不思議なものは多い。しかし人間ほど不思議なものはない
狸神社の狸様は何でも願いを叶えてくれるらしいが、結局ご利益はあったのかには今一つ分からない。金運は以前と変わった様子は無く、成り行きで願掛けをした愛情運に関しては、御覧の有様だ。確率は五分五分、叶えたとしても手近なところで済ませる適当さ加減が実に狸らしい。多分は、このまま成り行きで比古と結婚することになるのだろう。あれが自分の亭主というのは今でもどうかと思うけれど、人の縁というのはこういうものなのかもしれない。幼馴染の梅も、見合いの時はどうかと思っていた男と結婚してみて、案外上手くいっているようだ。
しかし気弱で頼り無いとはいえ、梅の夫は話で聞く限りでは常識人である。常識が通じる相手なら日常生活も恙無く送れようが、比古は存在そのものが非常識だ。あんな非常識男と一緒に暮らすなんて、想像を絶する。
「おっ、配達の帰りか?」
狸神社の鳥居の前に立っているに、通りがかりの比古が声を掛けてきた。今日もの家に飯を食いに行くのだろう。こんなに頻繁に山を下りて、一体いつ仕事しているのだろうと、は疑問に思う。
「あんた、仕事は?」
「今日は集金だよ。お前の店のツケも溜まってるしな」
そう言う比古は狸を連れていて、とても集金回りをしているようには見えない。
狸をじっと見るに気付いて、比古は説明する。
「こいつを連れてると餌貰えんだ。たまには美味いものを食わせてやらねぇとな」
「自分で食べさせなさいよ」
の家だけでなく、他所でもたかっていたのかと、は呆れた。飼っている狸に美味いものを食べさせてやりたいというのは良い心掛けだとは思うが、それを用意するのは飼い主である比古の役目だろう。
けれど比古はしれっとして、
「くれるって言うんだから、断るのは悪いだろ」
「それはそうだけど………」
人に飼われている狸なんて珍しいから、相手も面白がって餌を与えてしまうのだろう。しかもこの狸は飼い主に似ずに人懐っこくて、愛想を振りまいて餌をねだっているに違いない。道理で餌の少ない冬場でも丸々していたわけだ。
他所で何を食っているかは分からないけれど、こんなに年中丸々としていれば、無関係のですら狸の健康が心配になってくる。余計な世話かもしれないけれど、ここはが狸の健康管理をしてやるべきではあるまいか。
「他所で餌をねだるのはやめてよ。狸の餌くらい、家で用意するし」
「何だ? 嫉妬か?」
何を誤解したのか、比古はにやにやする。
「そんなんじゃないし! 狸の健康も考えなさいってこと。どう見ても太りすぎじゃない」
「こんなもんじゃねぇの? そこの狸神社の御神体も凄ぇ腹だぜ」
「あれは置物だから―――――」
「そうだ、せっかくだから御礼参りしとくか。まだ行ってないだろ?」
こういうのは馬鹿にしている比古の口から“御礼参り”なんて言葉が出るとは思わなかった。それ以前に、この狸様に何の礼をするというのか。
きょとんとするに、比古はにやりと笑って、
「良縁に恵まれたんだから、礼くらいしとけって」
「はあっ?!」
比古の言うことだから、“良縁”というのは彼との縁談のことだろう。“良縁”と言い切るのは、この男らしく図々しい。
新進気鋭の陶芸家との縁談というのは、世間的には良縁なのだろう。条件は悪くないのだろうが、問題は比古の性格である。傲慢な自信家なんて、ほかの条件を台無しにするくらいの破壊力を持っている。
勿論、の方だって、相手のことをあれこれ言える立場ではない。断髪して自転車を乗り回している時点で、近所では相当な変わり者として有名なのだ。変わり者同士、傍から見れば似合いの二人なのかもしれない。は認めたくないけれど。
「良縁っていうか、手近なので手を打っただけじゃないの。狸だし」
「狸馬鹿にすんなよ。意外と頭良いぞ」
の言葉で突っ込むところはそこかと脱力した。
狸が賢いかどうかなんて、この際どうでもいいのだ。問題は、これが良縁かどうかということである。
の悩みなど全く気にも留めない比古は暢気な様子で、
「此処で会ったのも何かの縁だ。御礼参りしとこうぜ」
以前来た時もそうだったが、此処の狸の置物は壮観だ。前より増えたような気がする。
「満願成就の際には、狸の好物か狸の置物を供えるんだと」
本殿の脇にある立て札を見て、比古が言う。
このたくさんの狸の置物は、ご利益の証だったらしい。外に並べられているものだけでなく、本殿にも大小の狸がぎっしりと並んでいる。これだけの狸が一斉にこちらを見ていると、ただの置物なのに怯んでしまいそうだ。
これだけの狸がいるということは、かなりのご利益があるということなのだろう。何でも引き受けてくれる気前の良い狸様だから、どれかに引っ掛かっているだけなのかもしれないが。
