幸福はここに。そしてすべてに。
何とか一緒に暮らすところまで漕ぎ着けたけれど、“家族”というにはまだ空気はギクシャクしている。とのことは何も問題は無いのだが、困ったのは一のことだ。とは一緒に暮らした経験もあり、短い間ではあったが夫婦だったのだから良いが、一にとっての斎藤は突然生活に入り込んだ異物である。どう接していいものか戸惑っているのだろう。
斎藤も斎藤で、“娘”の扱いには困っている。子供の相手はで学んだつもりだったのだが、誰に似たのか一は難儀な性格なのだ。の時のように物で懐柔するのは難しい。
物で釣るのが無理なら、一緒にいる時間を増やそうと早く帰るようにもしてみたのだが、微妙な空気で過ごす時間が増えただけだ。世の父親というのは、どうやって子供と接しているのだろう。
「一緒に暮らすのは、まだ早かったのかもしれんなあ」
一が寝た後、斎藤はぽつりと漏らした。
「家族なんだもの。早いなんてことはないわ」
斎藤にしては珍しく弱気な発言に、はすかさず元気付けるように言う。一日も早く一緒に暮らすように提案したのはなのだ。
家族だとは言うけれど、一はまだそう思ってはいないようである。何となく避けられている節が見受けられるし、何よりまだ一度も“お父さん”と呼ばれたことが無いのだ。これは地味にきつい。
「一はそうは思ってはいないようだが………」
「きっと恥ずかしがっているのよ。意外と人見知りなのよ、あの子」
「………………」
なりに気を遣っての発言なのだろうが、これも地味にきつい。一が人見知りではないことは、斎藤が一番良く知っているのだ。ああいう風になったのは、実の父親だといってからである。
すぐに信頼を得られるとは思ってはいなかったが、殆ど口を利いてもらえないとも思っていなかった。これは先が長そうだ。
「恥ずかしがってるだけならいいんだが………」
「難しい年頃なのよ。私にも覚えがあるわぁ」
は懐かしそうな顔をするが、彼女に“難しい年頃”とやらがあったのか、斎藤は思い出せない。斎藤の知らないところであったのかもしれないが、一はより難しそうである。
とにかく会話をすることが大事なのだが、会話の糸口が見付からない。以前は自然に世間話をしていたはずであるが、今は不思議と話題が見付からないのだ。
一が好きなものや興味があるものが何かないかと観察はしているものの、これがなかなか難しい。観察しようにも、斎藤が見ていることに気付くと逃げてしまうのだ。
は恥ずかしがっているだけだと言うけれど、これは確実に嫌われたとしか思えない。まあ、嫌う一の気持ちも解らないでもないのだが。
そうやって微妙な生活が続いたある日、帰り道で一が猫と遊んでいるのを見つけた。首輪をしていないから、野良猫だろう。
「よう」
斎藤が声をかけると、一はびくっとして立ち上がった。
いつもならこのまま逃げられてしまうところであるが、今日は逃げられるわけにはいかない。やっと会話の糸口が見付かりそうなのだ。
逃げる隙を与えないように斎藤は続けて声をかけた。
「猫、好きなのか?」
「えっ……あの、む……昔飼ってたんで………」
まるで不審者に声をかけられたように、一はうろたえる。斎藤が制服を着ているから良いようなものの、これでは通報されても文句が言えない。
初対面の時ですらここまで警戒されなかったというのに、そんなに嫌われてしまったのかと斎藤は落ち込んでしまう。けれど、ここで落ち込んでいては先に進めないのだ。
猫を飼っていたというのは、祇王と黒猫のことだろうか。一の記憶に残るまで飼っていたとなると、長生きの部類だろう。
「祇王と黒猫のことか?」
「何で知ってるんですか?」
一は驚いた顔をした。
「祇王は京都にいた頃に祇王寺で拾った猫だ。黒猫は勝手についてきたんだが。お前が覚えてるってことは、長生きしたんだなあ」
あの猫にはいろいろと思い出がある。山崎の目を盗んで初めて遠出した時に拾った猫であるし、あの猫を巡って要らぬ騒動に巻き込まれたこともある。何だかんだあったが、一番楽しかった頃を知っている猫だった。
「祇王のこと、覚えていたんですね」
斎藤が猫のことをことを覚えているのは、一には余程意外なことだったのだろう。斎藤が猫に関心を持っているのが意外だったのか、何処で拾ったかなんて覚えているのが意外だったのか。
