狭霧
狭霧 【さぎり】 霧に同じ。
そろそろ縁たちが出て行くようだ。部屋の外で男と女の声がする。多分、薫を人質として連れて行くのだろう。漸くこの日が来たというのに、の心は不思議と静かだ。縁の復讐が終われば、が彼を殺すことになっている。この日をずっと待ち焦がれていたはずなのに、長年の恨みを晴らす日がやって来たというのに、喜びも興奮も何も無い。
全てがに関わりの無いところで行われているから、実感が無いのだろうか。縁の復讐に立ち会えば少しは違うのだろうかと考えてみるが、一緒に浜に下りて行こうとは思わない。縁と抜刀斎の戦いは、には興味の無いことだ。興味の無いもののために、わざわざ暑い浜辺に出る気は無い。
どうせ勝負は縁が勝つに決まっているのだ。彼の抜刀斎に対する憎しみの深さは、が一番理解している。あんな強い憎しみを抱いている縁が負けるわけがない。自分の姉がそうされたように抜刀斎を惨殺して、に殺されるために必ず此処に戻ってくる。
ただ問題なのは、に残された時間だ。抜刀斎が自分の罪を悔いてあっさり殺されるなら良いが、薫の様子では死んで償う気はさらさら無いらしい。抜刀斎を殺すのに手間取っているうちに沖の大型船に待機している連中が上陸してきたら、が縁を殺すどころではなくなってしまう。
となると、浜から屋敷へ戻る時間を節約するためにも、も縁について行くべきか。彼が抜刀斎を殺したその瞬間に背後から刺すというのも悪くない。憎い仇を討ちとった喜びを味わう間も無く殺されるのは、縁には大打撃だろう。
自身、縁が喜びを感じることは許せない。彼に殺された両親と兄はもう二度と喜びも悲しみも感じることが出来ないのに、どうして殺した張本人が人間らしい感情を持つことが許されるだろう。
だが、すぐに殺してしまうのがに納得できる結末かというと、それは違うような気がする。殺してしまえば縁はそれで終わりだが、はこれからも生きていくのだ。今更幸せな人生があるわけでもなく、彼女の苦しみはこれからも続く。
自分が本当に望む結末とは一体何なのだろうと、は考える。縁が死んでも、失われた家族も時間も戻らない。自分のものになるはずだった平凡で幸せな人生も。
縁と再会した時は、彼を苦しめること、彼を殺すことしか考えていなかった。けれど今は、自分が何を望んでいるのか解らない。
縁がこれからものうのうと生き続けるのは、勿論許さない。けれど殺してもの心は安らがない。縁を生かしたまま、今まで通り財産を食い潰すのも、彼には全く堪えないだろう。上海にいた時も、の浪費に渋い顔をしていたが、それが自分に与えられた罰だと思っていたのか、粛々と受け入れていた。
が何をしようと、縁はそれが自分に与えられた罰だと思って受け入れるだろう。そして、それで償った気になる。それがには許せない。
自分の犯した罪がどうやっても償えないことを思い知らせるには、どうすればいいのだろう。自分の罪の深さを思い知らせ、の恨みを晴らすには、どうするのが一番良いのだろう。
縁は自分の選んだ方法に迷いは無いのだろうか。自分の復讐に沢山の人間を巻き込み、苦労して作り上げただろう武器密売組織も潰し、何もかも失ってまで姉の仇を討って、そこまでしても得るものは何も無い。今日のこの時のために生きてきたのだから今更他の選択など無いのだろうが、それでも迷いは無いのだろうか。
縁は今、何を思っているのだろう。あの男がどんな顔をしているか見てみたい。今ならまだ外に出ていないはずだ。
今すぐ縁に会わなければ後悔するような気がした。出て行った後だったとしても、追いかけてでも会わなければならないとさえ思う。
今の縁はと全く同じ立場だ。大切な人を殺され、これからその仇を討ちに行く。彼が何を思い、何を望んでいるのかを訊けば、が求める答えが見つかるような気がした。
何かに突き動かされるように部屋を出て階段を下りると、丁度縁と薫が出て行くところだった。
「待って!」
叫ぶようなの声に、二人が同時に振り返る。
