星霜

星霜 【せいそう】 歳月のこと。
 商談の後、縁は娼館に連れて行かれた。接待で女のいる店に連れて行かれるのは、いつものことだ。酔いが回って眠いし今日は早く帰りたいと思ったが、これも商談のうちだから仕方が無い。
 案内されたのは、上海一の高級店である。高級店だけあって、用意されている女もとても娼婦には見えない上品な美人揃いだ。
「この前いた日本人はまだいるか?」
 きらびやかな店内を見回している縁の横で、取引相手が女将に尋ねている。どうやら縁の相手はその日本人女になるらしい。
 何故だか解らないが、こういう店に連れて行かれると必ず縁には日本人の女が紹介されるのだ。どうせなら同じ日本人の方が気楽で良いだろうと考えているのかもしれないが、日本人だろうが中国人だろうが彼には同じように思える。やることは同じなのだし、どうせ話も碌にしないのだ。
「おりますよ。お待ちください」
 女将は愛想良く応えると、奥に消えた。
 どんな女を連れてくるのか知らないが、とにかく縁は眠い。女なんかどうでも良いから、早く横になりたかった。
 どうにか欠伸をかみ殺しながら待っていると、女将が派手なチャイナドレスを着た女を連れて戻ってきた。
 若い女というより、まだ少女といった雰囲気の女である。が、この商売は長いのか、年齢の割には色気があって、それが酷くちぐはぐな感じがした。恐らく、幼い頃から客を取っていたのだろう。そういう生活しか知らない女特有の陰がある。まあ、俯き加減だからそういう風に見えるのかもしれないが。
 日本が開国して以来、飢饉などで食い詰めた人間が娘を大陸へ売るというのを耳にするようになった。国内の女郎屋に売るよりも高く売れるのだそうだ。その代わり、日本の女郎屋よりも酷いところに売られることもあるとも聞くが、この女は高級店に売られたのだから幸運な方だろう。
「こんな服を着ておりますけど、間違いなく日本人ですのよ。さ、日本語でご挨拶して」
です。宜しくお願いします」
 訛りの無い日本語でそう言った後、と名乗る女は初めて縁を真正面から見た。その瞬間、彼女の顔が蒼白になる。
 一瞬、何処かで会ったことのある女かと思ったが、縁の記憶には無い顔だ。大方、この真っ白な頭に驚いたのだろう。そういう反応には慣れている。
「あの、お部屋の方へどうぞ」
 自分の反応を誤魔化すように、は慌てて縁の手を取った。





「時間はどういう風になってるんだ?」
 自分で上着を脱ぎながら、縁は尋ねる。こういう店は、大体二時間くらいで一区切りになっているはずだ。それくらいあれば一眠りできるだろう。
 さっさと服を脱ぎ始める上に時間を気にする縁を見て、は客の前だというのに心底呆れた顔をした。茶を出す間も無くいきなりこれだから、余程がっついていると思ったのだろう。安い売春宿ではあるまいし、こういう店にはこんな客はいない。
「一晩貸切と聞いています」
「じゃあ、朝になったら起こしてくれ」
 の冷ややかな声など全く気にしていないのか、縁はそれだけ言うとベッドに入ってしまった。
 完全に存在を無視された形のであるが、それについては別に何とも思っていないようだ。ただ、氷のような無表情で縁の寝顔を見下ろしていた。





