母乳のあとは牛乳でした

 新しい時代になると、新しい商売が生まれる。洋服の仕立て屋や、写真屋、洋食屋だ。他にもいろいろあるようだが、いちいち覚えてはいられない。
 そして新しい商売が生まれれば、新しい商品も増える。比古の馴染みの酒屋でも、洋酒なるものを扱うようになった。色を付けているのか、何か混ぜ物をしているのか、茶色い奇妙な酒である。ビールという泡の出る酒もあるらしい。西洋人というものは、奇妙なものを好むらしい。
「洋酒っていうのは売れてるのか?」
 仰々しい瓶が並ぶ棚を眺めながら比古が尋ねた。
「西洋料理店には配達してますけど、普通の人は買わないですねぇ。強いお酒だから、水で薄めて飲むらしいですよ」
 配達の準備をしているが答える。
 が準備をしているのは、白い液体が入った瓶だ。これは牛乳といって、牛の乳らしい。滋養が付くと評判で、病院や病人がいる家に配達しているらしい。
 牛の乳を飲むなんて逆に病気になりそうな気がするが、西洋人は毎日のように飲んでいるのだそうだ。だから西洋人の体は大きくなったらしいのだが、それは嘘だろうと比古は思っている。今まで牛乳を飲んだことのない比古の体は、西洋人より大きいのだ。西洋人というのは見たことが無いけれど、そう言われたことがある。
「その牛乳っていうのは美味いのか?」
「さあ………。薬だから、あんまり美味しくないんじゃないですか?」
 の返事は何とも頼りない。売ってるくせに飲んだことはないのだろう。
 まあ、牛の乳なんて好んで飲むようなものではない。生き血を啜るようなものだと言うものもいるくらいなのだ。
「気になるなら、少し飲んでみますか?」
「いやぁ………」
 酒屋で勧められるものなら何でも飲んでみる比古も、流石に牛乳には腰が引けてしまう。
 はにやにやして、
「あら、新津さんでも牛乳は飲めないんですね」
 “新津さんでも”とは何事か。確かに比古は何でも飲み食いするが、ゲテモノ食いではないのである。
「俺を何だと思ってるんだ」
「いえね、新津さんなら飲めるかなって。最近じゃ、病人じゃなくても学生が飲んでるらしいですし」
 牛乳を飲む度胸が無いとでも言いたいのか。学生も飲むというが、奴らは度胸試しと称して無茶ばかりする連中である。若いうちはそういう遊びもいいが、いい歳をした大人がやるものではない。
 大体、客である比古に勧めるなら、が先に飲んでみせるべきだろう。牛乳なんて得体のしれないものを比古にだけ飲ませようなんて、毒見役ではないか。
「先にお前が飲んでみろ。そしたら俺も飲む」
「女に毒見をさせるんですか?」
 は呆れた顔をするが、呆れたのは比古の方である。分かってはいたが、やはり毒見をさせるつもりだったのだ。
「“れでーはーすと”ってやつだ。西洋人がよくやってるらしいぜ?」
 比古はよく知らないが、西洋では何でも女に先にやらせる習慣があるらしい。変な習慣だと思うけれど、こういう時は都合がいい。
 得意げな比古に、は眉間に皺を寄せて、
「それを言うなら“レディファースト”ですよ。まったく、こういう時だけ調子がいいんだから。いいですよ、じゃあ一緒に飲みましょう」
 そう言うと、は牛乳瓶を開けて猪口に注いだ。
 が、いざ飲むとなると、二人とも躊躇してしまう。何しろ牛の乳なのだ。本当に飲んでも大丈夫なのか、飲んだ途端に牛になるのではないかと心配になってきた。
「………飲まないのか?」
 猪口を見つめたまま固まっているに、比古が声をかける。
「新津さんこそ」
「いや、俺はアレだから。ほら、アレだ。こういう珍しいものは、じっくり観察してだな―――――」
「………ひょっとしてビビってます?」
「ビビってねぇし!」
 別に図星を指されたわけではないが、比古は強く否定する。
 こういう奇妙なものを飲む前には、匂いを嗅いでみたり、じっくり観察をしなければならないのだ。万が一にでも毒になるものが入っていてはいけない。比古は慎重なのであって、断じて怖気づいているわけではない。
 本人が否定しているというのに、は疑わしげな眼で見ている。自分が怖気づいているから、比古もそうだと思っているのだろう。この剣豪を酒屋の店員ごときと一緒にしないでもらいたい。
 憮然としながら、比古は猪口を口に近づける。が、直前で手が止まった。
「何か……えらく生臭いというか、乳臭いな。本当に大丈夫なのか、これ?」
「牛の乳ですからね。こんなもんですよ」
 牛乳のことをよく知りもしないくせに、は当たり前のように応える。
「………そうか」
 確かに牛の乳なのだから、乳臭いのは当然だ。生臭く感じるのも、生物だからと言われればそれまでである。
 となると、生物を飲んでも大丈夫なのだろうか。生ということは、牛から直接飲むようなものである。想像したら、病気になりそうな気がしてきた。
「火を通さなくても大丈夫なのか?」
「みんなこのまま飲んでるそうですよ。火を通すと匂いが強くなるらしいですから」
「そうか………」
 比古はそのまま黙り込んだ。
 みんなが生で飲むということは、それが正しい飲み方なのだろう。何より、これ以上匂いが強くなっては飲みにくそうだ。
「やっぱりビビってるでしょう」
 今度はは頭から決めつけてきた。よほど比古を小心者扱いしたいらしい。
 比古は小心者でもなければ、牛乳なんぞにびくついてるわけでもない。ただ、未知の飲み物に警戒しているだけだ。学生と違って大人なのだから、何事にも慎重なのである。
「よし、わかった! せーので飲むぞ! いいな! せーのっ!」
 勢いだけは良かったものの、やはり一気飲みとはいかず、ちびちびと飲む。しつこいようだが、決して比古はビビっているわけではない。
「う〜ん………」
 一応飲んではみたが、二人とも難しい顔で唸ってしまう。
 薬のように苦くはないが、口の中に独特の匂いが残る。美味いか不味いかと問われると、別に不味くはないといったところか。飲めば体に力が漲るというわけでもなく、かといって具合が悪くなるというわけでもない。要するに拍子抜けというところだ。
「………何か、思ったより普通だな」
「普通ですね………」
 も凄いものを想像していたらしく、拍子抜けした様子だ。の体にも特に変化はないらしい。
「本当にこれで滋養が付くのか?」
 鰻のように脂っこくもなく、山芋のようにドロドロしているわけでもない。体が熱くなるわけでもなく、これが本当に体に効くのか疑わしく思えてきた。西洋のものは無条件に賛美する風潮に乗せられて、何でもないものまで有難いもののように言っているだけなのではあるまいか。
 もそれは同じようで、首を傾げて、
「どうなんでしょうねぇ………」
 思い切って飲んだ割には劇的な感想も効果もなく、二人は残った牛乳を見ながら低く唸った。
<あとがき>
よく考えてみたら、牛の乳を飲むって凄いですよね。牛の母乳だよ? 最初に飲んだ人、何を考えてたんだろう……。
 肉食と同様、牛乳も当時の日本人にとっては口にするのに勇気が必要なものだったようです。「生き血を啜るようなものだ」という意見が新聞に載るくらいですから、相当な拒絶反応があったのだと思われます。
 師匠なら深く考えずに飲んでくれそうな気もしましたが、変な食べ物には慎重な気もします。山暮らしでは、変なものを食べたら死に直結しますからね(笑)。
戻る