たのしい自給自足生活
比古が教えてくれる様子が無いので、陶芸の入門書を買った。まったく、父親と比古のせいでいらぬ出費である。本を読んだところで飛躍的に上達することはないだろうが、まあ無いよりはマシだろう。さっさと茶碗を作って、この面白くもない『お稽古事』から足を洗いたいものだ。あんな山奥に通うのも、比古に馬鹿にされるのも、何もかもが面白くない。
「あら、さんじゃないの」
書店からの帰り道に、後ろから声をかけられた。
「ああ、梅ちゃん。帰ってきてたの?」
声をかけてきたのは、幼なじみの梅だ。赤ん坊を抱いている。
梅は少し離れた町に嫁いでいて、こちらに帰ってくるのは年に一度か二度だ。が最後に会ったのは、この赤ん坊の里帰り出産の時だった。
「法事があったのよ。それにしても相変わらずねぇ、その頭」
そう言って、梅はの頭をまじまじと見た。
梅はとは正反対の保守的な性格で、今でも櫛や簪で髪を飾っている。が断髪した時、最後まで反対したのも梅だった。
そして断髪した時にそうしたように、呆れた顔で自転車を見て、
「また変なのに乗って………」
梅がの自転車を見るのは初めてだ。“自転車”という名前も知らないかもしれない。
「自転車っていうのよ。いいでしょ」
「………そう?」
自慢げなに対し、梅の反応は薄い。のやることなすことに反応が薄いのはいつものことだ。自転車の便利さを理解すれば、梅もきっと欲しくなるだろう。
興味無さそうに自転車に一瞥くれた後、梅は籠に入っている包みに注目した。
「何買ったの? 本?」
が本を買うのは珍しいことだ。自転車なんぞより、そっちに興味を持ったらしい。
「ああ、これ?」
包みを開け、は少し表紙を見せた。
「陶芸なんてやってるの?」
これには梅も驚いたようだ。と陶芸なんて結び付かなかったのだろう。
自身も自分が陶芸をやるなんて思っていなかったのだから、梅が驚くのは理解できる。少し驚きすぎだとは思うが。
またケチを付けるのだろうと思っていたら、意外にも梅が食いついてきた。
「何? 先生に付いて習ってるの?」
「習ってるっていうか………。お父さんに言われて、新津覚之進って人のところに行ってるの」
「えぇ?! 凄いじゃない。新津覚之進っていったら、有名人よ」
何だか分からないが、梅は興奮している。有名人好きだから、陶芸なんかより、新進陶芸家に興味があるのだろう。
新津覚之進をどんな風に想像してるのか分からないが、たぶん比古に会う前のと似たようなものだろう。
「そんな良いものじゃないから」
は一応忠告してみるが、有名人好きの梅には聞こえていないようだ。完全に舞い上がってしまっている。
「ねぇ、私も行ってみたい。今度行く時、一緒に連れていってよ。こっちには暫くいるからさ」
「凄い山奥よ。その子どうすんの?」
嫁入り前は花嫁修業と称したお稽古事の時くらいしか外に出なかった梅が、あの山道に耐えられるわけがない。しかも、こんな小さな子供を抱えてとなると、絶対不可能だ。
が、梅はことも無げに、
「ジジババに預けるから大丈夫。孫の面倒を見させてあげるのも親孝行のうちよ」
一寸遊ばせてやるのは確かに親孝行だが、赤ん坊を一日預けっぱなしというのは、流石に如何なものか。は子供の世話をしたことが無いが、赤ん坊の世話が大変なことくらいは分かる。
大体、親にも都合というものがあるのだから、いきなり預かってくれと言って承知するものか。梅の親は厳しい人たちだから、有名人に会いたいからなんて理由では預かってはくれないと、は思うのだが。
「勝手に決めてるけど、預かってくれるの?」
「うん。預かってやるから何処か行け、って言われてるくらいよ」
梅の返事は軽い。本当にいつもそう言われているのだろう。
厳格な印象しかない梅の両親がそんなことを言うなんて、孫というのは本当に可愛いものらしい。の父親も、そういうのが欲しくなったのかもしれない。が、その孫の製造元が比古というのはどうだろう。
比古が父親でが母親で―――――と想像しかけて、慌てて打ち消した。あんな熊みたいな俺様男の子供なんて、可愛くないに決まっている。
「まあ、それなら、ねぇ………」
