おいしい記憶をつくりたい。
仏教伝来から千二百年、日本人は肉食から遠ざかっていた。もちろん何にでも例外はあるもので、野獣の類を食べる者は少数ながらも存在したし、“薬食い”と称して肉食を行うことはあった。しかし大部分の日本人にとっては、肉食は避けるべきものであった。ところが黒船によって肉食文化が持ち込まれ、少しずつではあるものの牛や豚を食う習慣が日本人にも広がりつつある。牛鍋も最初こそ荒くれ者の度胸試しの料理であったが、今では普通の人々も口にするようになった。世の中も変われば変わるものである。
とはいえ、まだ肉食の禁忌は生きていて、家で肉を調理する際は鍋や皿は使い捨てである。肉に使った鍋や皿は穢れてしまって、他の料理には使えない。台所だって肉を調理すれば穢れるから、調理するのは母屋から離れた庭先である。
自宅で肉を調理するのはこんなにも大変なのに、何を思ったのか翁が何処からか牛肉を手に入れてきた。お陰で『葵屋』は大変な騒ぎである。
「牛肉って、どう料理するんだ?」
外で牛鍋を食べたことはあるものの、『葵屋』では牛肉を調理したことはない。黒尉が首を傾げる。
「普通に牛鍋にしたら?」
「蒼紫様が反対するわよ。台所を使うのだって、どうにか説得したくらいなんだから」
お近の提案を、お増が即座に却下する。
翁が牛肉を貰って帰った時だって、蒼紫は家に入れることすら反対したのだ。それをどうにか台所までは牛肉を持って入ることを許してもらい、今に至っているのである。
蒼紫は御一新の際に一番に断髪したり洋装を取り入れたくせに、肉を調理したら家が穢れるなどと古臭いこと言う。変なところに保守的なのだ。肉料理を楽しみにしている翁の方が柔軟である。
そんなわけで、座敷で調理しながら食べる牛鍋は、座敷が穢れると確実に反対される。外でやろうにも、これだけの人数が庭先で牛鍋を囲んでいたら、近所の噂になってしまう。牛鍋が広まった今も、家庭での肉食は奇異なもののままなのだ。
「佃煮にしたらどうです? それなら七輪ででもできますし」
の提案に、一同が考え込む。
佃煮なら外ででも作れるし、牛肉特有の獣臭さも誤魔化せる。学生を中心に売れているとも聞くから、牛鍋に並ぶ調理法だろう。
しかし、せっかくの牛肉を佃煮にするというのは、今度は翁の物言いが付きそうである。おそらく翁は牛鍋を期待しているはずだ。
こういう時、どちらを立てればいいのか悩ましいところである。年長者で『葵屋』の主人でもある翁を立てて牛鍋にするのが妥当なのだろうが、御頭である蒼紫の意見を無視するのは角が立つ。しかも蒼紫は何かと面倒臭い性格の持ち主である。これで臍を曲げたりしたら、後々まで尾を引きそうだ。
「料理より、二人の説得が先だな」
どう考えてみても、やはりそこに落ち着く。こちらの方が牛肉の扱いより厄介そうで、黒尉は溜息をついた。
仏間の前を通ると、蒼紫が不機嫌な顔で仏壇の扉に和紙で目張りをしていた。蒼紫はたまに妙なことをするが、今日は一段と磨きがかかっている。
放っておくべきかとも思ったが、仏様を封じるかのような行動は流石に無視できない。まさかおかしなものに取り憑かれたわけではないだろうが、は恐る恐る訊いてみた。
「あの……何をしてるんですか?」
「神封じだ」
の方を見もせずに、蒼紫は作業をしながら答える。
「神封じ?」
「万が一にでも牛肉の穢れが付いたらいかん。仏壇と神棚はこうやって封をしておくのだ」
「はあ………」
こんなことまでやるとは、蒼紫の牛肉嫌いは重症である。牛鍋が流行している御時世で、今更穢れなんて馬鹿馬鹿しいと思うけれど、大真面目に神封じとやらをしている蒼紫には言いづらい。
