雨月

雨月 【うげつ】 実際に見ることの叶わぬもののたとえ。
 近頃、知らない人間がやたらと屋敷を出入りしている。来客がない日は縁が家を空けていて、何だか慌ただしい。
 縁が忙しいのは結構なことだ。彼には過労死するほど働いてもらって、の贅沢な生活を支えてもらわなくてはならないのだから。
 そして今日も、縁は朝から何処かへ出かけている。代わりにが家に籠って、全身のお手入れだ。買い物もやり尽くした感があって、最近は専門家を呼んで髪の毛から足の爪まで手入れさせているのである。
 専用のベッドに裸でうつ伏せになり、背中に香油を塗り込められていると、眠ってしまいそうなほど気持ち良い。香油の香りもそうだが、室内に充満する香が眠気を誘うのかもしれない。
 この香油を塗って全身を揉み解すことで肌が柔らかく肌理細やかになり、色艶も良くなるのだそうだ。確かにこれをやってから数日は手触りが違う。誰に触らせるというわけでもないが、赤ちゃんのような肌になるのは嬉しい。
 この身体が商売道具だった頃にはやったことも無かった手入れを今になってやるというのは、傍から見れば奇妙に映るだろうが、今だからこそやりたいのだとは思う。大金を叩いて手に入れた極上の肌は、容易く他人に触れさせられるものではない。金で女を買うような輩には、石鹸で洗っただけの肌でも勿体無いくらいだ。
 金で磨き上げたこの身体はだけのもの。誰にも触らせる気は無い。
「本当に吸い付くようなお肌ですこと。羨ましいですわ」
 背中に両手を滑らせながら、女が言う。どこまで本気なのかは判らないが、満更お世辞というわけでもないだろう。肌の美しさに関しては、も多少は自信があるのだ。
 小さく笑うに、女は言葉を続ける。
「こんなに綺麗なお肌なら、旦那様もさぞかしお喜びになるでしょう?」
 が全身を磨きたてるのは、縁を繋ぎとめるためだと思っているらしい。いつの間にかこの屋敷に住み着いた女なのだから、周りがそう思うのは当然の流れだ。
 しかし縁はこの肌どころか、髪の毛にすら触ったことが無い。これからも触ることは無いだろう。そんなことはが許さない。
 縁の金で美を追求しているが、彼がその恩恵にあずかることは絶対に無いのだ。買い物のように形が残るものならまだしも、日々消費されていく一方の美容に湯水の如く金を使われるのは、一体どういう気分なのだろう。本来なら縁の快楽に還元されるべきのものが無駄に捨て置かれなければならないというのは、男としては面白くないはずだ。
「さあ、どうかしらねぇ………」
 施術者だけでなく、誰もが縁はこの肌を楽しんでいると思っている。自分の快楽の為に、馬鹿馬鹿しいほどの大金を使って女の身体を磨いていると思っている。本当は指一本触れることも出来ないというのに。それを考えると、の唇から笑みが零れる。
 肌の手入れが終わったら、次は何をしよう。買い物は飽きたし、今期の新作で欲しいものは揃えたから、暫くはしなくて良い。
 次はカジノに行ってみようか。破産するほどのめり込む者もいると聞くから、きっと楽しいのだろう。破産してもどうせ縁の金なのだから、には関係ない。
 そんなことを考えながらうとうとしていると、急に外が騒がしくなった。縁が帰ってきたのだろう。最近は出かけると夜まで戻らないのに、こんな時間に帰ってくるなんて珍しい。
 予想外に早く帰ってきても、には関係の無いことだ。外の喧騒をよそに再び気持ち良くうとうとしていたが、劈くようなメイドの声で気分を壊されてしまった。
「いけません! お嬢様はまだ―――――」
 その声と同時に、扉が乱暴に開け放たれる。
「話がある。皆出て行け」
 腰から下はシーツをかけて隠してはいるものの、があられもない姿をしているというのに、縁には遠慮が無い。が服を着ていようと全裸だろうと、縁にはどうでも良いのだろう。
 だが、の方はそうはいかない。縁に裸を見られても恥ずかしくも何ともないが、不愉快だ。
「話なら後にして。私は忙しいの」
「寝転がってるだけにくせに、何が忙しいんだ?」
「あんたの相手をしてる暇は無いってこと」
 縁の苛立った声にも、は澄ました顔をしている。何を言おうと縁が自分に強く出ることができないことを知っているから、はどこまでも強気だ。
 ところが今日に限っては様子が違うらしく、縁は大きな声を出した。
「そんなものは後にしろ!」
「な、何よ………」