斎藤自身、積極的に祇王や黒猫を可愛がっていたわけではなかったが、それくらいは覚えているものだ。と行った場所も、どんな話しをしたのかも全部覚えている。
「そりゃあ飼ってた猫くらいは覚えてるさ。そこまで耄碌してない」
冗談めかして、斎藤は苦笑した。
猫の名前を覚えていたことは、一にとっては重大なことだったらしい。警戒が少し緩んだように見えた。
「お母さん、よく祇王を拾った時のことを話してました」
「ああ………」
思い返してみれば、と二人で遠出したのは、後にも先にもあれ一度きりだ。結婚前は山崎の監視があったし、結婚してからは世情が変わってそれどころではなくなってしまった。にとっても、祇王寺行きは大切な思い出だったのだろう。
いつか今の生活が落ち着いたら、京都に行ってみようか。良い思い出ばかりではないけれど、二人で行った場所にもう一度行ってみたい。勿論、その時は一も一緒だ。
あの頃の斎藤たちが見た景色を一はどう感じるのだろう。十年の間に人は変わってしまったが、町並みはそう変わってはいないはずだ。
「落ち着いたら祇王を拾った所に行ってみるか?」
「京都に?」
一は怪訝な顔をした。
「家族旅行というのも悪くはないだろう」
「家族旅行………」
そのまま一は黙り込む。
一にとっての“家族”はまだだけで、斎藤は頭数に入っていないのだろうか。考え込んでいる間が斎藤には重苦しい。
けれど環境を変えれば、一の気持ちも少しは変わるというものだ。と歩いた町並みを案内しながら、この十年間一日も忘れたことなど無かったことを話せば、東京にいるよりも伝わる気がする。
「家族……あんまり実感がないんですけど………」
子供というのは正直なものだが、同時に残酷でもあるものだ。斎藤の一番痛いところを突いてくる。
家族の実感が無いのは斎藤も同じだ。だからこそ、積極的に家族にならなくてはならないのだ。
「だからこそ家族旅行を―――――」
「忙しいのに、いつ行くんですか?」
冷静かつ的確な突っ込みである。というより、斎藤の話など聞く気など無いのかもしれない。
最初に忙しいと言ったのがいけなかった。しかし斎藤の仕事が多忙なのは事実であるし、纏まった休みを取るのが難しいのも事実である。今は何とかやりくりして早く帰るようにはしているが、長期休暇となるとどうなるか。
しかし一に家族として受け入れられるためなら、何とか工面しなければならないと思う。ある意味、斎藤の人生がかかっているのだ。
「休みなら何とかする」
「無理しなくてもいいですよ」
子供とは思えないほど冷めた声で拒否されてしまった。
「しかし………」
「今だって無理してるんでしょ? そこまでしてくれなくてもいいですから」
そこまで言われると、とことん拒絶されているようで斎藤は何も言えなくなってしまう。無理をしている様子は見せていないつもりだったが、一はそう感じていたのだろうか。
これは斎藤が思っていたよりも手強い。これまでどんな敵にも怯んだことは無かったが、これは心が折れそうだ。
返す言葉が無くて黙り込んでいると、は猫を撫でながら言った。
「お仕事が忙しいのに、無理して帰ってきてくれてるんだって、お母さんが言ってました。そんなに無理してくれなくてもいいのに………」
拒絶しているのかと思いきや、一の口調は穏やかだ。本当に斎藤を気遣ってくるのかもしれないが、試しているのかもしれない。
それにしても、無理して早く帰っているなんて、も余計なことを言ってくれたものだ。なりに斎藤と一の仲を取り持とうと考えたのかもしれないが、無理をしているなんて言ったら一が気にしてしまうではないか。
「無理してるっていうか………。今まで一緒にいられなかったからな。お互いを知る時間をだな………」
上手いことを言うつもりだったが、言っているに訳が分からなくなってきた。娘の相手というのは難しい。
山崎もこんな苦労をしていたのだろうかと、斎藤はふと思った。赤の他人から本当の親子のようになるには、相当苦労したに違いない。それだけにのことは一層可愛かったのだろうと今になって思う。
を拾ったばかりの頃は、山崎は昼も夜も付きっ切りだったという。流石にそこまでは今の斎藤には無理だからなるべく一緒の時間を作る努力をしていたのだが、一には逃げられてばかりである。何が悪いのか、斎藤にも分からなくなってきた。