「何だ? 来る気になったか?」
縁の様子はいつもと変わらない。長い間待ち続けていたこの時を迎えることが出来たのだから少しは嬉しそうな顔をしているか、或いは姉の仇との対面を前にして憎しみに歪んでいるかと思っていたが、予想外に静かな表情だ。
これなら横浜にいた時の方が、縁は生き生きとしていた。あの時の表情は狂気を孕んでいたものの、長年の恨みを晴らして清々しげに見えた。相手を追い詰めている方が、殺すよりも気が晴れていたのだろうか。
そういえばも、上海にいた時の方が恨みを晴らしている気がしていたものだ。同じ屋根の下で縁が生きているのだと思うと憎しみで気が狂いそうにもなったが、苦々しげな縁の顔を見るのは楽しかったものだ。
相手を生かしたままじわじわ追い詰めるのが、一番良い復讐だったのだろうか。しかし終わりの無いこのやり方は、下手をするとこちらの精神が参ってしまう。どのやり方が一番良いのか、にはますます分からなくなってきた。
「あんたの顔を見に来ただけよ。どんな顔をしてるかと思ってね」
「こんな顔だ。今更変わりようがない」
にこりともせずに縁は応える。
「一寸は嬉しそうかと思ったけど、そうでもないのね」
「こんな時にへらへらできるか」
「そうね………」
確かに、これから憎い仇と対峙するという時に、へらへら浮かれてはいられないだろう。復讐を果たせる喜びよりも、相手に対する憎悪が勝っているに決まっている。縁の表情から何も読み取れないのは、姉を殺された時のことを思い返しているのかもしれない。
姉を殺された時、縁はまだ少年だった。とはいっても家族を殺された当時のよりも年長で、しかも眼前で惨殺されたというから、その記憶は彼女よりも鮮烈なものだろう。そして鮮烈な分だけ、怨みも憎しみも強い。姉の仇を討ってそれで心が晴れるような感情ではないはずだ。
姉の仇を討つ、というのが縁がこれまで生きてきた理由だが、それ以上に抜刀斎憎しの思いで生きてきたのではないのだろうか。だから抜刀斎を追い詰めていた時はあんなに晴々とした顔をしていたのだと思う。憎しみの対象をその手で殺し、失った時、彼の感情は何処へ行くのだろう。
抜刀斎を殺しても憎悪が消えるとは思えない。消えないままの手で殺されてしまったら、縁の心は永遠に救われない。
縁は救われず、彼を殺すにも安息は無く、全ての元凶である抜刀斎だけが死という形で全てから解放されるのだとしたら、これほど理不尽な結末はない。
縁と抜刀斎の対決がどんな終わりを迎えるにしろ、縁が救われないのでは意味がないのだ。縁の苦しみを望むが彼の救済を望むのはおかしな話だが、自分と同じ立場の縁に救いがあるのなら、彼女にもきっとそんな救われる結末がある。そんな結末があると信じたいから、縁にも救いがあって欲しい。
「言いたいことがあるなら、さっさと言え。沖の奴らが上陸するまで時間が無い。恨み言を言うなら今のうちだぞ」
何も言わないに焦れたように縁が冷ややかに言った。ついて来る気が無いのなら、最後に罵声を浴びせに来たと解釈したのだろう。
そういえば縁に何か恨み言を言おうとは考えもしなかった。以前のなら、縁の顔を見たら感情を抑えることもできなかったのに、一体どうしたことだろう。
縁に何か言うなら、多分これが最後の機会だ。沖にいる警官隊が上陸してきたら、復讐どころか話すことさえ儘ならなくなってしまう。
が何を言っても、縁が何も言わずに黙って聞くだろう。それが自分に与えられた罰だと思っているからだ。
縁はいつも、のやることを全て黙って受け入れてきた。そうすればいつかが許すと思っていたのだろう。は決して許しはしなかったが。
縁にとって救いのある終わりを望んではいるが、は今も彼を許したわけではない。これからも許すことは無いだろう。けれど縁に言いたいことがあるかというと、自分でも驚くほど何も思い浮かばない。
「………別に。顔を見に来ただけだから」
こんなことを言うと見送りに来たと思われそうで癪だが、他に言いようが無い。実際、は顔を見に来ただけなのだから。
