寒椿
寒椿 【かんつばき】 寒中に咲くツバキ。
最近、家の近所に小料理屋があるのを見付けた。暖簾の感じからして随分前からあるような感じで、今まで気付かなかったのが不思議なくらいだ。斎藤は外で飲む習慣はあまり無いのだが、この店には月に2、3度ほど通っている。地味な店構えの割に珍しい地酒を揃え、しかも値段が手頃なのが良い。何より、一人で静かに飲める雰囲気が気に入った。
こういう店は何度か通うようになると、店主が話しかけてくるようになるものだが、此処の主人はそういうことが無い。店主と話すのが楽しみだという者もいるが、斎藤は放っておかれる方が落ち着けるのだ。
そんなわけで、この店は蕎麦屋以外で斎藤の数少ない行きつけなのだが、以前から少し気になっていることがある。それは此処の主人のことだ。
この店は女主人が一人で切り盛りしているのだが、やる気があるのか無いのか、愛想の一つも口にしない。斎藤にだけかと思いきや、他の常連にもそうのようなのだ。殆どの客が一人で静かに飲んで、静かに帰っていく。
女主人も自分から何かを勧めてくることは無く、客に訊かれて初めて酒や料理を出すといった具合だ。そのくせ御品書きに無いものがやたらとあるのだから、一体どういうつもりなのか。商売っ気が無さ過ぎて、斎藤の方が心配になるくらいなのだ。
大体この店は、常連客が殆どのようである。多分であるが、この店で一番新しい客は斎藤だ。いつ行っても知った顔ばかりで一見客がいないというところも、変な店である。
さり気なく客を観察してみると、価格帯の割には身なりの良い紳士風の客ばかりだ。普段着で来ている斎藤が微妙に浮いているような気がしないでもない。
そこまで考えて気付いたが、もしかしたらこの店は所謂隠れ家的な店なのかもしれない。そう考えると、住宅地の中という変な立地も頷ける。
店についての疑問はそれで解けたとして、女主人については謎のままである。
こんな店をやるくらいなのだから、多分若くはないのだろう。しかし幾つなのか全く判らない。
とりあえずいい歳なのは間違いないのだから結婚していても良いはずなのだが、亭主がいるような雰囲気は無い。亭主がいるとしたら店に顔を出すことがあっても良さそうなものだが、それらしい男は見たことが無いのだ。
もしかしたら独り身なのだろうか。所帯染みたところが無いから、そうなのかもしれない。斎藤も他人のことを言えた義理ではないが、この歳で独り身というのは珍しい。
「何か?」
考えているうちに不躾な目をしていたのだろう。主人が怪訝な顔をした。
「いや―――――」
何か良い口実を探そうと、斎藤は素早く辺りを見る。と、一輪挿しに朱い花が挿してあるのを見付けた。
「あの花は………」
「椿です。一輪でも風情があるでしょう?」
そう言って、女主人は口許を綻ばせた。
女主人の言う通り、一輪でも圧倒的な存在感がある。店の雰囲気にも合っているし、主人の雰囲気にも合っていると思う。
そういえば女主人の口紅も椿と同じ朱色だ。赤が似合う女だと、斎藤は何となく思った。
久々にまずい状況だ。斬られた腕を押さえて、斎藤は舌打ちをした。
任務は無事に完了した。傷も深くは無い。問題は、斬った刀に何か毒を仕込まれていたらしいことだ。
何の毒を仕込まれたのか、身体が痺れて息苦しい。今すぐ死ぬということは無いだろうが、すぐにでも解毒しなければ腕の一本はやられてしまうだろう。勿論このままでは命に関わる。
かかりつけの診療所まで意識がもつか、些か自信が無くなってきた。足が縺れ、血がぼたぼたと地面に散った。深い傷ではないはずなのに血が止まらないのも、毒のせいかもしれない。
「一体何を仕込んだんだ………」
傷口を押さえ、斎藤は呻くように呟く。
一息に殺すのではなく、じわじわと嬲るように追い詰めるとは、何とも厭らしい薬である。きっと作った人間も、この薬のように厭らしい人間だったのだろう。そいつはもうあの世に行っているから、確かめることはできないのだが。
「あら」
少し離れたところから女の声が聞こえた。
声の方を見ると、あの小料理屋の女主人が暖簾を仕舞う手を止めて斎藤を見ていた。
