銀浦

銀浦 【ぎんぽ】 輝く浦辺。
 波が日差しを反射してきらきらと輝いている。横浜の別荘地にいた時は感じなかったが、この無人島ではすっかり夏の日差しだ。
 別荘地での生活に漸く慣れたと思った矢先、今度は無人島に来る羽目になってしまった。無人島とはいっても、広い洋館があるから人間らしい生活ができるが、の気分は最悪である。
 夜が明ける前に叩き起こされて小舟に乗せられたかと思ったら、これだ。こんな夜逃げのような真似をしなければならないなんて、縁の復讐は失敗したのかと思ったが、そうではないらしい。これからが本番だと言っていた。
 本番がいつかなんて、にはどうでもよかった。縁の都合に振り回されるのは、うんざりだ。もう何もかも終わりにしたい。
 縁と再会してからというもの、の中には憎しみの感情しか存在しない。買い物も全身の手入れも、その一瞬は楽しいが、終わってしまえば虚しさしか残らなかった。縁が憎くて始めた浪費だったが、途中からは何もかも忘れるために続けていたようなものだ。
 正直、この生活にはもう疲れた。一人の人間を憎み続け、その相手と共に居続けなければならない生活は、思った以上にの精神を疲弊させいている。
 かといって、縁から離れることもできない。今になって彼を解放しては、これまで耐えてきたことがすべて無駄になってしまう。にはもう、縁を憎み続け、復讐を果たすしか道はないのだ。
 縁を殺しても、同じ年頃の女たちのようになれるとは思わない。縁を殺しても、幸せな未来が来ないことは解っている。けれど、他にどんな解決法があるというのだろう。
 足許で、エニシが心配そうにを見上げている。犬は賢いから、飼い主の気持ちを察しているのだろう。
「何でもないわ」
 エニシを抱き上げ、は頬ずりをする。エニシはそれに応えるように、の頬を舐めた。
 縁への嫌がらせのために飼い始めた犬だったが、今ではの心を癒してくれるたった一つの存在だ。エニシがいなければ、の心はとっくに折れてしまっていただろう。
「私は大丈夫よ」
 全てを終わらせるまでは、疲れたなんて言ってはいられない。自分に言い聞かせるように、は呟いた。





 海辺の日差しはきついから、エニシの散歩は屋敷の中だけだ。それでも上から下まで隈なく歩けば、小型犬にはいい運動になる。
 の横をちょこちょこ歩いていたエニシが、何かを気にするように足を止めた。そして突然弾かれたように走り出す。
「エニシ?!」
 散歩の時はから離れて歩かないように躾けているのに、一体どうしたのか。は慌ててエニシの後を追いかける。
 小型犬といえど、流石に足は速い。は走って追いかけなければならないほどだ。
「待ちなさい、エニシ!」
 が叱りつけても、エニシは止まらない。角を曲がると、今度は激しく吠え始めた。
「もうっ! エニシ―――――」
 後を追うが角を曲がった瞬間、目の前に花瓶が振り下ろされた。
「ひっ………?!」
 何が何だか分からないままとっさに両腕で頭を庇ったが、花瓶が落ちてくる気配は無い。
 腕の間から恐る恐る様子を窺うと、と同じくらいの年頃のバスローブを着た女が立っていた。花瓶を持って、唖然とした顔をしている。
「ご……ごめんなさい。縁、縁、って聞こえたから、てっきりあいつが来たのかと思って………」
 そう言った後、女はしまったという顔をして、慌てて花瓶を後ろに隠した。の身なりを見て、縁に近い人間だと察したのだろう。
 縁だと思って殴りかかってきたとは、穏やかではない。は見たことの無い女だが、彼女もまた、縁に恨みを抱く人間なのだろうか。
 しかし、バスローブで屋敷をうろつくなんて、一体どういうことなのだろう。花瓶で殴りかかろうとするくらいだから、日本での情婦というわけではないと思うが、この格好はただ事ではない。
「あんた、誰?」
 とりあえず殴られないと判った途端、は強気になる。
 が、相手の女も気が強い方なのか、むっとした顔で、
「あなたこそ誰よ?」
「私のことはどうでも良いでしょ」
 どこの馬の骨とも知れぬ女に名前を教える義理は無い。
 女も同じことを考えているのか、を見据えたまま黙っている。どういう素姓の女か知らないが、腹の立つ女である。
「もういいわ。
 エニシ、いらっしゃい」
 女が何者でも、には関係無い。足許のエニシを促し、もと来た道を戻った。