新津覚之進が熊みたいな俺様男だと分かったら、梅もと同じようにがっかりするだろう。有名人好き熱も、一寸は冷めるかもしれない。
子供のことが解決しているなら、とは渋々承知した。
梅が一緒だから、今日は自転車は無しだ。町からひたすら徒歩で、もうはへとへとだ。
対する梅は、元気なものだ。嫁入り前は山歩きなんてしたことも無かったくせに経産婦は強い。それとも、“有名人に会える”というのが原動力になっているのだろうか。
「新津さんって、どんな人かしらね。若くて成功するなんて、きっと凄い人なんだわ〜」
どんな“新津覚之進”を想像しているのか知らないが、梅は目をきらきらさせている。まるで新津に会う前のを見ているようだ。
比古は陶芸の世界では新人だが、確実に三十路は超えている。おまけに口は悪いし態度はでかいし、良いところなんか一つも無い。
「あんまり期待しない方が良いと思うよ」
は一応言ってみるが、梅の耳には届いていないようだ。どうしたものかな、とは溜め息をついた。
そうこうしているうちに、二人は山小屋に着いた。は息切れして膝が笑っている状態だが、梅はそれほど疲れたようが見えない。本当に経産婦は強い。
呼吸を整え、は山小屋に向かって声をかけた。
「こんにちはー。ですー」
が、小屋からは返事は無い。外出しているのだろうか。今日はが来るのは分かっているはずなのだが。
「こんにちはー。お留守ですかぁ?」
「うるせぇなあ。今、手が離せねぇんだよ」
小屋の裏手から面倒くさそうな声がして、刃物を持った比古が出てきた。
「ひっ………?!」
と梅が同時に悲鳴を上げる。
一体何をやっているのか、比古の刃物も両手も血塗れだ。大男でこれというのは、かなり怖い。
「なななな何やってんのよっ?!」
先に立ち直ったが、血相を変えて怒鳴る。まともな男ではないとは思っていたが、が来るのが分かっているのに血塗れの両手でお出迎えとは何事か。しかも今日は梅がもいるのである。
梅の様子を窺うと、もう立ち直ってはいるようだ。出産の際にはこれどころではない血を見たのだから、意外と平気なのかもしれない。
梅が卒倒しなかったのは良かったが、だからといって比古のこれが許されるわけがない。
「今日は私が来ること分かってたでしょ! 何なのよ、一体?!」
「ああ、そうだったな。丁度良い。猪鍋食ってくか? 今、バラしてるからよ」
両手血塗れという異常な姿のくせに、比古の口調はいつも通りだ。自給自足の生活では、獣の解体は日常茶飯事なのだろう。
比古には日常なのかもしれないが、町育ちのには猟奇的だ。彼女も牛鍋は食べるが、今まさに解体中の獣というのは想像したことも無い。
「そ……そんなのっ………!」
「まあ、楽しみ! ねぇ、さん?」
ドン引きしているとは反対に、梅は乗り気だ。小屋の裏で解体中の猪のことなど想像もしていないのだろう。
の突拍子もない行動には批判的なくせに、比古に対しては全肯定だ。梅の基準が全く解らない。
解体中の猪を想像するとぞっとするが、猪鍋は美味しい。文明開化して肉は身近な食材になったというものの、まだなかなか口にできないのが現状だ。
新鮮な肉は、町に住むたちには高級食材である。一寸新鮮すぎるところが、にはドン引きなのだが。
「………まあ、梅ちゃんがそう言うなら………」
今日は梅がお客様である。比古と鍋なんて、とは思ったが、梅が乗り気ならとは承諾した。
新鮮な肉を使っているだけあって、素人料理ながら美味しい猪鍋である。さっきの血塗れの姿を思い出さなければ、だが。
ついさっきまで猪の姿をしていたのかと思うとは微妙な気分になるが、梅は全く気にしていないようだ。きっとは、比古や梅と違って神経が細いのだろう。
「この器も野菜も新津さんが作られたんですか?」
梅が楽しげに尋ねる。
「ああ。その豆腐もな」
陶芸家だから器が自作なのは当たり前だし、野菜は菜園があると言っていたからも驚かないが、豆腐も自作というのは驚いた。別に自慢している風でもないから、比古には当たり前のことなのかもしれない。
こんな山奥暮らしなら、町に買い出しに行くよりも、可能なものは自給自足で賄うのが早いのだろう。稲作をやっていたら酒の密造もやりそうな勢いである。
