納涼会

 梅雨が明けたら、すぐに祇園祭りだ。あのお囃子の練習の音を聞くと、もう夏なのだと思う。
「鱧か………」
 夕食に出された鱧の梅肉和えを見て、は遠い目で呟いた。
 京都の夏は暑い。冬もあり得ないほど寒いが、この暑さの方がには耐えられない。配達回りをしている間に気分が悪くなるのも、しばしばだ。
 なので、祇園祭りのお囃子も鱧も、には憂鬱だ。今年は猛暑だと聞くし、生きて秋を迎えられるのかとさえ思う。
「やっぱり鱧を食わねえと、夏って気がしねえな」
 の隣では、比古が上機嫌で鱧を食べている。勿論、冷酒付きだ。
 あの剣士崩れの一件以来、比古は山を下りる度にの家で夕食を食べて帰っていく。父親が招待しているのだが、当たり前のように酒まで飲んでいって、遠慮というものがない。この男に“遠慮”という高等技術は無いのだろう。
「あんた……よくそんなに食べれるわねぇ」
 まさに鯨飲馬食の勢いの比古を見ていたら、は食べる前からげっそりしてきた。は早くも夏バテをしているというのに、比古は頑丈だ。
 殆ど手を付けていないの膳を見て、比古は手を伸ばした。
「食わないなら貰うぞ」
「食べますっ!」
 取り上げられそうになった鱧を、は乱暴に取り返す。食欲は無いが、比古に食われるくらいなら、無理してでも食べるつもりだ。
 まったく、普通なら食欲が無いのを心配するだろうに、この男は何なのか。横取りしようなんて、卑しいにもほどがある。
 大体、父親に誘われたからといって、一度や二度ならともかく、来る度に当たり前のように飯を食って帰るとは何事か。食うなら食うで、手土産の一つも持ってくるのが筋だろう。山暮らしの非常識男にそれを求めるのが無理なのかもしれないが。
 こんなおかずの争奪戦も父親には和やかな遣り取りに見えるらしく、微笑ましげに目を細めている。これが仲睦まじく見えるとしたら、父親は耄碌し始めているのかもしれない。
 と、父親が何か思いだしたように袂から紙切れを出した。
「そうそう、町内会の寄り合いで納涼会の券を貰いましてな。丁度二枚ありますから、と先生とでいかがです?」
「何で私が―――――」
「へー、納涼会か。悪くないな」
 反発するの横で、何故か比古は乗り気で券を受け取った。タダなら何でも貰う男なのだろう。
 が、券を見た途端、比古は一寸がっかりしたように、
「何だ、お近から貰ったのと同じか」
「え?」
 は比古から券を引ったくる。納涼会の会場は、『葵屋』だった。
 お近が比古に券を渡した理由は、大体予想がつく。きっとお近は、この日には休みを取っているのだろう。あとはその場の雰囲気というか、比古次第である。
 前々から積極的な女だとは思っていたが、お近は本気で勝負に出てきたようだ。まあ、みたいな女が比古の周りでうろちょろしていたら、普通は危機感を持つだろう。
 自分に危機感を持たれても、とは微妙な気持ちになるが、同時に何故か胸がもやもやした。比古が誰からどういう目的で券を貰おうとには関係ないはずなのに、何故か引っかかる。
「タダなら何でも貰うのね。あんたが行ったら納涼会も暑苦しくなりそう」
 普通に「行ってくれば?」と言えばいいものを、は何故か憎まれ口を叩いてしまった。
 納涼会が羨ましいわけではない。行きたいなら父親から券を貰えば済むのだ。だが、何か気に入らない。
「俺みたいな涼しげイイ男はなかなかいないぜ?」
 どこまで本気で言っているのか判らないが、比古は気取った調子で言う。普通なら全力で冗談だと思うところだが、この男のことだから、全力で本気なのかもしれない。
 暑苦しい長髪に暑苦しい外套、そして暑苦しい体格のこの男の何処が“涼しげ”なのかと思うが、には突っ込む気力も無い。現実をここまで脳内変換できるなんて、幸せな男だ。
「あー、はいはい。勝手に楽しんでくれば?」
「何だ、お前、行かないのか? これ、買ったら結構高いらしいぞ?」
 『葵屋』はこの辺りでは一寸した老舗だから、納涼会の券もそれなりの値段はするだろう。も、比古さえいなければ飛びついているところだ。が、比古が行くと思うと、何となく二の足を踏んでしまう。
「別に興味に無いですし」
 つっけんどんに答えると、比古は何を思ったのか小馬鹿にするように鼻で笑った。