しかしここまでやるとなると、牛鍋にしたいと言い出せる雰囲気ではない。やはり佃煮にするべきか。それにしたって、この分では牛肉に手を付けないかもしれないが。
蒼紫は親の仇のように嫌っているけれど、は牛肉は美味しいと思っている。体が強くなると医者も言っているし、食べ続けていれば西洋人のように立派な体格になるのだそうだ。だからこそ翁も貰ってきたのだろうし、蒼紫にも食べてもらいたい。
「あのー、蒼紫様―――――」
「まったく、時代が変わるとこんなことまでしなくてはならんのか。肉なんぞ食わんでも、今まで不自由なかったものを」
説得しようと思ったら、先を越されてしまった。これは手強い。
しかし、せっかく手に入った貴重な牛肉である。みんなだって楽しみにしている。何が何でも説得しなければ。
「でも蒼紫様、牛肉を食べると体も強く立派になると聞きますよ。いい機会だから一度―――――」
「今のままで十分だ。これ以上大きくなったら、着るものがなくなる」
あっさり切り捨てられてしまった。確かに蒼紫は今でも西洋人並みであるし、これ以上立派になったら不自由の方が多いだろう。強くなるというの線で攻めても、今も十分強いのだから牛肉に頼るまでもない。
平均的な日本人相手なら通用する言葉も、蒼紫が相手では全く使えない。何事も規格外というのは扱いづらいものだ。
蒼紫が頑なに肉食を嫌うのは、“穢れ”なんて曖昧なもののせいだ。ああいうのは気の持ちようでどうにでもなるものである。気の持ちようなら、食べてもどうということはないということを説明したらいいのだ。証明してくれる絶好の人物がいるではないか。
は一つ深呼吸をして、厳かに口を開いた。
「畏れ多くも金城陛下の御膳には毎日のように牛肉が使われているとか。けれど、陛下の御威光は陰るどころか強くなる一方。肉食が穢れるというのは、ただの迷信です」
「………………」
これは効いたらしく、蒼紫は深く考え込む。
天皇の食卓に変なものが出されるということは絶対に無いのだから、牛肉は無害な食材ということである。むしろ体に良いから出されているのだろう。
が、蒼紫は思いついたように、
「それはこの世で一番尊いお方なのだから、穢れを跳ね返されておられるのだろう」
「うーん………」
は言葉に詰まってしまう。やはり蒼紫は一筋縄ではいかない。穢れを跳ね返すという発想は無かった。
天皇というのは神様の子孫なのだから、確かに牛肉の穢れくらいどうということはないのかもしれない。庶民とは基が違うのだ
蒼紫は続けて、
「大体、肉食は内務卿の押し付けで、御心に反するものと聞く。政府に利用されて、お気の毒なことだ」
「えーっと、それはですねぇ………」
それはいつぞやの新聞にも書いてあった。肉食反対派の意見だからどこまで本当なのか分からないけれど、蒼紫には信用に足る記事だったのだろう。
先に天皇を持ち出したのはだが、同じく天皇を持ち出して反論されると、ぐうの音も出なくなってしまう。これは困ったことになった。
本当に、どうして蒼紫はここまで頑ななのか。牛肉は美味しい上に滋養が付くのだから、試しに食べてみればいいのに。穢れだの神封じだの言っているが、別に蒼紫は信心深いわけではないのだ。
「御心に反するかもしれないですけどねぇ……えーっと、滋養が付くってお医者さんも言ってますし、だからですねぇ………」
何と反論していいものか、は頭を抱えた。
結局、説得は失敗のまま、夕食になってしまった。今日の主菜は牛肉の佃煮ということで、蒼紫は部屋に籠って出てこない。
「蒼紫様も牛肉食べればいいのに………」
せっかくのご馳走なのに、操はしょんぼりしている。
翁はむっつりして、
「あやつは頭が固くていかん。あれでは世の中に置いて行かれるぞ」
自分が貰ってきた牛肉を汚物のように扱われたのだから、翁が怒るのは無理もない。ご馳走を囲んで愉しい夕食のはずが、空気は最悪である。