縁は意外そうに軽く目を見開いたが、ほっとしたような苦笑いのような微妙な顔をした。
「そうか………」
まるで重い荷物から解放されたかのような縁の表情に、今度はが苦々しいような、何故か自分も重荷が下りたような微妙な顔になった。
が何も言わないことで、縁は漸く自分が許されたと思っているのだろうか。が縁を許すことは絶対に無いのに。
けれどわざわざそんなことを言う必要は無いような気がして、は黙っている。縁の方から何か言ってくるかと思ったが、彼も何も言わないまま出て行った。
こうやって向かい合って話すのは最後の機会になるかもしれないのに、いろいろ考えるだけで結局何も言えなかった。言いたいことは山のようにあったはずで、以前は縁の顔を見れば自分でも止められないほど言葉が出ていたというのに。
「あなたも一緒に来るかと思っていたのに」
まだ残っていた薫が、突っ立っているを不思議そうに見た。どうやらも一緒に行くものと思い込んでいたらしい。
「何で行かなきゃなんないのよ? 暑いのに」
つっけんどんに応えながら、行かないのは暑いとか寒いとかそんな理由ではないだろうとは思う。一刻も早く縁を殺そうと思ったら、一緒に浜に下りるのが一番だ。なのにいろいろ理由を付けてことに残ることを選んだのは、“その時”を先延ばしにすることを望んでいるのではないかとさえ思えてくる。そんなことを望む理由など全く無いのだが。
人を殺すということが怖いのだろうか。は縁と違って人を殺すことに慣れていないのだから、怖いに決まっている。たとえ相手が、命の恩人を手にかけるような鬼畜であったとしてもだ。
「二人の戦い、見なくても良いの?」
「私には関係無いもの。どうせすぐにあいつは戻ってくるだろうし」
薫にとっては大切な男の戦いなのだから立ち会わねばならないものなのだろうが、にとってはそうではない。縁が此処に戻ってくるのは確実なことなのだから、は涼しい屋敷で待っていればいいのだ。
の答えに納得できないのか、薫は探るような目でじっと見ている。縁を殺さなければならないと喚いていた割に、今は殆どそのことに執着していないように感じているのだろう。
自身、上海にいた頃に比べると、何が何でもという気持ちは弱まっていることは感じている。けれどそれは、憎しみが薄れたせいではなく、慣れない土地で心身ともに疲れているせいだ。だからなるべく動きたくないのだと思う。
本当に、慣れない土地に慣れない気候、飲みたい茶一つ碌に手に入らない生活には、もううんざりだ。早く何もかも終わらせて上海に帰りたい。
薫は相変わらずを見詰めている。この国にもうんざりだが、この女にもうんざりだ。視線さえも鬱陶しい。
この女は、のことを憎しみに囚われた哀れな女だとでも思っているのだろう。薫のようにぬくぬくと育った女は、のような“哀れな女”に同情し、“正しい道”へ導こうとしたがるものだ。こんな女に同情されるのも説教されるのも御免だ。
「あなた―――――」
の目を真っ直ぐに見詰め、はおもむろに口を開いた。
「あなた、本当はもう縁のことを許してるんじゃない?」
「………何言ってるの………?」
あまりのことに掠れた声を出すのがやっとだ。あまりにも無神経な言葉に全身の血がもの凄い勢いで巡って、頭がくらくらする。
縁を許すなんて、あるはずがない。が何も言わなかったのを許したと勘違いしたのだろうか。そうだとしたら、なんと単純でおめでたい女なのだろう。
そんなことより、のこの思いが許せる程度のものだったと思われていたということが、何よりも悔しい。上から目線の説教より腹立たしい。
怒りのあまりの身体は震え、唇まで真っ青になる。だがそんな彼女の変化に気付いていないのか、薫は優しい口調で言葉を続ける。
「完全に許したわけじゃないかもしれないけど、でも少しでも許しているのなら、そのことを縁に伝えて欲しいの。そうすれば縁だって―――――」
「馬鹿なこと言わないでよっ!」
