好感度、二番底
今思い返してもむかむかする。あの新津覚之進のことだ。あんな失礼な人間は初めてだ。山奥に住んでいるのも、人間嫌いというのは見栄で、本当は近所の住人と揉めて、町にいられなくなっただけかもしれない。
それにしても、あんなのがよく陶芸家として成功できたものだ。ああいう世界は人脈がものをいうと思っていたが、そうでもなかったのか。それとも、そんなものは関係ないほど、新津の才能が突出していたのか。彼の作品を見たことが無いには判らない。まあ、見ようとも思わないが。
「お嬢さん、新津さんの配達、お願いします」
当たり前のように、使用人がの前に荷物を置いた。
「あの人の担当は、あんたでしょ? 私は一回行ったから、もういい」
「旦那様からお話がなかったですか? 新津さんの担当は、お嬢さんに替わったんですよ?」
「は?」
そんな話は聞いていない。たしかに配達を代わってくれとは頼んだが、あれ一回きりだったはずだ。あの後はいつもの使用人が行っていたから、そのままだと思っていた。
唖然とするに、使用人も変な顔をした。
「おかしいなあ。旦那様から、代われっていわれたんですけど」
「えー………?」
山小屋であったことは父親にも話している。あんな失礼な男はいないと怒っていたのに、父親はの話を聞いていなかったのだろうか。
使用人に交代の話をしてしまっているなら、いらぬ混乱を避けるためにも、が行くしかないのだろう。しかしこのままなし崩しに話を決められるのは癪だ。はあの男が嫌いだと、はっきり言っておかなくては。
「一寸お父さんと話してくる」
不機嫌に言うと、は奥に向かった。
「お父さん、どういうことなの?!」
使用人の前では抑えていたが、父親の部屋の襖を開けた途端、大爆発だ。
「何だ、いきなり」
花瓶を熱心に磨いていた父親が顔を上げた。
「私が新津さんの担当って、どういうこと? この前の話、聞いてなかったの?」
「新津さんも、お前のことを気に入ってくれてるそうじゃないか。折角の良い話だし、なあ?」
「“なあ?”って何よ?」
何だか雲行きが怪しくなってきた。変な方向に話を持っていかれそうで、は警戒する。
「、一寸此処に座りなさい」
父親が、いつになく真面目な顔で言う。
何だか厭な雰囲気になってきた。この展開は、噂に聞く“アレ”に違いない。
が、今更逃げるわけにもいかず、は渋々座った。
父親がわざとらしく大きな溜め息をつく。
「暢気にしていた父さんも悪かったけどな、この歳になっても娘が片付かないのは、流石に心配になってきたんだよ。お前もな、二十歳をとうに過ぎて、四捨五入したら三十路じゃないか。この先のことを考えたら、父さん、死んでも死にきれないよ」
いきなりそんな、しんみりされても、が困る。だいたい、死んでも死にきれないなんて、父親はまだピンピンしているではないか。
たしかに、世の中は女一人で生きていくには厳しい状況だ。女性の自立だの職業婦人だの言っても、中途半端な歳の未婚女性に対する風当たりは厳しい。
しかしには、住む家と働く店があるのだ。店は最終的には兄が継ぐことになるから、は使用人の立場になるだろうが、自分一人を食べさせるには十分だ。兄嫁が家を出て欲しいと言うのなら、近くに家を借りてもいい。とにかく、父親の心配は無用だ。
というか、父親がそんな心配をしていたとは、今まで思ってもいなかった。町の人間に何を噂されても平気なように見えたが、人並みに気にしていたのか。
「まあ、何とかなると思うよ」
慰めにもなっていないが、は一応言ってみる。
「“何とかなる”なんて言ってるから、余計に心配なんだ。新津さんは立派な陶芸家だし、あの人がお前を貰ってくれると言ってくれるなら―――――」
「人間としては最悪よ?」
は冷静に突っ込みを入れる。
歳のせいか、父親の発想は勝手に飛躍しているようだ。縁談が持ち込まれたわけでもあるまいし、いきなりその展開は無い。
それとも、先々では新津と見合いさせるつもりでいたのだろうか。そういえば新津は、初対面だったのにのことを知っているかのような口振りだった。
「いやいや、新津さんは悪い人間ではないだろうよ。この花瓶も安く譲ってくれたし」
「いい歳して、物に釣られないでよ」
花瓶を安く売ってくれたから良い人だなんて、呆れた。こんなもの、適当に値段を付けているだけだろう。
は改めて、花瓶をじっくりと見る。見る目が無いのかもしれないが、その辺に売ってある大量生産品との違いが判らない。これが高値で取り引きされているのなら、良い商売だ。
絵も描いてない釉薬だけの花瓶を、安く手に入れたと喜んでいる父親もおかしい。ここで叩き割って、目を醒まさせてやろうかと思うくらいだ。
「とにかくな、新津さんともっと話してみて、それから考えたらどうだ? な?」
「だから、“な?”じゃないでしょうが」
父親は、何が何でもを新津のところに行かせたいらしい。花瓶を叩き割ってやろうかと、は本気で思った。
花瓶を割ったら洒落にならないことになりそうなので、心の中で三回ほど割っておいた。そして今、はあの山小屋に向かっている。
新津の山小屋に行く日は、他の配達先は使用人たちに代わってもらうことになった。月に数回とはいえ、新津のためにの一日を潰すのだ。どうやら父親は本気らしい。