まったく、牛肉というのは厄介な食材だ。千年の禁忌を破るのだから、肉食は天地が引っくり返るような大事件ではあるが、牛鍋が登場してもう何年も経つのだ。そろそろ蒼紫にも慣れてもらわないと困る。これからは『葵屋』だって肉を使った料理を出すことになるかもしれないのだ。
「後で蒼紫様に持って行ってみます。お腹が空けば、もしかしたら食べてくれるかもしれませんし」
「放っておけ。一食くらい抜いても死にはせん」
の提案を、翁はぴしゃりと撥ね退けた。
「はあ………」
一食くらい抜いても死にはしないだろうが、だからといって放っておくのもどうかとは思う。これからも肉料理を出す機会はあるだろうし、その度にこの調子では心置きなく食事を楽しめないではないか。
蒼紫もきっと、意地になってるだけだと思う。きっかけさえ作ってやれば、牛肉を食べるようになるはずだ。
「蒼紫様ー、出てきてくださいよー。あーおしさまー」
蒼紫の夕食を持って部屋の前で呼びかけるものの、反応がない。まだ寝る時間ではないのだから、臍を曲げて無視していいるだけだろう。
「お肉、おいしいですよ〜。蒼紫様が食べてくれないと、牛さん無駄死にになっちゃいますよ〜。枕元に化けて出てきますよ〜。ね〜蒼紫様〜、聞いてます〜?」
「煩い!」
勢いよく襖が開くと同時に怒鳴られてしまった。一時間近くこの調子だったのだから、蒼紫が怒るのも当然である。
予想通りだったのでは全く動じず、満面の笑顔で、
「お肉、佃煮にしたんですよ。食べてみてください」
「いらん」
予想していたが、蒼紫は取りつく島もない。見るのも汚らわしいと思っているのか、怒ったように顔を背けている。
「火打ち石でお浄めもしましたよ。何ならここでもう一度浄めましょうか?」
「そんなもの、何度やっても同じだ」
蒼紫は完全に怒っている。そんなに毛嫌いしなくてもいいだろうに、もう意地になっているのだろう。本当に面倒臭い男である。
「蒼紫様が食べないから、みんながっかりしてましたよ。操ちゃん元気なかったですし」
「がっかりするのは、そっちの勝手だ。俺は知らん」
怒っているのだろうが、酷い言い草だ。がっかりするのがたちの勝手なら、変な意地を張って牛肉を食べない蒼紫だって勝手ではないか。
もう牛肉が穢れているとか根拠の無いことを言っている時代ではないのだ。空気を読んで大人しく食えばいいのである。上の者が時流に乗ってくれないと、たち下の者が大変なのだ。もう本当に本当に本当に―――――
「あー、もうほんっと面倒くさいんだから………」
心の中で呟いたつもりが、しっかり声に出てしまった。も吃驚したが、蒼紫も驚いた顔をしている。
「め……面倒くさくて悪かったな」
睨み付けてはいるものの、蒼紫は少々怯んでいるようだ。まさか面と向かってこんなことを言われるとは思わなかったのだろう。
ここは謝っておくべきかとは迷ったが、言ってしまったものは仕方がない。開き直って一気に本音を吐き出す。
「そう思うなら、食べてくださいよ。蒼紫様が意固地になってるせいで、もう今日は空気最悪だったんですから。牛肉食べる度にこんな面倒起こされたら、こっちが大変なんですよ。いい加減、少しは歩み寄ることを覚えてください」
「〜〜〜〜〜〜」
蒼紫は何か言い返したそうな顔をしているが、上手い返しが見つからないのか口を真一文字にしたまま黙っている。
蒼紫も一応、自分の非は理解しているのだろう。これまで問題が起きても誰も何も言わなかったから、何となくそのまま流してきただけだ。しかし世の中は変わっていっているのだから、そろそろ蒼紫も変わらなくてはいけない。
しばらく無言の睨み合いが続いて、漸く蒼紫が口を開いた。
「……食えばいいんだろう」