真っ青な顔のまま、は金切り声を上げた。
「私がいつあの男を許したっていうの?! 私は何があってもあの男を許しちゃいけないのよっっ!!」
が縁を許すなんて、絶対にあってはならないことだ。許してしまったら、死んでしまった家族に申し訳が立たない。縁を許すかどうかを決めることができるのは、殺された家族だけだ。生き残ってしまったにそんなことを決める権利は無い。
の家族は、自分たちが救った少年に殺された。裏切られた心の痛み、刀で斬り付けられた身体の痛みはどれほどのものだっただろう。それを思うと、一瞬でも縁に救いのある結末を望んでしまった自分が許せない。
復讐を果たした後も、縁は行き場の無い憎悪に苦しめばいいのだ。そして苦しんだままに殺され、死後も怨みと憎しみにのた打ち回ればいい。自身も消えない恨みに苦しみながら生きていくことになるだろうが、それは一人だけ生き残ってしまった自分に与えられた罰だと思う。
大切な姉を守ることができなかった縁も、一人だけ生き残ってしまったも、決して楽になってはいけない人間なのだ。死んでいった相手を思えば、自分だけ心の重荷を下ろして楽になろうなんて思うことさえ許されないことだ。薫と話して、改めて解った。
「私、自分だけ楽になろうとしてた。あんたのことは嫌いだけど、気付かせてくれたことには感謝するわ」
疲れていたとはいえ、危うく間違った方向へ進むところだった。この先何があっても、苦しくて気が狂いそうになっても、縁を憎む気持ちは絶対に忘れてはいけない。
そう思ったら、反吐が出そうなほど御清潔で御立派な薫に対しても笑顔を向けられるようになった。笑顔を向けられた薫の顔は強張っているが、にはどうでも良いことだ。
「あんたのお陰で覚悟が決まったわ。ありがとう」
自分の言葉で望んでいることと真逆の方向にの心が決まったことに、薫はどう思っているだろう。その心情を想像すると、は痛快だ。
「ほら、さっさと行かないと追い付けなくなるわよ」
強張った顔のまま呆然としている薫にくすりと笑いかけると、は自分の部屋に戻って行った。
浜ではまだ二人は戦っているのだろうか。角度によっては窓から様子が窺えるだろうが、外を見る気にはなれない。
薫の話では人斬り抜刀斎は大人しく殺される気は無いらしいから、勝負が決まるまでかなり時間がかかるだろう。時間はかかるだろうが、縁は必ず此処に戻ってくる。それまでどうしたものかと、は考える。
「エニシ」
床に寝そべっているエニシを呼びつけると、何か貰えると思ったのか尻尾を振って駆け寄ってきた。
「お前は気楽でいいねぇ」
人間たちはあれこれ悩んだり苦しんだりしているというのに、エニシだけはいつも楽しそうだ。躾けられたことは絶対に忘れないほどに賢くても所詮は犬だから、頭の中は食べ物のことと遊ぶことしかないのだろう。
頭を撫でてやると、エニシは気持ち良さそうに目を細めた。が、何かに気付いたように急に扉の方を見る。
「どうしたの?」
縁が戻ってきたのかと思ったが、そうならばエニシは大喜びで扉の前に走って出迎えるはずである。エニシは菓子をくれる縁のことが大好きなのだ。
耳を澄ますと、ばたばたと慌ただしい足音が聞こえてきた。この足音は縁ではない。数も一人や二人ではないようだ。
まさかとは思うが、縁が敗れて人斬り抜刀斎たちが屋敷に乗り込んできたのか。そんなはずはないと思いながらも、は血の気が引いていくのを感じる。
縁が負けるわけがない。姉を殺した人斬り抜刀斎が縁に勝つなんてあってはならないのだ。抜刀斎が縁を返り討ちにしたのだとしたら、あの男は縁の姉を殺したことを何とも思っていないということではないか。殺した人間が平然と生きていられるなんて、そんなことが許されるわけがない。
足音がこちらに近付いて来る。あの中に抜刀斎がいるとしたら―――――伝説の人斬り相手に何かできるとは思えないが、何もしないまま捕まりたくはない。武器になりそうな陶器の置物を掴むと、は扉をじっと睨みつけた。