 何も無い無人島での一日は長い。やることも無いので、はテラスに行ってみることにした。
 海に面したテラスは、昼間は日差しがきついが、潮風が吹き抜けて気持ちが良い。も縁も時間をずらして、よく利用している。
 いつもは鉢合わせることは無いのに、何故か今日は縁がいた。引き返そうかとは一瞬足を止めたが、それでは逃げるようで腹が立つ。には逃げなければならない理由など何も無いのだ。
 自分の存在を知らせるように足音を立てて、はテラスに足を踏み入れる。縁がちらりと彼女を見たが、無視するように視線を海に戻した。
 ひとつ屋根の下にいても接触することの無いように互いに気を付けているのだが、こうやって鉢合わせしてしまった時は、必ず縁の方から視線を外している。その場を離れるのも、常に縁の方だ。
 自分の意思で引き取ったくせに、縁はずっとを避け続けている。本当に罪滅ぼしのつもりで覚悟して引き取ったのかもしれないが、憎まれ続けるのに疲れたのかもしれない。負の感情を受け止め続けるのも、精神を蝕まれるものだ。或いは、の中に自分の姿を見てしまうのが恐ろしいのか。
 と縁は、鏡映しのような存在だ。同じように肉親を殺され、同じくらいの長さを憎しみの感情だけで生きてきて、そして今まさに復讐を果たそうとしている。復讐の総仕上げに向かって走り続ける縁の姿はの姿であり、復讐の果てには何も無いことに気付き始めているの姿は、恐らく縁のもう一つの姿なのだ。
 もう一人の自分であると向かい合うことは、縁には恐ろしいことなのだろう。の中の疲労や絶望を見ることは、自分の中にもそれが存在することを認めてしまうことになるのだ。復讐を果たそうとしている人間は、すべてを終わらせるまでそのことに気付いてはいけない。
 縁はを見ないが、は縁を真っ直ぐに見詰める。復讐を果たすことだけを考えて走り続ける彼の姿は、のあるべき姿だから。自分の本当の姿はこうなのだと、は縁を見詰める。
「ねえ―――――」
 など存在しないかのように振舞っている縁に声をかける。
「さっき、知らない女に会ったの。髪の長い、日本人の。あの女、誰?」
 あんな女のことなどどうでも良いのだが、こちらを向かせるために話題に出してみた。
 縁は、を見なければ自分の中のもう一つの感情に気付かずに済むと思っている。その感情から目を逸らし、彼の望む結末へと走り続ける。そしてすべてが終わった後には、の手で幕を下ろさせて、自分は復讐後の苦しみから逃れようとさえしているのだ。
 の家族を皆殺しにした人間に、そんな楽な幕引きは許さない。しかし縁を殺さなければが救われないというのなら、せめてこの男が生きている間に苦しめてやりたい。の苦しみを見せつけることで、この男を苦しめてやりたい。
 けれど縁はに視線を向けようともしない。彼女を見れば全てが終わるとでも思っているかのように、頑なにキラキラと輝く水面を見ている。
 それでもは話し続ける。
「現地妻には見えなかったけど、もしかしてああいうのが好みなのかしら? あんたの好みなんかどうでも良いけど、困るのよねぇ。あんたを殺した後、あの女、どう始末したらいいの?」
 絶対にあり得ないことを言えば何か言ってくるかと思ったが、縁は相変わらず無視を決め込んでいる。
 いつもそうだ。縁はいつもそうやってから逃げている。自分の意思で引き取ったくせに、まともに向かい合ったのは、日本を出ると宣言した時と、横浜の別荘で首を絞められかけたあの時だけ。自分がしでかしたこと、そしてもう一人の自分がそんなにも疎ましいのなら、最初からのことなど引き取らなければ良かったのに。
 逃げて逃げて逃げ続けて、自分の目的を済ませた後は、に殺されることで全てから逃げ切るつもりなのか。の苦しみはその後も永遠に続くというのに。自分だけ楽になろうだなんて、絶対に許さない。
 つかつかと縁に歩み寄ると、は胸倉を掴んで強引に自分の方を向かせた。
「あんたって、いっつもそう! そうやって私のことを無視してれば、何も無かったことにできるとでも思ってるの?! 私は此処にいるのよ?! あんたがどんなに無視したって、私はあんたを憎みながら此処にいるの! あんたから目を逸らすこともできずに此処にいるのよっ!!」
 縁はこうやってを無視することができるが、にはできない。無視しようと思っても憎しみが強すぎて、逆に縁の存在を意識してしまう。そうすれば恨みと憎しみに苦しめられるのは分かっているのに。
 あの日、縁がを引き取りさえしなければ、こんなに苦しい思いをすることは無かった。代わりに、夜ごと見知らぬ男の相手をしなければならない生活は続いていただろうが、十年も続けているのだから、今更辛いとか悲しいとは思わない。娼婦としての十年よりも、縁と共に過ごしたこの数カ月の方が何倍も苦しかった。
 それでも縁を殺すことができるなら我慢しようと思っていた。けれど、復讐を果たした後には何も無いのではないかと思い始めた今では、もう耐えられない。こうやって過ごしている今も苦しい、そして全てをを終わらせた後には何も無いかもしれないと思うと、気が変になりそうだ。こんなことなら、縁の屋敷に連れてこられた時に死んでおけばよかった。
「こんなことなら、あの時みんなと一緒に私も殺してくれれば良かったのに! ねえ、どこまで私を苦しめれば気が済むのっ?! そんなに私たちが憎かったの?! それならもう殺してよ! これ以上私を滅茶苦茶にしないで!!」
 怒りをぶつけているはずが、いつの間にやら泣きながら絶叫している。
 縁と再会してから、は少しずつ壊れていると思う。相手を苦しめたいという思いは、知らず知らずのうちに自分自身を苦しめ、壊していく。今ではもう、自分の感情を抑えることさえできない。
 この男を殺すまで死ねないと思いながら、殺してくれと叫んでみたり、自分でも本当はどうしたいのか分からない。きっと、自分の望みさえもわからなくなるほど壊れてしまったのだろう。
 がこんなに苦しい思いをしているというのに、縁は何も言わない。嵐が過ぎ去るのを待っているだけなのか、不安定なを持て余しているのか。或いは、縁もと同じように苦しんでいるのか。
 どんな顔をしているのか見てやりたいが、縁の顔を見ればまた感情が爆発しそうで、服を握り締めている自分の手しか見ることができない。今でも支離滅裂なのだから、爆発すれば錯乱してしまうだろう。
 一体いつまでこんな思いをしなければならないのだろう。この状態がいつまで続くのか、そして全てが終わった後には一体どうなっているのか。夏の日差しの中にいるはずなのに、の心は暗闇の中にあるようだった。
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