その一言にの顔がぱあっと明るくなった。
蒼紫は明らかに嫌々言っているが、内心はどうであれ牛肉を食べる気になったのだ。一口食べれば蒼紫も牛肉を好きになるはずである。
「じゃあ、早速いただきましょうね。あー、よかった。これで家でも肉料理が出せますよ」
弾んだ声で部屋に入ろうとするを、蒼紫は慌てて遮った。
「外で食う! そんなものを中に入れるな!」
そこは絶対に譲れないらしい。
部屋の中だろうが外だろうが、どうせ食べてしまうのだから同じだろうとは思うのだが、そこを突っ込むとまた振出しに戻ってしまいそうだから黙っておく。蒼紫なりの拘りというものがあるのだろう。
「じゃあ外で食べましょうね〜」
蒼紫の気が変わらないうちにと、はいそいそと盆を運んだ。
牛肉の皿の上でしつこく火打石を鳴らして、漸く蒼紫は箸を取った。が、そこから先が進まない。一旦は決心したものの、いざ食べるとなるといろいろ思うところがあるのだろう。
「さあ、思い切っていっちゃってください。大丈夫ですって。変なものは入ってませんから!」
なかなか食べようとしない蒼紫を励ますように、は言う。
蒼紫は心底嫌そうな顔でと牛肉を交互に見ていたが、遂に観念したのか思い切ったように牛肉を口に入れた。
しかし口に入れたはいいものの、なかなか飲み込むことはできないようで、いつまでも口をもぐもぐさせている。心なしか顔色も冴えないようだ。
「………美味しくないですか?」
思っていた反応とかなり違って、も心配になってきた。予定では、蒼紫は牛肉の美味しさに感動し、これからは大いに牛肉を食べようと言い出すはずだったのだ。
やっとの思いで牛肉を飲み込んだ後、蒼紫は疲れ切ったように口を開いた。
「………想像したより獣臭い………」
「あっ、それはきっと、冷めちゃったからですよ! 出来立ては美味しいんですって! そうだ、温め直しますから、もう一度試してみましょうよ」
「………いや、いい」
は必死になって提案したが、あっさりと断られてしまった。牛肉独特のクセがどうしても嫌だったのだろう。
牛肉は不味いものと蒼紫が思い込んでしまったら、ますます『葵屋』で肉を食べる機会が無くなってしまう。かといって、無理矢理口に突っ込んだら、蒼紫の牛肉嫌いは加速してしまうだろう。一体どうしたものか。
すっかり困り果てているを見て、蒼紫も考え込む。自分が肉を食わなければ困る者がいるということは理解しているのだろう。
「………好きになる努力はする」
考えに考えた末、蒼紫は重大な決意表明のように言った。
「本当ですか?!」
蒼紫の予想外の歩み寄りに、の声も明るくなる。
今までの蒼紫なら考えられなかったことだが、やっと周りに合わせることも必要だと思うようになったのだろう。たかが食事のことだが、大きな前進だ。
蒼紫が肉食を受け入れてくれれば、『葵屋』の食事も大きく変わる。料亭も旅館も、新しい時代の波に乗ることができるだろう。
「蒼紫様がお肉を好きになれるように、いろんな料理に挑戦しますね! みんなにも言っとかなきゃ」
「そこまでは………」
身を乗り出しそうな勢いのに、毎日肉攻めに遭うと思ったのか、蒼紫は少し弱気になって応えた。
当時の牛肉は解体後の血の絞り出しが不十分だったため、かなり獣臭いものだったようです。原作では剣心たちがたまの贅沢のように食べてましたが、今食べたらそんなに美味しいものじゃなかったかもしれません。
これを書いてる途中に気付いたんですが、江戸時代には毎年の寒中に彦根藩が赤斑牛の味噌漬けを徳川御三家に献上するのが恒例だったそうで、それなら蒼紫も肉食にはそんなに抵抗ないんじゃね? 「赤斑牛なら食べても身が穢れない」とか屁理屈をこねて、普通に食べそうな気がしてきたけど、まあいいや(笑)。