何も言わないから今日まで油断していたけれど、婚期を逃しつつある娘というのは思いの外、親の頭を悩ませる存在らしい。完全に逃がしきったら諦めの境地になるだろうから、最後の足掻きといったところか。自分のことなのに、にはまだ他人事のようだ。
しかし、新津の何を見込んで娘婿候補に選んだのか、には全く解らない。父親には愛想が良かったのか、他の者とは違う、際立つ何かがあったのか。娘の一生のことだから、まさか花瓶に騙されたわけではあるまい。
「あー、やれやれだよ」
前回と同じ場所に自転車を停め、は大儀そうに酒瓶を持ち上げる。
「お、誰かと思ったら………」
丁度いい具合に、新津が出てきた。前回は目が据わっていたが、今日はそうでもない。前は寝不足か寝起きだったのかもしれない。
「どうも………」
は軽く頭を下げた。父親の話を聞いたせいか、腰が引き気味だ。
「その自転車……ってやつ? そんなものに乗るより、歩いた方が楽じゃね?」
相変わらず、初手から失礼な男である。この男は、そんなに自転車が気に入らないのか。
「こんな山道じゃなくて、町中なら、歩くより早いし楽なんで」
つい、の口調はつっけんどんになってしまう。
客にいちいち腹を立てていては商売にならないのだが、この男の言い方は何とも癇に障る。初対面が駄目だったから、何を言っても駄目なのだろう。
「ふーん………」
納得していないのか、新津は自転車をじろじろ見ている。何だかんだ言ってくるのも、本当は乗ってみたいのかもしれない。
だが、いくら客でも、それは絶対に駄目である。迂闊に乗せて怪我でもされたら大変だし、そうでなくても新津のような大男が乗ったら、自転車が壊れてしまうかもしれない。
「乗るのは駄目ですよ。技術がいりますから」
変なことを言い出される前に、釘を刺しておく。
「超絶天才の俺様に乗れねぇ物なんざ無ぇよ。ま、別に乗りたいとも思わんがな」
その自信はどこからくるのかと、は唖然とする。天狗になっているどころではない。
これ以前に、“俺様”なんて言う人間は初めて見た。冗談かと思ったが、新津の顔を見ると、どうも本気のようだ。芸術家は変人が多いらしいが、この男は本当に少しおかしいのかもしれない。
「………それならいいですけど。あ、これ、“万寿”です」
は押しつけるように酒瓶を渡した。
「おう」
さて、これでの仕事は終わりである。
父親はと新津が縁付けば良いと思っているようだが、残念ながら進展させる話題が無い。元々無茶な縁組みなのだから、当然だ。
それならさっさと帰れば良さそうなものだが、あまり早く帰るのも憚られる。
「こんな山奥で、不便じゃないですか?」
いろいろ考えた結果、無難な質問になってしまった。
近隣住人と揉めたにしろ、本当に人間嫌いにしろ、こんな人里離れた場所では、食料にも事欠くだろう。特に、これから冬ともなれば、だって今までのように配達はできない。
が、新津は事も無げに、
「自家菜園やってるし、釣りと狩りで大体間に合う。酒は―――――雪が積もるようになったら、こっちから店に行くわ」
「あー………」
要するに、の心配は杞憂だったらしい。しかし雪深い山道を降りる時間と体力があるのなら、の配達は必要ないではないか。何で配達をさせているのか、不思議に思った。
「それなら店に買いに行けばいいのに」
はぼそぼそ呟く。
こんな山奥まで、一日潰して配達するのは大変なのだ。坂道では自慢の自転車も役に立たないし、翌日は脚がパンパンになる。新津には大したことにない道でも、にとっては“登山”なのだ。
「山登りはいい運動になるだろ? こんな物に乗って、ろくに歩かないんだから、少しは鍛えろ」
どこまでも上から目線の新津である。その態度が気に入らない。
「自転車だって、効率のいい運動です! 欧米では、大会だってあるんですから!」
「それは専用の自転車があるんだろ? 歩くのが一番だって」
「だから、坂がきつくなったら押して歩いてますって」
「なら、最初から自転車いらなくね?」
ああ言えばこう言う。こいつは自転車を全否定したいのか。
「だーかーらー、きつい坂までは自転車が楽なんですって!」
「だから歩けって。痩せるぞ?」
「これ以上痩せなくてもいいですし!」
もう、新津と話していると苛々する。ちっともの話を聞いていないではないか。
おまけに、「痩せるぞ?」とは何事か。まるでが怠け者で太っているみたいではないか。こう言っては何だが、は痩せ型だ。
「何、苛々してんだ?」
自分が原因のくせに、新津は完全に他人事だ。芸術家のくせに無神経すぎる。
本当に、父親は新津の何を見て気に入ったのだろう。やはり花瓶に騙されたのだろうか。そうとしか思えなくなってきた。
そうなると、父親にとっては花瓶と等価というわけで、それはそれで腹が立ってきた。あんな花瓶と可愛い娘が同等なんて、あんまりではないか。これは新津なんかと話している場合ではない。
「自分で考えれば?!」
これから家に帰って、父親に説教だ。
は思いきり怒鳴りつけると、新津の言葉を待たずに全力で山を下りた。
景気が二番底を割って久しい今日この頃、主人公さんの好感度も底を割ってしまったようです。
景気の回復を祈りつつ、次回こそは好感度をUPしてもらいたい。師匠もちっとは気を遣え(笑)。