ふらふらしながらも、どうにか此処まで辿り着けたらしい。此処まで来たら、診療所までもうすぐだ。
「大丈夫ですか? 随分と酔ってらっしゃるみたいですけど」
暖簾を出入り口に立てかけ、女主人が駆け寄ってきた。暗い上に遠目だから、傷口に気付いていないのだろう。
女主人は斎藤を支えようと、彼の腕に手を当てた。が、次の瞬間、ぬるりとした感触に女主人の顔が凍りつく。
「ひっ………!!」
引き攣ったような悲鳴を上げ、女主人は反射的に手を引いた。同時に、斎藤が堪えきれなくなったように、ずるずるとその場に崩れる。
「血がっ……血がこんな………っ」
掌にべったりと付いた血に、女主人は真っ青な顔で震える声を上げる。そんなことは分かっているから早く医者を呼んでくれと斎藤は思うのだが、舌が上手く回らない。
「………い…しゃ……」
顔を上げ、斎藤は力を振り絞ってどうにかそれだけ言う。
真っ白な顔に、椿のような真っ赤な唇が目に飛び込む。この期に及んで何を見ているのかと自分に呆れながら、斎藤は意識を失った。
目が醒めると、そこは知らない家だった。どうやら助かったらしい。
身体を起こそうと手をついたが、腕に力が入らずにそのまま布団に倒れこんでしまう。とりあえず助かったものの、まだ全身の痺れは残っているようだ。
ともかく助かって良かった。あの女主人に礼を言わなければならない。
辺りを窺うが、近くに気配は無い。夜の仕事だから、まだ寝ているのだろう。
「どうするかな………」
助かったものの、まだ起き上がるのもままならぬというのは厄介だ。女所帯にこのまま世話になるわけには行かないが、かといって頼れるあてがあるわけでもない。こういう時、独り者は困る。
とりあえず女主人が来たら、近くの交番に連絡を入れて貰おう。職務中の負傷であるから、警視庁が適当な病院に放り込むなりしてくれるだろう。
そんなことを考えていると、音も無く襖が開いた。
「良かった。やっとお気付きになられましたね」
水を張った盥を持った女主人が、ほっとしたように微笑んだ。
「一昨日の夜からずっと意識が戻らなくて。お医者様の見立てでは、あと4〜5日は安静にして、毒が抜けるのを待たないといけないそうですよ」
「それは……世話になった。済まない」
まさか丸一日以上眠り続けていたとは。唖然としたが、斎藤は女主人に頭を下げた。
「世話になったついでに申し訳ないのだが、近くの交番に―――――」
「はい、暫くこちらでお預かりするように頼まれました」
「えっ?!」
女主人の言葉に、斎藤は絶句した。
いくら斎藤が独り者だからとはいえ、助けてくれた市民にそのまま押し付けるなんて、担当者は一体何を考えているのか。それを引き受ける方も引き受ける方である。ただの常連客に過ぎない警官に、どうしてそこまでしてくれるのだろう。人が好いにも程がある。
女主人はにっこり微笑んで、
「ご家族の方がいらっしゃらないなら仕方がありませんわ。警察の方からお手当をいただけることになっていますから、しっかりお世話させていただきますよ。困った時はお互い様ですもの。ね、藤田警部補」
「………………………」
知らないところで勝手に話を付けられた上に、いつの間にやら個人情報まで握られ、斎藤は言葉も出ない。ただのお人好しかと思いきや、なかなかしっかり者だ。
「こういう店をしてますから、警察にお知り合いが出来ると何かと心強いですわ。だから余計な気は使わずにゆっくり養生なさってくださいね」
そう言って、女主人は手拭いを盥に浸し、斎藤の額に載せた。
「熱が下がったら治りが早いらしいですから。あ、お粥作りましょうか。ずっと食べてないからお腹空いたでしょう?」
そう言われて、斎藤も自分が空腹であることに気付いた。眠り続けていたとはいえ、丸一日何も食べていないのだから当然である。
斎藤が頷くと、女主人はにっこりと微笑んで立ち上がった。
「じゃあ、一寸待っててくださいね」
「あ、あんたは………」
そういえば、斎藤は女主人の名前を聞いていなかった。暫く世話になるのに、名前を知らないというのはまずいだろう。
「私? 私はと申します」
襖を開け、女主人は振り向きざまに艶然と微笑んだ。