マリッジブルー

 成り行きでの部屋に狸の置物が置かれることになった。紆余曲折の末、あるべき場所に収まったというわけだ。
「もう一寸いい場所においてやれよ」
 箪笥の上に置かれた狸の置物を見て、比古が言った。
「何処に置けっていうのよ。っていうか、勝手に部屋に入ってこないでよ」
 いつもは座敷でどっかりと座っている比古が、何故か今日はの部屋にどっかりと座っているのだ。図体が大きい上に嵩張る外套を着ているから、邪魔なことこの上ない。まるで部屋の広さが半分になってしまったかのようだ。
 明らかに歓迎されていないのに、比古はしゃあしゃあと、
「もう夫婦同然の仲なんだから、細かいこと言うなよ」
「そんな仲にはなってない!」
 は顔を真っ赤にして怒鳴る。
 どういうわけか、比古はもうの亭主気取りだ。結納をしたわけでもなく、手すらまともに握ったこともないのに、図々しい。
 確かに比古との結婚を承諾するようなことを言ってしまったけれど、あれは弾みというか、場の空気に流されてしまっただけだ。正直、どうしてあんなことを言ってしまったのかと、少し後悔している。
 一生を左右することなのだから、もっとちゃんと考えるべきではなかったのか。結婚は勢いだと人は言うけれど、それは相手がまともな人間であることが前提だ。少なくとも比古はまともではない。
「照れるなよ。もう親父さんには報告済みなんだ。夫婦も同然だろ?」
 はこんなに悩んでいるというのに、比古は気楽なものだ。芸術家のくせに、繊細さの欠片も無い。
 比古くらい図太かったら、生きるのは楽だろう。この図太さを分けてもらいたいくらいだ。
 は溜め息をついて、
「本当にこれでよかったのかしら。もう少しよく考えた方が―――――」
「何? 結婚が決まってセンチメートルになってるのか?」
「センチメンタル!」
 腹が立つくらい能天気な比古の言葉を、はぴしゃりと訂正する。
「似たようなもんだろ。細かい奴だな」
「〜〜〜〜〜〜」
 細かくなんかないと思うのだが、これはもう感覚の違いというやつなのだろう。こんなに違う相手と、本当に夫婦になって大丈夫なのかと、は更に不安になる。
 やはりこの話は一度白紙に戻すべきか。父親に報告しているのをひっくり返すのは大変な労力を要するだろうが、このまま話を進めて失敗した時は、もっと大変なことになるのだ。決断するなら今しかない。
「やっぱりもう一度よく考えるべきだと思うの」
「別にいいけど、何回考えても変わんねぇよ」
 は一大決心をして言ったというのに、比古の口調は何とも思っていないように軽い。どうせ今更白紙に戻すなんてできないと思っているのだろう。
 比古は続けて、
「お前、俺といて退屈しねぇだろ?」
「はぁ?」
 一体何を言っているのかと、は呆れた。
 比古といて退屈しないというか、次から次に騒動が起こるから退屈している暇が無いだけだ。楽しいから退屈しないとか、そういうわけではない。
「退屈しないんじゃなくて、退屈する暇が無いの!」
「同じだろ」
「ぜんぜん違う!」
 どうやったらこの微妙な違いを比古に理解させることができるのだろう。こういう感覚的なことが分かり合えないというのは、相性が悪いのだと思う。
 の言っている意味を考えているのか、比古は腕を組んで低く唸る。この男にしては珍しく真剣な顔だ。
 が、結局何も思いつかなかったらしい。へらへらした顔で、
「ま、何にしても俺は楽しいけどな」
「あんたが楽しくったって―――――」
「お前といると楽しいし、俺もお前を一生退屈させない自信があるぜ?」
「〜〜〜〜〜〜」
 これは一体どう返すべきか。一生退屈させないなんて、何を根拠に言っているのだろう。
 まあ、この非常識男の相手をしていれば、退屈している暇なんか無いだろう。が、比古はそういう意味で言っているわけではないと思う。
「退屈でも平凡な人生を送りたいものだわ」
 “平凡な人生”なんて漠然としすぎて、もどういうものか分からない。けれど、比古に対する意地のようなものである。
 比古は可笑しそうに笑って、
「お前、自分が平凡ってやつに納まるタマだと思ってんの?」
「失礼な人ね! あんたが規格外だからって、私まで一緒にしないでよ」
