言いたいこと、全部忘れた。
一を先に帰らせて、と斎藤は近くの茶店に入った。店に行くまでの間も、店に入ってからも、二人とも石のように押し黙ったままだ。会えたら言いたいことは山ほどあったはずなのに、言葉が見つからない。
斎藤が生きていてくれたらそれだけで良いと思っていた。一にとって恥ずかしくない父親でいてくれたら、それで良いと思っていたのだが、まさか新政府の下で警官をやっていたなんて。
警官というのは、一から見ても恥ずかしくはない職業だ。戦後、自暴自棄になって身を持ち崩したり、生活に困窮しているものに比べれば、今の斎藤は上手く転身できた口だろう。
けれど―――――は斎藤の様子を伺う。何を考えているのか判らないが、話し出す気配は無い。
どういう経緯で警官になったのだろう。山崎のことも新選組のことも、斎藤の中では過去のものになってしまったのだろうか。そして、のことも。
このままでは無言のまま何時間も無駄に過ぎてしまいそうで、は思い切って口を開いた。
「あの……今はどうなさってるんですか?」
何故かよそよそしい口調になって、自分でも驚いた。
あんなに好きで、夫婦として生活したこともあったけれど、十年も離れていたのだ。にとって斎藤は、気付かないうちに遠い存在になっていたのかもしれない。
の言葉に、斎藤も少なからず衝撃を受けたようだ。少し間があって、
「どう、って………?」
「その……再婚とか………」
もし斎藤が新しい家庭を持っていたとしても、今のなら大して悲しむことなく受け入れられそうな気がする。そう思ってしまうことに驚いたが、それが十年の空白なのだろう。この空白の間に斎藤だけでなく、も変わってしまったのだ。
「いや、してない」
「そうですか………」
あの戦争の後、斎藤はずっと独りだったのか。のことを捜してくれていたのだろうかと考えてみるが、単にそれどころではなかっただけかもしれない。あの戦争の後の会津の困窮ぶりはも知っている。
だからこそ、ますますには今の斎藤の姿が信じられないのだ。あんな目に遭わされて、どうして新政府の下で働くことを選んだのだろう。新しい時代になってしまったのだから、昔のことはきれいさっぱり忘れることを選んだのだろうか。は今でも新政府を許せないというのに。
山崎のことも近藤のことも土方のことも、全部忘れてしまったのかと、斎藤に問いたい。けれどどうやっても酷く詰ってしまいそうで、は黙り込んでしまう。
再び長い沈黙があって、今度は斎藤が口を開いた。
「あの子は―――――一は俺の子なのか? あんなに大きな娘がいるとは思わなかった」
「はい。みんなが京都を離れた後、あの子がお腹にいることが判って………」
の声はどうしてもよそよそしいものになってしまう。斎藤が歩み寄ろうとする分だけ、が距離を置いているようだ。
斎藤に会えたら一番に話したかったのは、一のことだったはずだ。片親だが素直に育ったこと、何気ない仕草が知らないはずの父親に似ていること―――――他人が聞いたら笑うような小さなことで斎藤との繋がりを感じられたことが沢山あった。そういうことを伝えて、十年の空白を埋めたかったというのに。
今は一のことを話す気にもなれない。一を先に帰したのも、斎藤を父親だと紹介するのに躊躇いがあったからだ。目の前にいる男は、が知っている“斎藤一”ではない。
「あの子と知り合いだったなんて思いませんでした。“お巡りさん”としか聞いてなかったんで………」
「父親と同じ名前ってところで気付けばよかったんだが………」
そう言って、斎藤はぎこちなく笑った。自分にあんな大きい娘がいることを知って、動揺しているのだろう。
「あの頃はもう山口の名前になってましたけど、私が嫁いだのは“斎藤一”ですから」
「今は、“藤田五郎”って改名した」
また名前を変えたのかと、は驚いた。新選組時代の名前では不都合が多いのと、新しい人生に踏み出す縁起担ぎを兼ねて改名したのだろう。
の知らない名前になって、ますます斎藤が知らない男のように感じられる。いや、新しい時代を警官として生きている斎藤は、の知らない男だ。
「そうですか………。あ、夕飯の用意をしなくてはいけないので、今日はこれで失礼します」
