風樹
風樹 【ふうじゅ】 風に揺れる木。
の常軌を逸した買い物は毎日のように続いている。付き添いのメイドの話によると、目に映る全てのものを買い占めるかのような勢いらしい。そうやってこれまで失ってきたものを埋め合わせているのかと思いきや、買ったものの大部分は封も開けられずに放置されているのだそうだ。にとっては、物を手に入れることよりも、買うという行為そのものが重要らしい。
「古今東西、女は買い物好きと相場は決まっているけど、あれは病気だね。いきなり贅沢できる身分になって浮かれてるにしても、度が過ぎてる」
縁の前に積み上げられた請求書の山をちらりと見て、黒星が心底呆れたように言った。
贅沢好きな女、遊び好きな女はいくらでもいる。男の資産は全て自分のものだと思い込んでいる女も珍しいものではない。だが、女は馬鹿だから考え無しに浪費するものだと思っている黒星の目から見ても、の行動は異常だ。服も装飾品も使い切れないほど買い込んで、それでもまだ足りないと買い続けるなんて、正気ではない。それを放置している縁もだ。
女に振り回されて縁が破産してしまうのは黒星の知ったことではないが、の浪費を放置し続けて組織の金にまで手を付けられては大変だ。そんなことをされては、下の者に対して示しがつかない。
「私生活に口出しする気は無いが、あの女は良くないね。あのままにしておけば、白蟻みたいに組織を中から食い潰すよ」
「これくらいで潰されるほどヤワじゃない」
何も感じていないように応えながらも、縁もこのままではまずいと思う。の行動は、欲しいから買う、買いたいから買うというのを超えている。
初めのうちはに対する罪の意識から、彼女のしたいようにさせてきた。女の散財などたかが知れいていると思っていたからだ。衣裳部屋一杯になるまで買い込めば気が済むと思っていたのだが、実際は総ではなかった。使い切れなかろうが置き場が無くなろうが、の狂ったような買い物は続いている。黒星の言う通り、このままにしておけば組織まで食い潰されてしまうだろう。
否、は縁の全てを食い潰すつもりでいるのだ。自分が縁に全てを奪われたように、縁の持つものを根こそぎ奪おうと狂った行動を続けているのだ。
それが解っているから、縁はに強く言えない。彼もまた、姉を殺した緋村抜刀斎から全てを奪おうと考えているのだから。自分と同じ境遇の人間が同じことをするのを、止められるわけがない。
「どうせ近いうちに此処は引き払うんだ。それまでは好きにさせる。組織に手を付けさせなければ文句は無いだろう」
姉の仇を討つ力は十分に蓄えた。復讐を果たせば、縁にはこの世に未練も無い。全てが終わった暁には、に殺されても構わないと思っている。だからこの異常な買い物も、それまでの繋ぎのようなものなのだ。縁がに殺されれば、彼女の行動も止まるだろう。
「そりゃあねぇ………」
そう言われると、黒星も言葉を濁すしかない。
近いうちに雪代縁はいなくなる。組織はそっくり黒星に譲られる約束だ。その約束さえ守られるのなら、彼が口を出すことは何も無い。
と、扉が開かれて、話題の女が姿を現した。また店を梯子してきたのか、頭の先からつま先まで出掛けた時と全く違う。屋敷を出る時は翡翠色の支那服だったはずなのだが、今は真っ白なドレスだ。
「行きと帰りでお色直しなんて、随分と良い身分だねぇ、お嬢様」
を上から下までさっと見て、黒星は嫌味たらしく口の端を吊り上げた。その声音は、娼婦上がりの卑しい女、という蔑みを隠そうともしていない。
しかしはそんなものは微塵も感じていないように優雅に微笑んで、
「ええ、お店で見て一目で気に入ったの。素敵でしょう?」
「ああ、素敵だね。まるで白蟻の女王様だ」