「ああ、お前には風流は理解できないか」
 風流とは対極にいるような男にそんなことを言われると、興味が無くても無関心を通す訳にはいかない。ここで行かなかったら、この先もずっと「風流を理解しない女」と見下され続けるだろう。
 そう思うと、何が何でも納涼会に行かなくてはいけないような気がしてきた。
「そんなことないわよ! 行くわよ! 何が何でも行ってやるわよっ!」
 本当に行っていいのかと思わないでもなかったが、は券を袂にねじ込んだ。





 何とも言えない微妙な空気を察して、は『葵屋』に来て早々後悔した。
 お近は山に来る時よりもお洒落をしていて、『葵屋』全員が一丸となって今日のために準備をしていたようなのだ。比古を呼び出したのに、が付いてきたのでは計画が台無しだろう。
 こういうことには鈍いでも気付くというのに、比古は全く気付いていないようだ。酒と御馳走に上機嫌である。“風流”とやらは何処に行ったのかと問い詰めたい。
 比古なんて、所詮この程度の男である。『葵屋』が一丸となって落とすような男ではない。タダ酒とタダ飯を用意してやれば、何処にだって行く奴なのだ。
 これはも協力してやらなければならないような気がしてきた。というか、このままでははお近の敵認定されてしまう。
「ちょっと、飲んでばかりいないで、お近さんと話でもしなさいよ」
 周りの気も知らずに飲んでばかりの比古に、は肘で突きながら小声で言う。
「涼みながら酒を飲むのが、今日の目的だろうが」
 比古の言うことは尤もだが、それは建前というものだ。お近の様子を見ても、何も気付かないのだろうか。だとしたら、相当重症である。
「タダ券貰ったんだから、お近さんにお礼の一つでも言ったらどうなの? あんたをわざわざ招待して、意味くらい
解ってるでしょ?」
「面倒臭ぇなあ………」
 比古がぼそっと呟く。
 何に対して“面倒臭ぇ”なのか判断がつきかねるが、きっとに対してだと思いたい。招待して“面倒臭ぇ”なんて言われたら、お近が気の毒だ。
 一緒には来たけれど、と比古は『葵屋』の人間が思っているような関係ではない。父親の言いつけで陶芸を習っているだけの、赤の他人だ。それを証明するためにも、ここでが、比古とお近の橋渡しをしなければならないような気がしてきた。
 こういうことの仲介はやったことは無いが、とにかく二人きりにさせれば、あとはお近が何とかするだろう。梅の話では仲介役は楽しいと聞くし、これから山に行く時も進展具合を聞くという楽しみもできる。
「面倒臭いじゃなくて、一寸行ってきなさいよ。それが礼儀ってもんでしょ」
 比古の杯を取り上げて、は立ち上がるように身体を押す。こいつは酒がある限り、絶対に動かない男なのだ。
 比古は不満そうな顔をしたが、此処では飲めないと判ると渋々立ち上がった。





 やっと比古とお近が二人になれて、『葵屋』の者たちも一安心のようだ。のこともただの連れだと理解したようで、これで彼女も一安心である。
 お近はというと、楽しげに比古に話しかけたり酌をしたりと、本当に幸せそうだ。もいいことをしたような気分になる。
 が、問題は比古だ。偏屈なのか照れ隠しなのか知らないが、むっつり黙り込んでいるようである。せっかくお近がこうやって盛り上げようとしているのに、その態度は何なのか。
 普通、相手が話しかけてくれば、愛想笑いの一つもして応えるべきだろう。しかもお近はこの納涼会の券をくれた相手なのだ。それなのにあんな素っ気ない態度なんて、本当に失礼な奴だ。
 お近みたいな女に好意を持たれたら、が男だったら悪い気はしないと思う。あんな風に比古しか見えていないように話しかけられたり、酌をされたら、きっと嬉しいだろう。男と女では好みは違うかもしれないが、お近は大人っぽい美人なんだから、悪い気はしないはずだ。
 比古は自分が超絶天才の超絶美形だと思っているから、理想も異常に高いのだろうか。お近が気に入ってくれるのだから、そこで手を打てばいいのに。比古の歳を考えれば、お近以上の女は言い寄ってはこないと思う。というか、お近でも贅沢だ。
 現実と向き合わずに山奥で生活していると、こんな人間になってしまうのだろう。そうやって比古が朽ち果てていくのはかまわないが、お近が気の毒だ。
