花薄

花薄 【はなすすき】 穂の出た薄。
 の店にも秋の草が飾られるようになった。もうこんな季節なのかと、斎藤は改めて秋の訪れを感じる。
 忙しいだけの変化の無い生活を送る斎藤にとって、季節の草花を飾るの店が、季節を感じることのできる唯一の場所だ。草花で季節を感じるようになるとは、斎藤も風流になったものである。
「ススキが出回る時季か………」
 ススキと何か判らないらない花が活けられた花器を見て、斎藤は独りごちる。
「今年は少し早いみたいですねぇ」
 そう言いながら、が小鉢を出した。
 去年より早いのか斎藤には判らないが、が言うのならそうなのだろう。今年は冷夏だったそうだから、それが関係しているのかもしれない。
 ススキが出回るようになったら、月見の季節だ。観月会が至る所で行われるだろう。要人が主催するところでは斎藤が警備に駆り出されることがあるが、今年は声がかからないようだ。
 もしこのまま予定が入らなければ、十五夜に月見と洒落込むのも悪くない。この辺りで一番近いところだと料亭が庭を解放して観月会を行うようだ。
「そういえば、この先の料亭で観月会をやるようだが―――――」
「わざわざ出かけなくても、月は何処ででも見れますのにねぇ。人を集めたら、月見どころじゃなくなっちゃいますよ」
 斎藤が言い終わる前に、は容赦なく切り捨てる。
 観月会に誘ってみようかと思ったのだが、はそういうものにはあまり興味は無いらしい。季節の花を欠かさず飾るから好きかと思っていたが、草花と月見は別物なのかもしれない。
 しかし金を取って人を集めるのだから、主催者もそれなりの趣向を凝らしている。件の料亭は料理を振る舞うのは勿論、華やかな燈篭で庭を照らすのだそうだ。
 観月会と銘打っているものの、ああいう席は月など二の次で、雰囲気を楽しむものである。たまにはそういうのも良いと斎藤は思うのだが。
「月は何処でも見られるが、雰囲気が違うだろう」
「あら、斎藤さんもそんなことを気にされるんですか?」
 がからかうようにくすくす笑う。
 雰囲気だの何だの言っても似合わない形をしているのは斎藤も解っているが、笑われると流石に癪に障る。正直というか、失礼な女だ。
 憮然とするに気付いて、は笑いをおさめる。そしていつものように微笑んで、
「そりゃあ料亭の庭は良いでしょうけど、うちで見る月も悪くないですよ」
と、台所の窓を開ける。
「灯りが無いから月がよく見えるでしょう? この辺りは静かですし、雰囲気も悪くないですよ」
 この辺りは街灯が殆ど無いから、今夜のような半月でも明るく見える。十五夜になればさぞかし夜空に映えるだろう。この時間になれば近所も寝静まっているのか、微かに虫の音が聞こえるくらいだ。
 これも風流といえば風流なのだろう。人が集まる場所では虫の音も聞こえないし、鮮やかな燈篭があっては月が霞んでしまう。
 だが、窓から見えるのが向かいの民家だけというのは、あまりいただけない。ああいう所帯じみたものが見えると、いくら名月でも現実に引き戻されてしまう。何かの拍子に向かいの親父でも出てこようものなら、気分が台無しだ。
 しかしはそういうことはあまり気にならない性質のようで、
「お店を閉めた後、たまにこうやってお酒を飲んでいるんですよ」
「へぇ………」
 妙齢の美人が窓辺で月見酒というのは絵になる。斎藤が同じことをやれば、張り込みか、下手すると不審者扱いになるだろうが。
 斎藤から見ると微妙な景色も、の目には絶景に見えるのかもしれない。こういうのは感覚の違いだから、斎藤が理解できなくても仕方のないことだ。
「お酒、どうします?」
「ああ」
 月見酒というわけではないが、斎藤は応える。
「今日は私もいただいちゃおうかしら」
 は月見酒のつもりなのだろう。いそいそと二人分の酒を用意した。
 もう少しすれば熱燗も良いだろうが、今はまだ冷酒が良い。硝子の器に酒を注ぎ、軽く乾杯をした。
 秋らしい涼しい風に乗って虫の音が聞こえてくる。民家が立ち並ぶ地域なのに、まるで斎藤としかいないようだ。
 こんな風に何も無い月見も悪くない気がしてきた。派手な演出は無くても、月と美味い酒と美味い料理、そしてがいれば十分だ。
「こういうのも良いもんだな」
「でしょう?」
 斎藤の言葉に、は少し得意そうにふふっと笑う。
「美味しいお酒があれば、大抵のことは楽しくなるもんですよ」
「美味い料理もあるしな」
 あんたもいるから、と言いそうになったが、やめた。とはまだそんな軽口を叩ける仲ではないと思う。