このまま一緒にいても、今の精神状態ではまともにはなせない。次があるのか分からないが、は立ち上がった。
「待てよ」
席を離れようとするの腕を、斎藤が強く掴む。
「何ですか?」
その声は自身が驚くほど冷淡で、斎藤も怯んだ様子を見せた。
十年も探し続けた相手のはずなのに、現実を知って失望するのは一瞬だ。にとって、今の斎藤はただの裏切り者なのだと改めて知った。
自分のこの十年は何だったのだろうと思うと、は涙が出そうになる。悲しいのか悔しいのか自分でも判らないが、今まで想像していた涙と違うことだけは確実だ。
斎藤の手が力無く離される。彼もまた、の反応に失望したのかもしれない。
「警視庁にいるから、気が向いたらきてくれ。藤田警部補と言ってもらえれば分かる。それから一のことは―――――」
「一には私から話します。あの子のことは、私が一番よく解ってますから」
斎藤の言葉を拒絶するように言うと、は店を出て行った。
一の母親が捜していた“お父さん”が自分のことだったというのは衝撃的だった。初めて見た時から雰囲気がに似ていると思ってはいたが、親子なら似ているはずである。
そして何より衝撃的だったのは、のあの反応だ。涙の再会劇をやれとまでは言わないが、あんなに冷淡なものだとは思わなかった。まるで見知らぬ他人と話しているかのようで、一から聞いていた話とはまるで違う。
まあ、十年も経てばそういうものなのかもしれない。斎藤はずっと独りだったが、には守らなければならない子供がいたのだ。女は現実的な生き物であるし、いつまでも十七の娘のままではいられない。感動の再会劇をやるには、時間が経ちすぎていたということか。
そうだとしても、あのの雰囲気は何だったのだろう。まるで見えない壁があるようだった。話し方も他人行儀で、本当にだったのかと首を傾げたくなるほどだ。十年も斎藤を探し続けていた女のものとは思えない。
一の話では、は再婚の話を断ったこともあるという。子供の耳に入るくらいだから、一が知らないところで何度もそんな話はあったはずだ。それをすべて断って今日まで独りでいたということは、まだ斎藤に愛情が残っていると思うのだが。まさか一の知らないところで新しい男ができたということはあるまい。
しかしのあの様子は、斎藤を疎んじているようにも思えた。新しい男がいるとしたら、今更出てきた斎藤は邪魔者でしかないだろう。
そういえば斎藤が一に父親の捜索を申し出た時、お母さんが嫌がるから、と言っていた。父親が捕まるかもしれないから、とあの時は言っていたが、本当はは本気で捜す気が無かったのではないかと思えてきた。各地を転々としていた頃は本当に捜していたのだろうが、最近になって新しい男ができたとしたら、もう斎藤を捜す必要は無い。
に新しい男がいるとしたら―――――そういうことがあっても仕方がない、と斎藤は思う。子連れではあるが、はまだ若いのだ。人生をやり直す機会があれば、いくらでもやり直せる。
が新しい人生を歩むことをあっさりと受け入れてしまう自分に、斎藤は驚いた。十年の空白は、知らず知らずのうちに気持ちを風化させていたらしい。これではのことを冷淡とは言えない。
一応、には警視庁にいることを伝えたが、来ることはあるだろうか。あの様子ではないかもしれない。最悪、今日が最初で最後になることもあるだろう。それならそれで良いような気がした。十年も放っておいて、今更亭主面するのも図々しい。
ただ、一のことだけは気懸かりだ。今更父親と名乗り出るのは難しいかもしれないが、何か父親らしいことはしてやりたい。には迷惑かもしれないけれど、一は斎藤のたった一人の娘なのだ。
今度あの公園に行く時は、子供が喜びそうな菓子を持って行こうか。は甘い物が好きだったから、きっと一も喜ぶだろう。
との十年の空白は埋められないものになってしまったようだが、一とはまだ間に合うだろうか。“お父さん”と呼ばれることが無くても、と山崎のような関係になれたらと思う。
お互いまともに話せないまま自己完結です。まあ、突然の再会だったから、心の準備ができてなかったんでしょう。
でも、一ちゃんはまだ斎藤に懐いてますから、父親役で挽回だ。頑張れ、斎藤!