流石にこの返しには、の顔から微笑みが消えた。どうやら黒星の言いたいことが伝わったらしい。
無表情になったに、黒星は言葉を続ける。
「請求書を見せてもらったが、いったいどういうつもりだ? 靴だけでも何十足も買い込むなんて、お前は百足か? 白蟻なのか百足なのか、はっきりさせてもらいたいものだな」
「あんたなんかにとやかく言われる筋合いはないわ。
それよりねぇ、見て。この子、可愛いでしょう?」
黒星に冷ややかに言うと、今度は縁に向かって上機嫌に言う。の腕には白っぽい小さな奇妙な生き物が抱かれていた。
四本足の生き物だから、哺乳類なのだろう。小さくくぅくぅ鳴いているところを見ると、どうやら仔犬らしい。
が、その仔犬と思しき生き物は、縁が知っている犬という生き物とはかなり違う。脚が短く、ずんぐりむっくりしていて、首が無い。顔も潰れている上に皺くちゃでとんでもない不細工だ。
「何だ、その生き物は?」
その不細工な顔をまじまじと見詰め、縁は尋ねた。不細工な生き物も縁の視線が気になるのか、皺に埋もれた円らな目で彼を見返している。
「何って、犬に決まってるじゃない。パグっていうんですって。あ、これ請求書ね」
いつもの如く、縁の前にひらりと一枚の紙が置かれる。またかとうんざりしながら請求書を見た縁は、その額に目を疑った。
不細工な仔犬の請求額は、平均的な上海市民の月収に匹敵するものだったのだ。犬コロ一匹にこの値段、しかも誰が見ても可愛い犬なら兎も角、こんな不細工にこんな値段が付くなんて、騙されているとしか思えない。
これまでどんな請求書を見せられても眉一つ動かすことの無かった縁だったが、流石にこれには大声を上げた。
「何だ、この請求書は?! こんな不細工にこんな………」
の浪費にはもう慣れてしまっているとはいえ、こんなもののために金を出したくはない。金額は今の縁には痛くも痒くもない額だが、明らかに騙されているのに知らぬ振りはできない。
「すぐに返してこい! 犬が欲しいなら、もっと良いのを用意してやる」
買ってきたものについて初めて怒られ、はきょとんとして縁を見た。
「あら、この子だって血統書付きよ。おじいさんは宮廷で飼われていたお犬様なんだから」
「こんな不細工がか?!」
「不細工不細工言わないでよ。この子にも名前が―――――ああ、名前付けなきゃ」
縁の不細工発言にむっとしただったが、仔犬に名前が無かったことに気付いて考え込む。
「“ブサイク”で十分だ、こんな奴」
子犬の顔をじっと見詰めて考え込むに、縁は吐き捨てるように呟く。その声が聞こえているのかいないのか、は黙って考え込んでいたが、何か思いついたようににんまりと笑った。
「“エニシ”が良いわ。よく見たらこの子、あんたに似てるし」
「なっ………?!」
こんな不細工な子犬に似ていると言われ、あまりの衝撃に縁は言葉を失ってしまった。横では黒星が笑いを堪えるように頬をひくつかせている。いくら黒星でもボスの前で笑うのは憚られるのだろう。
客観的に見て、縁の顔は整った部類に入るはずだ。どう見ても、あんな皺くちゃの不細工には似ていないだろう。
言葉を失っている縁とは反対に、は自分の発案に満足しているように上機嫌に笑って、
「この前、暴漢に襲われた時、こんな顔してたでしょ。うん、見れば見るほどそっくり」
仔犬を顔の高さに持ち上げ、は満足げに何度も頷いた。
が似ていると言っているのは、狂経脈が浮かんだ縁の顔らしい。先日、何処かの組織が差し向けた暗殺者を始末した時に一瞬だけ出たのを憶えていたのだろう。
確かにあれが出た顔は一寸見られたものではないくらい酷いと縁自身も思うが、それでもこの仔犬よりはマシだ。それ以前に、あれは皺ではない。