「いきなり父親だと言われて、お前も困っているだろうが、正直、俺もどうしていいのか分からん。だから家族らしい時間を作ろうと思ったんだが………」
「………………」
一は困ったように黙り込む。斎藤は良かれと思ってやっていたことだが、一には負担になっていたようだ。
望んでもいない気遣いは負担なだけだろうが、斎藤にはこれ以外の方法が思いつかないのだ。これが駄目なら、もう打つ手がない。
「私―――――」
長い沈黙の後、一は思い切ったように口を開いた。
「私、“お父さん”っていうのがよく分からないんです。だから………」
「それはお互い様だ。だから、こうやって話す時間が必要なんだよ」
一は拒絶していたわけではなく、斎藤と同じ悩みを抱えていたのだ。大人でも頭を抱えていたのだから、子供にはもっと辛かっただろう。
十年という空白を埋めるのは、本当に難しい。けれど一も家族になることを前向きに考えてくれているのなら、時間はかかっても“家族”になることは不可能ではないはずだ。
「いきなり出てきて“お父さん”と呼べというのは無理だろうが、そのうち慣れてくれればいいさ。これからはずっと一緒なんだから」
早く父親にならなくてはと焦っていたが、一の都合というものもある。斎藤の都合だけで事を運ぼうとしたことを、今更ながら反省した。
焦らなくても、これから時間はいくらでもあるのだ。いつになるか分からなくても、斎藤が本当の意味で父親になれる日はきっと来る。
早く帰る努力をすることが一の負担になるというのなら、それはやめることにしよう。互いに無理のない範囲で歩み寄る方法は、また考えればいい。
「あの……も、無理しなくてもいいですから」
一は恥ずかしげにモジモジしながら小声で言った。
よく聞こえなかったが、“お父さん”と言ったのだろう。聞こえなくても、そう言ったことは斎藤にとっては大きな前進だ。
今ははっきり口に出せなくても、いつかきっと“お父さん”と呼んでくれる日が来る。たとえそれが遠い先のことであっても、必ず来るのだと思えば一気に目の前が明るくなったような気がした。
「あら、二人で何してるの?」
仕事帰りのが声をかけてきた。夕飯の買い物で通りかかったのだろう。手には買い物袋を提げている。
「お母さん!」
一は立ち上がると、すぐさまの買い物袋を持った。
斎藤と話していた時は視線も合わせないくらいだったが、に対してはいつも通りの笑顔だ。
さっきまでの斎藤であれば、こんな差にも落ち込んだところであるが、今は違う。この対応の差も、これまでの積み重ねた時間の差なのだろうと素直に思う。
斎藤と一の親子としての関係はまだ始まったばかりなのだ。血が繋がっているから親子になるのではなく、時間をかけて親子になっていけば良い。山崎ともそうだったではないか。
「俺が持とう。重いだろう」
斎藤が手を出すと、一は一瞬身を引きそうになったが、黙って買い物袋を差し出した。
片手には買い物袋、もう片方の手は空いている。少し考えた後、斎藤は思い切って空いた手を一に差し出した。
「じゃあ、帰るか」
「……………」
差し出された手を、一は凝視している。どういうつもりで出された手なのかは、一も理解しているようだ。けれど、どうしていいのか迷っているようである。
が一くらいの頃はよく山崎と手を繋いで歩いていたものだが、一はもうそんな歳ではないと思っているのだろうか。困ったことに、斎藤は“今時の子供”というのがよく分からない。
も、一の反応を見守っているようだ。親子で手を繋ぐというだけのことに三人それぞれ緊張していて、“家族”への道程はまだまだ遠いようだ。
手を繋ぐというのはまだ早かったのか、逆にもう遅すぎたのか。この手を引っ込めるべきかと斎藤が迷っていると、一がおずおずと手を伸ばした。
というわけで、完結です。まだまだ先は長そうだけど、斎藤もきっと、山崎さんと主人公さんのような親子になれるよ。娘の恋路を全力で妨害するところまで似たら困るが(笑)。
子供はすぐに大きくなりますし、一ちゃんがお年頃になった時が“父親”として試される最初の難関だな。左之助みたいな男に引っかかった時は、刀を振り回して大変なことになりそうだ(笑)。そして、その時に山崎さんの心情を思い知るといいよ(笑)。
それにしても、「斎藤と娘の物語」とはいえ、主人公さんの空気っぷりが凄かったな……(苦笑)。