 これはやはりが間に立ってやらなくては。二人きりになれば何とでもなると思っていたが、比古は特殊すぎたらしい。
 は立ち上がると、お近の隣に移動した。
「あんた、さっきから見てたら飲んでばかりで全然喋んないじゃない! 返杯くらいしなさいよ!」
「酌したいって奴に酌させて何が悪ぃんだよ」
 が怒っても、比古は反省するどころか煩そうに舌打ちするだけだ。この何様かと思うような言い種も気に食わない。
 人の気も知らないで、こいつはもう何もかもが駄目だ。お近も他を当たればいいのに。
 苛々最高潮のを煽るように、比古はわざとらしく溜め息をついた。
「酌もできねえ女に説教されるとはなあ。お前もお近を見習ったらどうだ?」
「私は関係ないでしょ!」
 今はお近と比古の話をしているのだ。が酌をしないなんて、どうでもいい。
 大体、タダ飯をたかりに来ている男に、どうしてが酌までしてやらなければならないのか。本当に図々しい奴だ。
「晩御飯をたかりに来るような人にお酌なんてしません!」
「あれはお前の親父さんが是非にと言うからだろ」
「社交辞令に決まってるでしょ、そんなの。ホントに鈍いんだから」
「じゃあ、これも社交辞令だったのか? 何か悪かったな」
「私のは社交辞令なんかじゃありませんわ!」
 この流れで何故か謝る比古に、お近は全力で否定した。
 この場合、謝るのはに対してだろう。よほどの馬鹿なのか、わざとやっているのか、本当に比古は訳が分からない。
「ほら、お近もこう言ってるんだ。お前の親父さんも社交辞令とやらじゃねぇよ」
「だからお近さんと私は違うって!」
 比古とお近の間を取り持つはずなのに、話が変な方向に流れて言ってしまっている。の家に夕食をたかりに行っている件は、今は脇に置いておこう。
「お近さんのは社交辞令なんかじゃないの! だからもう少し話を弾ませるとかしなさい! せっかく呼んでくれたんだから」
 釘を刺すようにもう一度言うと、はその場を離れる。此処まで言ったのだから、比古も少しは改めるだろう。今度こそ二人でうまくやってもらいたい。
 が、せっかく気を利かせたというのに、比古から袂を掴まれた。
「何だよ、一緒に飲めばいいじゃねえか」
「二人で飲みなさいって!」
 この男は今まで何を聞いていたのか。あんなに話したのに全然解ってない。
「二人より三人で飲んだ方が楽しいだろ。なあ、お近?」
「ええ、まあ………」
 一応、笑顔は作っているが、お近は全力で嫌がっている。この日のために計画を練っていただろうから当たり前だ。
 お近を応援するはずだったのに、これでは邪魔しに来たようなものではないか。これは非常にまずい。
「いえ、私は………」
「ほら、お近もこう言ってんだからよ。まあ座れ」
 とお近の両方から全力でお断りの雰囲気を出しているというのに、比古には全く通じていない。ここまで通じないなんて、きっと鋼の心臓の持ち主なのだろう。
 こうなったら、はっきり言ってやるしかない。は比古にだけ聞こえるように小声で言った。
「それこそ社交辞令なんだってば! お近さんはあんたと二人きりになりたいの! 判りなさいよ、この馬鹿!」
「へ? 社交辞令だったのか?」
 比古はお近に尋ねる。
 だからどうしてお近に尋ねるのか。そんな風に言われたら、社交辞令だとは言えないではないか。
 案の定、お近は微妙な半笑いで、
「そんな、社交辞令だなんて………」
 言葉とは裏腹に、雰囲気は全力で拒絶している。としても空気を読んで何処かへ行きたいのだが、比古がしっかりと袂を掴んで放さない。
 二人の仲人をするつもりが、どういうわけか完全に邪魔者だ。こんなはずではなかったのに、一体何処で間違えたのか。気まずい空気の中では真剣に悩んだ。
<あとがき>
  夏らしい話をということで、納涼会。うちのサイトの『葵屋』はいろんなイベントをやってるなあ。
 そういうわけで仲人初挑戦の主人公さんですが、見事に大失敗です。相手が悪かったな。
 師匠は山に籠もりきりのイメージだったのですが、この師匠はよく町に下りてるなあ。しかも飯までたかりに来るとは。この師匠は社交家さんだ(笑)。
  
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