「凄い! いいなあ、そういう生活。楽しそう」
梅は町での暮らししか知らないから、自給自足の生活の大変さなんて思いもよらないのだろう。実際にやれと言われたら、三日もしないうちに逃げ出すと思う。だって三日もてば御の字だ。
「鶏も〆られないくせに、何言ってんだか」
汁を啜りながらは毒づく。山で自給自足となったら、〆るのは鶏どころではないことくらい、町育ちのにも想像はつくのだ。
が、梅は涼しい顔で、
「そういうのは男の人の仕事だもの。ま、うちのは油虫にも大騒ぎするから無理だろうけど」
梅の夫には、も一度だけ会ったことがあるが、確かに虫も殺せないような大人しそうな男だった。あれでは自給自足生活は無理だろう。
かといって、比古のような男もどうかと思うのだが。猪の解体を目の前でやられたら、気の強いでも腰を抜かすだろう。比古との自給自足生活は、腰を抜かしたり肝を潰したりの連続だ。
「この猪、どうやって仕留めたの? 銃は無いみたいだし………」
小屋の中を見直して、は尋ねる。
ぱっと見たところ、小屋には狩猟に使えそうな道具は無い。まさか素手で仕留めたということはないだろうが、比古を見ていると、それもありそうな気がしてきた。
「罠を仕掛けといたんだよ。あいつら、最近調子に乗って裏の畑を荒らすからな」
「この辺りにも出るの?」
猪というのは森の中に住んでいると思っていた。小屋の周辺は獣が隠れるような所は無いから、には意外だ。
「夜になると普通に出てくるぞ。だからお前らも暗くなる前に帰れよ」
「やだー、怖ーい!」
怖いなんて言いながら、梅の声ははしゃいでいる。梅は猪なんて見たことが無いから、野良犬程度のものだと思っているのだろう。
も猪は見たことが無いが、かなりの重量級だと聞くから、体当たりでもかまされたら大怪我をするかもしれない。比古のような大男とはいえ、人間が住んでいるから油断していたが、とんでもない危険地帯だったらしい。
今日は徒歩であるし、梅もいるからもう帰ろうかと考えていると、比古が何か思いついたようににやついた。こういう時は、大体碌でもないことを言う時だ。
「まあ、お前を見たら猪も逃げるから、大丈夫か」
その失礼な台詞に、梅が噴き出した。こいつは友達のくせに、何を笑っているのか。
が膨れていると、梅は笑いながら言う。
「男の真似をして断髪しちゃうような人だもの。猪だってびっくりして逃げちゃうわ」
友達だと思っていたのに酷い言い種である。はますます膨れた。
「あー、楽しかったぁ」
猪鍋をたらふく食べ、肉を土産に貰って、梅は大満足だったようだ。比古の姿を見てがっかりしたかと思ったが、こちらの方も満足したらしい。
「さんがあんまり悪く言うからどんな人かと思ったけど、良い人そうじゃない。おじさんが勧めるのも解るわ〜」
「はぁ?」
こいつも物に釣られたのかと、は心底呆れた。花瓶といい肉といい、の周りは安い奴らばかりだ。
父親の件は梅には話してなかったはずだが、何処で聞きつけてきたのだろう。父親が触れ回っているのだろうか。そう思ったら、は頭が痛くなってきた。
「山で気ままな自給自足生活って、さんに合ってると思うのよねぇ。新津さんとも合いそうだし」
「どこがよ、あんな野蛮人」
他人事だと思って、梅は適当なことを言ってくれる。と比古が合うなんて、一体何を見ているのだろう。
猪が出るような山奥で比古と暮らすなんて、には無理だ。しかも自分で猪を捌くなんて。
「だって、うちのみたいなのは無理でしょ?」
自分の亭主のことなのに、梅は結構ひどい。
そう言われれば、確かに梅の夫のような大人しい男は、の性格には合わないと思う。だからといって、比古というのは極端だが。
「いいと思うけどなあ、ああいう人」
何を見て“いい”と思ったのか解らないが、梅は本気で思っているらしい。楽しそうにふふっと笑った。
師匠、猪捌いたり豆腐作ったり、本当に何でもできるな。何処でも生きていけそうだ。
気ままなスローライフは楽しそうではあるが、猪と戦うのはなあ(笑)。罠にかかった猪、どうやって〆たんだろ? まさか素手……じゃないよな。でも師匠なら素手で〆られそうだ(笑)。