蓮の露

蓮の露 【はすのつゆ】 清浄の象徴。
「………あ」
 向こうからが歩いてくるのが見えた。
 巡回の途中に逢うとは珍しい。というより、昼間に姿を見るのは初めてのことだ。
 世話になっている間は日の高いうちから顔を合わせることもあったが、こうやって日の下での姿を見るのは何とも違和感がある。理由は解らないが、昼間の町を歩くの姿は不自然な感じがするのだ。
「あら、藤田さんじゃありませんか」
 の方も斎藤に気付いて声を掛けてきた。
「ああ………」
 斎藤も初めて気付いた振りをして応える。
 制服を着ているときに声を掛けられるのは、正直困る。特にのような、夜の雰囲気を纏った女は。
 普段着の時は何とも思わないが、警官である自分がこのような女と親しくしていると思われるのは困るのだ。何というか、世間体というものである。
 が、はそんな斎藤の思いなど全く気付いていないように近づいてくる。
「巡回ですか?」
「まあ…うん………」
 誰か知り合いに見られてはしないかと辺りを気にしながら、斎藤は曖昧に応える。
 は斎藤の行きつけの店の主人であるだけで、そんなに人目を気にするほどの相手ではないはずなのだが、何故か過剰に気にしてしまう。気にする方が変に思われてしまいそうなのだが。
 実際、斎藤の様子はどことなく落ち着きがなくて、挙動不審だ。傍から見たら、飲み屋の女将からツケの精算を迫られているようである。
 もそんな斎藤の様子にくすくす笑って、
「そんな顔をしなくったって………。今までの支払いを迫ったりなんかしやしませんよ」
「いや……うん………」
 まさかと一緒のところを見られたくないとはいえなくて、斎藤はまた唸るような声を出してしまう。
 挙動不審になってしまうのは、が悪いわけではない。今更これまでの食事代を払えと迫るようなケチな女ではないことも解っている。問題は全て斎藤にあるのだ。
 人目が気になるというのは、の存在を疚しいと思っているのだろうか。疚しく思う理由は何一つないのだが、それでも“白昼堂々と………”と思ってしまう。
 そう思ってしまうのは、の雰囲気に玄人臭さを感じてしまうからなのだろう。一寸粋な感じに結い上げた髪も、衿の辺りの感じも素人女には無いものだ。何より、普通の女は昼間からこんな朱い口紅は付けない。
 どこから見ても、は“夜の女”である。あの店で見るには良い雰囲気であるが、此処で見ると不自然な感じがしていけない。
 例えば、雲一つ無く晴れ渡った空の下に寒椿が合わないように、は昼の陽射しが似合わない女なのだろう。それが悪いことだとは思わないし、そういう女がいても良いと斎藤は思うのだが。
「寒椿か………」
 口紅の色のせいか、店に飾られていたのが余程印象に残っているのか、を見ていると朱い椿を連想してしまう。女を見て花を連想するなんて初めてのことだ。自分にこんな風流なところがあるとは思わなかった。
「ああ、お好きですか」
 ふふっと笑って、が持っていた包みを見せた。店に飾るつもりなのか、朱い椿の花束である。
 は束から一本抜き取ると、斎藤に差し出した。
「お好きなら差し上げます。どうぞ」
 斎藤は別に椿など好きではないし、巡回途中で貰っても始末に困るのだが、何となく受け取ってしまった。微笑むを見ていたら、断りにくくなったのかもしれない。
 朱い椿をじっと見る。縁起の悪い花だというけれど、こうしてしみじみ見ると美しい花だ。艶やかで凛としていて、冬に相応しい花だと思う。
「お仕事、頑張ってくださいね」
 椿のような艶やかな微笑みを残して、は去っていった。