 どれくらい眠っていたのか、不穏な空気を感じて縁は目を醒ました。
「――――――――っっ?!」
 殺気を感じて飛び起きると同時に、ベッドに簪が突き立てられる。あと一瞬反応が遅ければ、首筋が貫通されていたところだった。
 一瞬何が起こったのか理解できなかった縁だが、目の前の女がもう一度簪を持った手を振り上げたところで、慌ててその手首を掴んだ。
「放せっ! 人殺しっっ!!」
 自分が縁を殺そうとしたくせに、は金切り声を上げながら激しく抵抗する。誰かに依頼されたのかと思いきや、この女の意志で彼を殺そうとしていたらしい。“人殺し”と叫ぶところを見ると、誰か親しい人間が縁に殺されたというところだろう。
 正直、身に覚えがありすぎて誰の縁者か判らない。は日本人だから恐らく日本人だろうとは思うのだが、こういう商売をしているだけにそうとは言い切れないところもある。中国人となると、たとえ名前を言われたとしても判らないだろう。判ったとしても、縁も大人しく殺されるわけにはいかないのだが。
 誰の縁者かは兎も角として、今はこの女を大人しくさせることが先決だ。縁はを掴まえたままベッドから落ちると、簪を握っている手を何度も床に叩きつけた。が簪を取り落としたところで、縁は全身で彼女を押さえつけたままそれを遠くへ投げやる。
「何のつもりだ?! 敵討ちか?!」
「この顔を見て思い出さないの?! 私を見て思い出さないのっ?!」
 そんなことを言われても、の顔には全く覚えが無い。何処かで恨みを買ったのは間違いないのだろうが、そんなことをいちいち憶えていられるほど、縁も感心な生活をしているわけではないのだ。やられた人間は一生忘れられないことでも、やった方にとっては日常茶飯事のこと。世の中とはそういうものである。
 全く思い当たらない縁の顔を見て、はいかにも憎々しげに唇を噛んだ。
「そう、判らないの。判らないくらい殺してきたの。恩人を皆殺しにするくらいの人間だものね、判らなくても当然だわ!」
「何故それを………」
 の言葉に、縁の表情が強張った。
 半死半生で大陸に流れ着いた縁がどうにか生き延びることが出来たのは、現地の日本人家族に拾われたからだった。同じ日本人だからと我が子同然に世話をしてくれ、“温かな家庭”というものも教えてくれた。そうして体力を回復した縁は、その一家を惨殺したのだ。
 “温かな家庭”というものが憎かった。“家族同然”と口では言っても、所詮は他人。あの日本人家族は確かに縁に良くしてくれたが、縁には“家族同然”には思えなかった。それどころか、その優しさが自分たちの幸せを見せつけているようで、それが縁の憎悪を煽った。だから殺したのだ。
 その家族から奪った金品とその家にあった倭刀術の本を元にして今の縁があるのだが、日本人一家惨殺の件については誰も知らないはずだ。目撃者もいないし、縁自身も誰にも話していない。知っているとしたら―――――
「お前、あの時の………?」
 あの日本人家族には息子と娘がいた。あの日縁が殺したのは、夫婦と息子だけ。娘は近所の友人の家に泊まりに行っていたから殺せなかった。
 あの娘がこんな所にいるとは思わなかった。否、その存在さえ今の今まで忘れていた。当時の彼女はまだ幼くて、縁と接触することなど殆ど無かったからだ。だからあの惨劇に巻き込まれることも無かった。あの当時、がもう少し大きかったら、口封じのために彼女も殺していたはずだ。
 漸く全てを思い出して呆然とする縁の顔を見上げ、は狂ったように声を上げて笑った。
「やっと思い出した? そうよ、あんたが皆殺しにしたの娘よ! 、憶えてるでしょう?!」
 あの頃のことが怒涛のように押し寄せ、縁はの顔を凝視したまま微動だにできない。あの時の幼女と目の前の女がまだ結びつかないが、あの日のことを知り、あの家族の末娘を同じ名を名乗っているのだから本人で間違いないだろう。
 家の人間は、大陸には自分たち家族以外に身寄りは無いと言っていた。は一体どうやって今日まで生きてきたのだろう。あの後、人買いに売られてこの店に来たのだろうか。反撃するのも忘れて、縁はの顔を見詰め続ける。
 高笑いを止め、は目で射殺さんばかりに縁を睨みつける。
「あの後、私がどんな思いで生きてきたか解る? 人買いに売られて、女になる前から変態の相手をさせられてっ………。何度死のうと思ったか分かりゃしないわ。だけどあんたを殺すまでは死ねないと思った。皮肉なものよね、私に死ぬ思いをさせたあんたが今の私の生きる理由なんて」
 そう言って、は再び声を立てて笑った。が、今度は笑っているはずなのに泣いているようにも見えた。
 この女は自分と同じだと縁は思った。死ぬような思いで生きてきたのも、復讐のためだけに生きてきたのも。そして縁が彼女にとって、彼の復讐相手と同じ存在だということに愕然とした。
 どくん、と縁の心臓が大きく鳴った。それが始まりの合図のように、突然鼓動が激しくなる。激しい運動の後のように息苦しくなり、手足の末端から感覚が失われていく。
「……………………っっ!!」
 縁の突然の異変にぎょっとしながらも、は彼を突き飛ばして簪を拾い上げた。今なら間違いなく彼を仕留めることが出来る。
 が、が縁の首をめがけて簪を振り下ろそうとした刹那、扉が乱暴に開けられた。騒ぎを聞きつけて店の男たちが駆けつけたのだ。
「どうしましたっ?!」
 を突き飛ばすように押しのけ、男たちは縁に駆け寄る。
 縁は相変わらず激しい呼吸を繰り返すだけで、何も答えない。否、答えられないのだろう。目は充血し、全身にびっしょりと汗をかいている。持病か何かの発作なのか、今にも死んでしまいそうな雰囲気だ。
 それを見るも、真っ青な顔で呆然とするだけだ。あんなに縁の死を望んでいたはずなのに、苦しむ彼を見ても何の感情も湧かない。苦しむ縁の姿も周りで騒ぐ男たちの様子も、見えない壁を挟んだ遠い出来事のようにしか感じられない。
 と、の腕がぐっと引っ張られた。
「ぼーっとしてねぇで医者呼んでこい!」
 男に怒鳴られても、には夢の中の出来事のように感じられる。ただ、このまま放っておけば縁は死ぬかもしれないとだけ思った。
 そうだ、これは死んだの家族の祟りなのだ。たった一人生き残った彼女の手を汚させまいとして、死んだ家族が代わりに縁を殺そうとしてくれているのだ。そう思うと、自然と笑いがこみ上げてきた。
 家族が苦しんで死んでいったように、そしてが苦しみながら生きてきたように、この男も苦しみ抜いて死ねばいいのだ。いっそ一思いに殺してくれと思うような苦しみを延々と味わって、のた打ち回りながら死ねば良い。
 相変わらずぼんやりとした顔のまま壊れたように笑うを見て、男は忌々しげに舌打ちをした。目の前の出来事に混乱して壊れたと思ったのだろう。
「使えねぇ女だな」
 の手を乱暴に離すと、男は医者を呼ぶために部屋を出て行った。
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