらない。
 この前は何も言えなかったけれど、次に会った時にはそのことを伝えよう。拒絶されるかもしれないけれど、それだけは伝えたい。
「今も昔も変わらんよ」
 によく似た一の目を見て、斎藤は呟いた。





「どうしたの、これ?」
 ちゃぶ台に置かれた紙袋の中を覗いて、が尋ねた。中には兎やひよこの形をした饅頭が詰まっている。
「お巡りさんにもらったの」
 と斎藤が知り合いだと知って隠すつもりもなくなったのか、一は素直に答える。
「まあ………」
 二人がまだ会っていたことよりも、斎藤がこんな可愛らしい菓子を買い与えたことに驚いた。が知っている斎藤は、こんなものは絶対に買いそうにない男だったのに。
 一が自分の娘だと知って、父親らしいことをしようと思ったのだろうか。一体どんな顔をして買ったのだろう。
 目を丸くして饅頭を見ているに、一が含み笑いをしながら言う。
「あのお巡りさん、お母さんのことが好きだったんだって。今も好きだって言ってたよ」
 一の声はからかうような軽いものだったが、は胸を突かれたような衝撃を受けた。
 斎藤が政府に仕官したと知って、もう昔のことは何もかも忘れてしまったのだと思っていたけれど、そうではなかったのだ。のことを忘れずにいてくれて、一にも父親らしいことをしようとしてくれている。斎藤は何も変わっていなかったのかもしれない。
 どうしてあの時、もっとちゃんと話さなかったのだろう。警官というだけで拒絶して、斎藤の話を聞こうともしなかった。警官になっても斎藤は斎藤だったのに。
「………………っ」
 自分の愚かしさが今になって悔やまれる。十年も捜し続けた相手を信じられなかったなんて、一体何を見ていたのだろう。
「どうしたの、お母さん?!」
 突然涙を流し始めたを見て、一は狼狽えた。何も知らない一には、自分の一言でを悲しませたように見えたい違いない。
「何でもないから………。大丈夫よ」
 これは斎藤と再会した時の涙とは違う。一が想像しているようなものでもない。
 は涙を拭いながら何度も繰り返した。
<あとがき>
 『お父さんは心配性』を改めて読み返してみると、斎藤とは思えないほど落ち着きがないなあ(笑)。まあ当時の斎藤は二十歳やそこいらの青春真っ盛りの若造なんで、そんなもんかなと自分を納得させてみる。
 そんなわけで、当時の気持ちを互いに思い出してくれればいいな、と。
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