「とりあえず、これでも置いとくか」
そういって比古が出したのは、小さな筍だ。狸にと貰ったものだろう。
それを見て、狸が抗議するように吠える。自分が貰ったものを勝手に横流しされそうなのを察したらしい。比古の言う通り、狸は意外と頭が良いようだ。
お礼をお供えしようというのは良い心掛けだが、狸が貰った筍というのは、狸にも狸神様にも失礼だろう。
「狸のを横流しなんて、罰が当たるわよ」
「が食っても此処の狸が食っても同じだろ。それに、痛みを伴うお供え物なんて、神様も感激するだろうよ」
尤もらしいことを言っているが、痛みを伴っているのは筍を横取りされる狸だけだ。比古は何もしていないではないか。
「横取りしたものを喜ぶわけないでしょ。あと、その名前やめてよ」
「細けぇ奴だなあ」
まるでが口煩いような言い方だが、どう考えても常識的なことを言っていると思う。
「じゃあ、また狸の置物を焼くのか? あれ、面倒臭ぇんだぞ」
別に比古の手作りでなくてもいいと思うのだが、陶芸家だから自分で作らなければならないと思っているらしい。
「それなら家にある置物を持ってくるわ」
「それは俺に対して失礼だろ。あれはお前に作ったんだぞ」
手作りに拘っているようだから親切心で言ってやったのに、比古に怒られてしまった。
お前のためにと言われても、は別にあの狸の置物なんかどうでもいいのだ。今だって、あの置物はの部屋ではなく、店に置かれている。狸の置物だって、店に一個だけで置かれているよりは、この神社でたくさんの仲間に囲まれている方が嬉しいだろう。
「狸の筍を横取りするよりはマシでしょ」
「わかったよ。また作ればいいんだろ」
にはそんなつもりは一切無かったのだが、どうやら脅していると取られてしまったらしい。比古はむすっとして吐き捨てるように言う。
また作るのは面倒臭いなんて言いながら、の狸の置物を供えると言うと新しいものを作るなんて、あの狸の置物にはよほど思い入れがあるのだろう。比古に思い入れがあっても、正直言ってはそれほどでもないのだが。
ともかく、御礼参りの品物が貰い物の横流し品でなくなってよかった。これでもし次に何か頼むことがあったとしても、大きな顔をして頼める。
「よかったわねぇ。横暴な飼い主に取り上げられなくて」
聞こえよがしにそう言うと、は狸の頭を撫でた。
比古はまだ集金が残っているということで、は一人で家に帰った。
「おや、早かったじゃないか」
店番をしている父親が、例の狸の置物を磨いていた。
「この狸を譲ってほしいという人がいてね。いやあ、見る人が見れば判るもんなんだねぇ」
「え?」
この狸を欲しがる人間がいるとは驚きだ。しかし、こんなものでも有名な陶芸家の作品であるし、珍品でもあるのだから、欲しがる人間がいても不思議は無い。
父親が上機嫌に、
「これが売れたら、みんなで美味しいものを食べに行こうかねぇ。あ、もちろん新津さんも誘ってね」
「売るって、そんな勝手に………」
はびっくりして言葉が出ない。
狸神社に奉納すると言った時に怒られたくらいだから、売ったと言ったら比古がなんと言うか。否、比古のことなど関係無く、売るなんてが嫌だ。
「お前もいらないって言ってただろう」
「言ったけど……言ったけど、気が変わったの!」
確かにあの時はいらないと言ったけれど、状況が変わったのだ。あんなふざけた狸の置物とはいえ、比古がのために作ってくれたものである。いくら何でも売るわけにはいかない。
に反対されるのは予想外だったらしく、父親は困惑する。が、すぐに意味ありげににやにや笑って、
「そうだね。新津さんがお前のためにと作ってくれたものだもんなあ。父さんが悪かったよ」
「そんなんじゃないし! 勝手に売られるのが嫌なの!」
父親の妄想を力いっぱい否定するが、の顔は真っ赤になってしまって説得力が無い。
の顔を見て、父親はしみじみと何度も頷いて、
「お前が放ったらかしにしてるから、心配していたんだが………。これはお前の部屋に飾っておきなさい。ああ、先様には上手くお断りしておくよ」
と、に狸の置物を押し付けた。
「………………」
ぴかぴかに磨き上げられた狸を見下ろして、はそのまま固まる。売るなと言っただけなのに、比古に貰ったものだとか、大切なもの扱いされて、挙句にの部屋に引き取る羽目になるなんて、それこそ狸に化かされたような気分だ。
気のせいか、磨き上げられた狸の顔は、いつもより楽しそうに見えた。
そういえば狸様に良縁もお願いしてたんだよね、主人公さん。良縁……良縁だと思うよ?(笑)
師匠の狸の置物も主人公さんの部屋に飾られることが決まりましたし、そろそろこの二人も納まるところに納まってもらわないとねぇ。