 比古がお近ではなくを選んだ理由が、今になって解ったような気がした。自分と同類と思っていたとは。
 確かには変わり者と評判だが、どう考えても比古よりはマシだと思う。傍から見れば同類に見えるかもしれないけれど、少なくとも自身はそう思っている。
「いやいや、現実を受け入れろって」
「〜〜〜〜〜〜」
 何処までも腹の立つ男である。何が“現実を受け入れろ”だ。お前こそ現実を受け入れろと言いたい。
 この男を更生させることができるのは、しかいないのではあるまいか。お近のように恋で目が眩んでいるわけでもなく、父親のように陶芸家の肩書きに騙されているわけでもなく、冷静に比古の事を見ることができるのはしかいない。
「やっぱり私が更生させてやるしかないのかしら………」
 はほぼ諦めの境地だ。比古に常識を教え込むなんて、猫に論語を教えるより難しいだろうが。
 が悲壮な決意をしているというのに、比古は能天気な様子で、
「やっぱり此処に置くべきだろ。いつでも見れるところに置いとかないとな」
 いつの間にか狸の置物を箪笥の家から文机に移動させていた。確かにこの位置なら、嫌でも目に入る。比古はとても満足そうだ。
 人が今後のことを真剣に考えているというのに、この男は何をやっているのか。
「何勝手なことしてんのよ!」
 もう本当に、この男はどこから矯正したらいいのか。常にが見張っていないと、いつかとんでもないことをやらかしそうだ。
「あんたね! 子供じゃないんだから、少しは落ち着きを持ちなさいよ! 私が見張ってないと、じっと座ってることもできないの?」
「そんなにカリカリするなよ。煮干でも食え」
「誰のせいだと思ってるのよ!」
 空気を読めないのか読まないのか判らないが、比古はどこまでも勝手気ままだ。ここまで気ままだと、生きるのも楽だろう。比古が実年齢より遥かに若く見えるのは、気ままな生活のお陰なのかもしれない。
 は深い溜め息をついて、
「あんたみたいに勝手気ままだと、生きるのが楽でしょうね」
「まあな。お前も俺を見習えよ」
 の皮肉も比古には全く通じていない。本当に見習いたいくらいの厚顔さだ。
 ここまで突き抜けられると、逆に怒りも殺がれてしまう。こうやってこれまでも乗り切ってきたのだろう。得な男である。
「………何かもう、どうでもよくなってきた」
 比古に腹を立てたことも、縁談を白紙に戻すことさえも、どうでもよくなってしまった。そんなことに煩わされている自分が、とても小さい人間のような錯覚に陥ってしまう。まあ実際、錯覚なのだが。
 比古は何故か得意げな顔になって、
「な? 俺といると、小さいことなんかどうでもよくなるだろ?」
 とんでもなく前向きな男である。 ここまで前向きだと幸せだろう。
 比古と一緒にいると小さいことは気にならなくなると言うけれど、それでは彼と同じ人間になってしまいそうな気がする。それでは社会生活に支障をきたしそうだから、やはりが比古を教育してやらなくては。
 やはりが一生をかけて比古を見張るしかあるまい。世間様に迷惑をかけることのないように監視し、比古を真人間にすることこそが、に与えられた使命のように思えてきた。
 世間では何をきっかけに夫婦になることを決めるのか知らないけれど、こんなことが決め手になって夫婦になるというのはくらいなものだろう。比古が普通ではないように、もまた普通ではないらしい。
「夫婦になるって、こういうことなのかしら………」
 世の中のすべての夫婦が物語のような劇的な経緯の末に結婚しているとは思わないけれど、はまだ釈然としない。まあと比古の経緯も、劇的といえば劇的なのだが。
「そんな難しく考えることもねぇだろ。そんなに何でも難しく考えると、老けるぞ」
 人生の分かれ道なのだから難しく考えるのも当然のことなのだが、比古にはそれが分からないらしい。比古は豪快に笑い飛ばした。
<あとがき>
 結婚直前になると「本当にこれでよかったのかしら……」と何かと考えるもののようです。もう引き返せないってプレッシャーがそうさせるんですかねぇ。大抵は要らぬ心配だったりするのですが、ガチで引き返した方がいい場合もあるんで、その切り分けが難しいところです。
 でも、師匠との生活は苛々しながらも楽しそうな気がします。
戻る