 店が終わった後にこうやって一緒に食事をして、店が休みの時に花火をしたり祭りに行ったり、斎藤はにとって他の客とは違うのだろう。どの程度違うのか、斎藤には判断できないのだが。
 前の主人が死んで、一年ほど経つらしい。口説くにはまだ微妙な時期である。一区切りの時期だといえばそうだろうし、まだ早いといえばまだ早い。まあ急ぐような仲でもなし、このままでも良いような気がする。
「あら、そんなことを言われると、おまけをしたくなっちゃいますよ」
 くすくす笑って、はもう一品出してきた。続けて、
「気の合う人が一緒だったら、何も無くても楽しいもんですよねぇ」
「ああ………」
 言おうとしたことを先に言われてしまうと、斎藤は何となく気恥ずかしくなる。
 だが、そんなことを言うということは、も斎藤と同じことを考えているということだ。あからさまに口説くのはまずいだろうが、距離を詰めていくのは悪くないだろう。
「此処から見る月も良いだろうが、うちの庭で見る月も悪くないぞ。ま、庭は殺風景なもんだが」
 さりげない風を装って、斎藤は話題を誘導する。
「あら、そうなんですか?」
「今度の十五夜、うちで一杯やりながら月見なんかどうだ?」
「あらまあ………」
 いきなり話が飛びすぎたか、は少し驚いた顔をした。
 斎藤がの家に上がり込むことは何度かあったが、その逆は今まで無かった。自分の縄張りに相手を入れるのは抵抗が無くても、相手の縄張りに自分が入るのは警戒するのかもしれない。
 頻繁に店に通っているし、職業から何から分かっている相手なのだから警戒することも無いだろうと斎藤は思うのだが、は違うのだろう。男と女は違うのだから、そういう小さなところの感覚の違いは、斎藤も解らないではない。
「いや、いつも世話になってるから、たまにはうちでどうかと思ったんだが。深い意味は無いぞ」
 下心は無いというつもりで言ったのだが、余計に怪しくなってしまった。
 誓って斎藤に下心は無い。全く無いと言えば嘘になるが、それはその時の雰囲気次第と次第ということで、今のところは特別に何かをしようという気は無いのだ。
 この微妙な雰囲気を何とかしなくてはと斎藤が考えていると、が堪え切れないように噴き出した。
「そんなこと解ってますよ。何言ってるんですか」
「あ、ああ………。うん………」
 妙な誤解をされずに済んだのは良かったが、何となく気まずい。誓って斎藤には下心は無いが、あわよくばという気持ちを見透かされているような気がする。否、のことだから気付いているだろう。
 気の利いた返しが出来ないまま、斎藤は酒を飲む。
 無言でちびちびと酒を飲んでいる斎藤に対し、は楽しそうに笑う。
「じゃあ、藤田さんの好きなものを作って持ってきますね」
「いや、食い物は俺が用意しよう。いつも世話になってるんだ」
 の料理も良いが、招待するのだから料理は斎藤が用意するべきだろう。ほどではないが、斎藤だって酒の肴くらいは作れる。
 が、は斎藤が作るとは思っていないようで、怪訝な顔をする。
「わざわざ出前でも取るんですか?」
「つまみくらいなら俺だって作れる」
「藤田さんが作るんですか?」
 余程驚いたのか、は目を丸くした。毎日のようにの店で夕食を済ませているから、斎藤は料理が出来ない男だと思っていたのだろう。
 斎藤が自炊をしないのは、帰りが遅くて作るのが面倒臭いからだ。勿論、の顔を見たいというのもあるが。
 には斎藤が料理をする姿など想像できないかもしれないが、彼も若い頃は自炊をしていたのである。簡単なものなら一通りできるのだ。
「そりゃあ俺だって多少は出来るさ。あんたの口に合うかは判らんが」
「藤田さんの手料理なんて、楽しみですねぇ」
 どんなものを想像しているのか判らないが、は随分と期待しているようだ。前の主人のような腕前を期待されているとしたら、斎藤は困るのだが。
 そんな非常識なことは無いだろうが、一応斎藤は念を押しておく。
「言っとくが、素人だから大したものは出来んぞ」
「解ってますよ」
 そう言いながらも、は期待しているように笑っている。
 期待されるのは悪い気はしないが、過剰な期待は結構重い。これは本を買って料理の勉強をしておくべきか。軽い気持ちで言ったことが、予想外に困ったことになってしまった。
 とはいえ、が期待しているなら少し料理の勉強をしてみるかと、斎藤は前向きに考えてみるのだった。
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