 初めて怒鳴りつけられ、流石にも怯んでしまった。罪悪感からか、何があってもには腰が引けている縁がこんな声を出すなんて、余程のことなのだろう。
 この男の言うことをきくのは癪だが、意地よりも恐怖の方が勝っていた。相手はよりも遥かに強い男なのだ。乱暴されることは絶対に無いと分かってはいても、やはり怖い。
 それでも怯えを悟られないように、は傲然と顔を上げて真っ直ぐに縁を見る。
「服を着るから、あっち向いてて」
 縁が背を向けたのを見て、は身を起こす。
 バスローブを羽織りながら使用人たちに出て行くように促すと、ベッドに腰掛けて脚を組んだ。
「で、話って何?」
 のお楽しみの時間を邪魔するくらいだ。これでしょうもない話だったら、ぶん殴ってやる。
 不機嫌を見せ付けるを見ても、縁は眉一つ動かさない。
「日本へ帰る」
「………は?」
 思いもよらない宣言に、の目が点になった。
 の記憶が正しければ、日本にはもう縁の身寄りはいないはずだ。今更帰ってどうするというのだろう。
 否、縁のことはどうでも良い。問題はのこれからだ。生粋の日本人で日本語も話せるとはいうものの、上海で生まれ育った彼女にとって日本は全く知らない外国なのだ。しかも漸く西洋化され始めた後進国である。そんなところになんか行きたくない。
「嫌よ! 冗談じゃない! 日本に行くなんて、絶対に嫌!!」
 顔を真っ赤にして、は喚きたてる。
 嫌な思い出しかないが、それでも上海以上の場所はないとは思っている。世界中のものが集まり、金さえあれば欲しいものは何でも手に入る。日本へ帰るということは、その生活を捨てるということだ。
 縁にしてみれば、日本にさえ帰ればの浪費が収まって好都合だろう。それを狙っての帰国なのかもしれない。
 は皮肉っぽい表情で喉の奥を鳴らす。
「どこに逃げても無駄よ。あんたを追い込む方法はいくらでもあるんだから」
「好きにすればいい。用件が終われば、お前に殺されてやるさ」
 縁の口調は相変わらず淡々としている。度重なる心労で投げやりになっているというわけではなく、本気でに殺されても良いと思っているかのようだ。
 けれど、そんな言葉をが信じられるわけがない。口先だけなら何とでも言える。それでの気が収まると思えば、演技だっていくらでも出来るだろう。
「そう言えば私が許すとでも思ってるの? 本気でそう思ってるなら、今すぐ此処で死になさいよ!」
 叫ぶように言うと、はベッドの傍の台に置かれた剃刀を突きつけた。
「ほらっ! これで首を掻っ切ってみなさいよ!!」
「…………………」
 案の定、縁は剃刀を手に取ろうともしない。殺されてやるなんて、やはり口先だけなのだ。
 そんな言葉で誤魔化せると思われていたことが、何よりも悔しい。縁にとっての悔しさは、そんな口先だけの言葉で帳消しに出来る程度のものなのだ。
 悔しくて腹が立って、の目に涙が滲む。
「出来ないの?! できないくせに、そんなこと言わないでよ!!」
 剃刀を床に叩きつけ、はベッドに突っ伏して号泣した。
 今まで辛いことや悔しい思いをしたことは数え切れないけれど、これほどのことは無かった。それもこれも、が弱いからだ。縁に負けない力があれば、とっくに全てを終わらせていた。
 縁の財産を食い潰そうと必死になっているけれど、武器商人というのは余程儲かるのか、金が尽きる様子は無い。黒星がいつも怒っているから多少は縁も打撃を受けているのだろうが、多分が期待しているほどのものではないのだろう。仮に期待通りの効果を上げていたとしても、縁はこうして生きている。身包み剥いだとしても、まだしぶとく生きているだろう。
 贅沢がしたかったのではない。両親と兄、そしてと同じ苦しみを縁にも味あわせたかった。
「今はまだ出来ないが、全部終わったらお前の目の前で死んでやる。約束する」
 日本に戻り、姉の仇を討ちさえすれb、縁にはもう思い残すことは無い。が望むやり方で復讐を果たさせるつもりだ。
 縁の望む結末、そしてが望む結末のための手筈は調った。後は用意された結末に向かって突き進むだけだ。
 あと少しだけ。にとってはもう限界かもしれないが、あと少しだけ我慢して欲しい。代わりにの望む最高の結末を用意するから―――――
 投げ捨てられた剃刀を台に戻して、縁は静かに部屋を出て行った。
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