大体あの時は、縁の暗殺は無理と悟った刺客が代わりにを襲おうとしたから、狂経脈が出てしまったのだ。お陰で刺客を瞬殺してしまい、何処から差し向けられた人間だったのか判らず終いである。
助けたことを感謝しろとは言わないが、仮にも命の恩人に対して、不細工な仔犬そっくりと言うことはないではないか。結局この犬も今までの買い物と同様、縁への嫌がらせのために買われてきたものらしい。
「顔が似てるんだから、あんたも可愛がってあげてね」
悪意の欠片も無いような晴れやかな笑顔でが言うと、仔犬も愛想のつもりかぱたぱたと尻尾を振ってみせた。
縁への嫌がらせのために買って来たのだからすぐに飽きるだろうと思っていたのだが、は予想外にエニシを可愛がっている。高価な餌や首輪を与えるのは勿論だが、躾をすると称して専用の調教師まで呼ぶ始末だ。宝石を付けた首輪には縁も渋い顔をしたが、調教師に関しては大歓迎である。屋敷に放し飼いにしているのだから、その辺で粗相をされてはたまらない。
初めのうちはの部屋だけで過ごしていたエニシも、今では此処が自分の家だと理解したのか、我が物顔で屋敷の中を歩き回っている。何故か縁を気に入っているようで、家にいる時はといるよりも彼の傍にいることが多いくらいだ。まさかとは思うが、自分の仲間だとでも思っているのだろうか。縁には迷惑な話である。
そして今も、エニシは縁の足許に座っている。どうやら縁がお茶請けにしている菓子が欲しいらしい。テーブルをじっと見上げて、ぱたぱたと尻尾を振っている。
「何だ?」
じろりと睨みつけるが、エニシは全く動じる様子が無い。それどころか、いつ菓子をくれるのかと期待に目を輝かせているくらいだ。
これまで縁はエニシを可愛がった覚えは無い。それどころかいつも追い払っているというのに、懲りずにこうやって物をねだりにやってくるのだ。不細工な上に頭も悪いのかと呆れてしまう。
どうせ物も言えぬ犬なのだから無視していれば良いのだが、じっと見詰められているとどうも落ち着かない。喋れないだけに、視線で訴える力が強いのだろう。
「〜〜〜〜〜〜〜〜」
縁は菓子を一つ摘むと、エニシの鼻先に突きつけた。即座に食いつこうとしたところをさっとかわし、そのまま庭に向けて思いっきり放り投げる。
エニシは一瞬何が起こったか解らないような顔をしたが、すぐに菓子を追いかけて全力で走り出した。これで縁も落ち着いて茶を楽しめるというものである。
が、そんな静かな時間も、今度は飼い主の登場であえなく壊されてしまった。
「ねえ、エニシ知らない?」
今日は出かける予定は無いのか、の服装は大人しい。それでも普段着にするには高価な服ではあるのだが。
縁は茶を飲みながら無言で庭を指差す。そこには、落ちた菓子を夢中で食べているエニシの姿があった。余程菓子が美味いのか、興奮してバタバタと尻尾を振っている。
「ちょっと! またお菓子あげたの?!」
「物欲しげに見てて鬱陶しかったからな。まったく不細工な上に口卑しい奴だ」
に怒鳴られても、縁は平然としている。これもほぼ毎日繰り返されている遣り取りだから、受け流すのも慣れたものだ。
「人間の食べ物をあげると太りすぎになっちゃうから食べさせないようにしてるのに、あんたがあげたら意味無いじゃない。エニシもあんたの所に行ったらお菓子もらえるって覚えちゃってるし」
「ふん」
そんなに菓子を食わせたくないのなら、以外の人間からは物を貰わないように躾ければ良いではないか。縁も好きでエニシに菓子を与えているわけではないのである。
が、は縁が面白がって菓子を与えていると思い込んでいるらしい。
「兎に角ね、今後一切エニシに食べ物はあげないで。お菓子でブクブク肥えるのはあんただけで沢山!」