 丁度空いている花瓶があったので挿してみた。一輪挿しではないから花に対して器が大きすぎるが、無いよりは良いだろう。
「椿ですか」
 書類を持ってきた同僚が、物珍しげに花を見た。この部屋に花が飾られたことなど無いから、何の心境の変化があったのかと驚いているようだ。
 殺風景な執務室の中で、椿は奇妙な存在感を主張している。そこだけ何処からか切り貼りしているかのような違和感がある。まるでさっきののようだ。
「巡回中に知り合いに会ってな。くれると言うから貰った」
 書類に目を通しながら斎藤は何気無く答えるが、どこか言い訳じみていると思った。
 馴染みの店の主人から貰っただけで、後暗いところは何も無い。貰ったのも花一輪なのだから、疚しく思う理由は何も無いではないか。
 に会った時といい、どうしてこうも他人の目が気になるのだろう。斎藤には解らない。
 顔を上げると、同僚が何か察したようににやにやしていた。
「何だ?」
 不機嫌に見上げ、斎藤は尋ねる。
「いやぁ………」
 睨むように見られても、同僚は相変わらずにやにやしている。元々目つきが悪い男だから、不機嫌になられても大して堪えていないのだろう。
「藤田さんにも色っぽい話があったんだなあと思いましてね」
「何のことだ?」
「女でしょう、その花をくれたの」
「………………」
 くれた相手は確かに女だが、同僚が思うような相手ではない。色気はある女だが、色気のある仲ではない。
 女から花を貰うというのは、世間ではそういう風に見えるのだろうか。男が女に送るのはそういうことなのだろうが、その逆はどうなのか、斎藤には判らない。
 思い返してみれば、斎藤はこれまで、女から花を貰ったことが無い。女の方も、斎藤が花を貰って喜ぶような男ではないことを判っていたのだろう。
 そういうわけで、花と女の好意というのは斎藤の中では結びつかない。もそんなつもりで花をくれたわけではないだろう。
「………婆さんだけどな」
 何となく嘘をついた。
 これ以上花のことを引っ張られるのも面倒だったし、うっかりのことを喋ってしまっては更に面倒なことになる。別に何でもない女なのだから話しても構わないようなものだが、何となく知っている人間には話したくなかった。
 話を打ち切ろうとする斎藤とは反対に、同僚はまだこの話題を引っ張りたいらしい。にやにやしながら呟く。
「婆さん、ねぇ………」
 どうやら同僚には嘘を見抜かれているらしい。余計な想像までしているようだ。
 日頃こういう色っぽい気配が無い人間だから、花一輪でありえないくらい想像を掻き立ててしまうものらしい。話の流れで受け取ってしまった花だが、こんなことになるなら断れば良かったと斎藤は後悔した。
「婆さんに花を貰って悪いか」
「いいえ、市民に親しまれるなんて羨ましいですよ」
 斎藤の不機嫌顔も何のその、同僚は含み笑いで答えた。





 斎藤と椿という組み合わせは、余程とんでもないものらしい。執務室にやって来る者全員が花の出所を尋ねてくるのには閉口した。
 それぞれに「知り合いの婆さんに貰った」と答えたのだが、あまり信用されていないようだ。それぞれに勝手な想像をしていったようである。
 花を貰っただけでこんなことになるとは思わなかった。捨てて帰ろうかとも思ったが、せっかく綺麗に咲いているのに捨てるのは勿体無いと思い直す。花には罪はないのだ。
 というわけで、椿は家に持ち帰ることにした。
 自宅には花瓶が無いので、代わりに空いていた小さな酒瓶に挿してみた。かなり貧乏臭く見えるが、萎れさせるよりは良いだろう。
 器は貧乏臭いが、花は変わらず艶やかに凛としている。器が何であろうが、自分には関係無いとでもいうような姿だ。
 あの女のようだ、と唐突にのことを思い出した。
 も周りを気にせずにやりたいようにやる女だ。手負いの斎藤を引き取って面倒を見たのも、閉店後の店で一緒に食事をするのも、何でもないようにやっている。周りの目も、斎藤がどう思っているのかも気にしていないようだ。
 空気が読めないわけではないと思う。接客に関しては、その辺の店よりも遥かに気配りが行き届いているのだ。
 思うままに行動しているのは、自分は自分、と強い信念を持っているからだろうか。周りに何と思われようと、自分の行動に責任を持っている潔い女なのだろう。
 あの朱い口紅から椿を連想していると思っていたが、そんな潔く見えるところも椿を連想させていたのかもしれない。あの花は、散る時は花が丸ごと落ちるという。実に潔い。
 色気があって気前が良くて潔くて、は実に男前な女だ。ああいうのを本当の“いい女”というのだろう。
 今日はちゃんと客としてあの店に行ってみようかと思い立った。何となくの顔が見たくなった。
 椿をくれたのが、花を見て自分を思い出させて店に足を運ばせる作戦だったとしたら、斎藤は見事にの策に嵌っている。
 それでもまあ良いかと思いながら、斎藤は出かける用意を始めた。
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