「ぶっ………?!」
の言葉に、縁は危うく口に入れた菓子を吐き出しそうになった。
いつもの嫌がらせ発言だと解ってはいても、たまには聞き流せずに反応してしまうこともある。反応してしまえばの思う壺なのだが。
買い物狂いといい、この手の物言いといい、は縁の神経をささくれ立たせることには労を惜しまないようだ。縁が自分に対して絶対に強く出られないことを理解しているから、こうやって持って行き場の無い苛立ちにもやもやしている姿を見て楽しんでいるのだろう。悪趣味ではあるが、圧倒的な力の差がある相手に出来る復讐がこれくらいしかないことを思えば、も憐れといえば憐れだ。
縁は男で、しかも金も力もあるから、自分が思う通りの復讐を果たすことが出来る。それに対しては何も持っていないから、これくらいのことしか出来ない。今は縁の反応を見てにやにやと笑ってはいるが、彼女も陰ではは自分の無力さに悔しい思いをしているのかもしれない。そうは思っても、縁の苛立ちは治まらないのだが。
「お前、いい加減にしろよ」
ぎろりと睨みつけられて、はにやにや笑いを止めて表情を硬くする。
「いい加減にしなかったらどうするの? 私も殺すの?」
凍りついたようなの表情に、縁も身動ぎも出来ずに固まってしまった。
いっそ一思いに殺すことが出来たら、そんなに楽だろう。この女さえ消えれば、縁も請求書だの不細工な仔犬だのに悩まされること無く、心の平安を取り戻すことが出来るのだ。
そもそもこんな女を引き取ってしまったのが、間違いだった。自分と同じ種類の人間だからと思ってのことだったが、自分の陰の部分をそのまま映した人間が傍にいるというのは予想以上に不快なものである。
だが、この不快な存在は、他の誰でもない縁が生み出したものなのだ。だから何をされてもに手を上げることが出来ない。
否、手を上げられない理由はもう一つ。が丁度、姉の巴と同じ年頃の女だからだ。子供だろうが老人だろうが躊躇い無く手にかけてきた縁だが、これくらいの年頃の女だけはどうしても駄目なのだ。もそのことには薄々気付いている。だから彼女の振る舞いは日々傍若無人になり、何も出来ない縁の姿を楽しんでいるのだ。
不意に、が縁の手を取った。そしてその手を自分の首にかける。
「やれば? 私の家族を殺した時より簡単よ?」
醒めた表情の中に、どうせ出来るわけないとたかを括っているのが見て取れた。
確かに子供だった縁が家族三人を殺したことに較べれば、今の縁が女一人を殺す方が遥かに簡単だ。けれどそれは出来ない。出来ないことをに見透かされ、見くびられているということが解っていても、出来ない。
ざわざわと小さな音が聞こえる。庭木が風に揺れる音なのか、体の中の音なのか、縁にはもう解らない。
息詰まる長い沈黙が続いた後、縁の手が震え始めた。
「はっ………!」
急速に手が冷たくなっていき、呼吸が乱れる。初めて二人が会った夜と同じだ。
「どうしたの?」
真っ青な顔で苦しげに息をする縁を見下ろして、はくすくす笑う。子供のような無邪気な笑顔だが、悪魔のように冷ややかだ。まるで、縁の苦しむ姿を心底楽しんでいるかのように―――――
苦しんでいる縁を見下ろしたまま、は動かない。ただ楽しげに微笑んでいるだけだ。
はこの瞬間を待ち望んでいたのだ。買い物狂いや縁の神経をささくれ立たせる言動は復讐のうちには入らない。決して死ぬことの無い苦しみにのた打ち回らせることこそが、彼女の本当の復讐なのだ。
「大丈夫よ、死にはしないから。死なないけど、これは癖になるんですって。ねえ、次はいつ来るかしら? 楽しみねぇ」
歌うように楽しげに言うの声を聞きながら、縁の意識は遠のいていった。