木を植える男
比古の庭の桜が満開になった。山桜だから町の桜とは見た目が違うが、これも野趣があっていいものだ。こいつが咲けば、春本番である。気候が良くなれば、仕事も捗るだろう。捗るだろうから仕事は明日から頑張ることにして、今日は花見酒と洒落込むことにした。
この桜は、比古が此処に住まいを構えた時に植えたものだ。ついこの間のような気がするが、花見ができるくらいの木に育ったのだから、それだけの年月が過ぎたということなのだろう。歳を取ると、時間が経つのが早い。
此処に来てから、いろいろなことがあった。子供を引き取って剣術を教え、喧嘩別れをし、十年経って戻ってきたところで奥義を伝授して死にかけた。その流れで、町に下りて巨人と戦ったこともあった。振り返ってみれば、案外激動の人生というやつかもしれない。
これだけ激動だったのだから、これからの人生は穏やかなものであってもらいたいものだ。まあ、比古ほどの男ともなると、平凡な人生など難しいものなのかもしれないが。
桜を眺めながら酒を飲んでいると、足元に狸が擦り寄ってきた。餌を欲しがっているらしい。
「なんだ、いたのか」
餌を探しに行っているのかと思っていたが、碌に見つからなかったのだろう。この狸は比古に飼われるようになって以来、餌を採るのが下手になっていっているような気がする。
出ていく者がいれば、やって来る者もいる。この狸もだが、もう一人―――――
「また昼間からお酒飲んでる!」
狸の次はが来た。春になって道の状態が良くなったから、今日は自転車で来たようだ。
それにしても、“また”とは人聞きの悪い。これではまるで、比古がいつも飲んだくれているようではないか。たしかにの家で昼飯を馳走になる時は飲むこともあるけれど、いつもではない。
はぶりぶり怒りながら、比古から杯を取り上げた。
「そんな飲んだくれて、お仕事はどうしたの?」
「たまには花見酒くらいいいだろ」
せっかくいい気分になっていたのを邪魔されて、比古は舌打ちをしながら杯を取り返す。
「花見酒?」
「ほら、お前の後ろ」
そう言って、比古はの後ろの桜の木を指した。
「ああ………。これ、桜だったんだ」
どうやらはこれが桜の木であることを知らなかったらしい。そういえばが初めて此処に来たのは、葉桜になってしまった後だった。
そう思うと、との付き合いは結構長い。これだけの期間を頻繁に会っていても退屈を感じたことのない女というのは、あまりいないと思う。
「せっかく来たんだ。一緒にどうだ?」
比古は自分の隣をぽんぽんと叩く。
花見は毎年やっていたが、連れがいるというのは何年ぶりだろう。一人で飲むのもいいが、誰かと一緒というのもいいものだ。
は少し考えるような顔をして、
「仕事中なんだけど………」
「どうせ他に寄る所なんか無いだろ?」
が此処に配達に来る時は、他の所は廻らないのだ。場所が遠いということもあるだろうが、比古とゆっくり過ごせるようにという父親の配慮もあるのだろう。
これまでは商品を渡したらすぐに帰っていたけれど、今日は漸く父親の気遣いが生かされそうだ。
二人で桜を見ながら酒を飲んでいれば、何となくいい雰囲気になるだろう。女は雰囲気に流されやすい生き物だから、きっとも素直になって、比古のことを好きだと認めることになるだろう。
比古の企みに気付いたか、は警戒するように睨み付ける。
比古は可笑しそうに笑って、
「お前が考えているような下心なんか無ぇよ」
「別にそんなこと考えてないし!」
は少し苛立った声で言うと、比古の隣に座った。
比古の思惑通りに隣に座ったのはいいけれど、何だか微妙な距離がある。まるで、近付いたら取って食われるとでも思っているかのようだ。
断髪して男のような格好で自転車なんか乗り回しているくせに、は見かけによらず男慣れしていないのだろう。そういう女をじっくりと教育していくのも悪くはない。
「まあ飲め。たまには昼酒もいいだろ?」
「でも、自転車で来てるし………」
少しくらいなら構わないようなものだが、は渋るような様子を見せる。意外と堅いらしい。
「飲みすぎたら泊っていけば―――――」
そこまで言ったところでに睨まれて、比古は慌てて言い直す。
「その時はアレだ。送ってやるよ」
「………………」
言い直したのに、は疑惑の目で比古をじっと見ている。
何というか、比古は下心の塊のように思われているらしい。とんでもない誤解である。
駆け引きを楽しむだけの女ならともかく、きちんとした形に納まるつもりの女なのだから、そう迂闊に手は出さない。そりゃあ比古も男であるから、祝言まで待てといわれたら少々困ってしまうが、がそれを望むなら仕方がない。何しろ相手は、これまでのような色恋に慣れた女ではなく、鉄壁の防御の女なのだ。
とにかく今は紳士的に振る舞って、距離を縮めることからだ。
酒をなみなみと湛えた杯をじっと見ていただったが、少しだけ口を付けた。
「………お父さんも心配してたから、顔を見せてあげるのはいいかもね」
「お父さん、ね」
素直ではないの言葉に、比古は苦笑する。
を送ることになれば、必然的に夕食を共にすることになる。時間によっては、の家の泊ることもあるだろう。比古の家に泊まるのは世間体も合って嫌らしいが、の家に泊めるのは構わないらしい。
「ま、親父さんには改めて挨拶に行かんとなんねぇしな」
の父親とは話は纏まっているけれど、との間で話が決まったのなら、改めて挨拶に行かねばならないだろう。
が、は比古の言葉など耳に入っていないように全く違う話をする。
「この桜、いつからあるの?」
は比古の気持ちを解っているはずなのに、肝心な話になると必ず意図的に話を逸らす。照れているのだろうとは思うが(はありえないくらい照れ屋なのだ)、そろそろ真剣に先の話をしたいものだ。
けれどにしてみれば、“恋愛中”という状態をもう暫く楽しみたいのかもしれない。これまで充分楽しんだ比古と違って、は彼が初めてなのだ。歳の差もあることだし、ここは年上である比古が広い心で譲ってやるべきだろう。これも器の大きさの見せ所だ
「此処に越してきた時に植えたんだ」
「ふーん、自分で植えたんだ」
は少し意外そうな顔をした。山桜だから自生していると思ったのだろう。
「来たばかりの頃は何も無い空き地だったからな。何かある度に植えていたら、いい感じの庭になった。ま、記念樹ってやつだ」
孤児を引き取って弟子にした時も、陶芸家として生きると決めた時も、人生の節目といえることがあった時には何となく木を植えてみた。この桜のように花を咲かせるものもあれば、木陰を作る木もある。どんな木も、何かの役には立っている。
「あんたが木を育てるなんて、何か意外………」
は一体、比古をどんな男だと思っているのか。園芸なんて年寄り臭い趣味が似合わない男だと思っていると、好意的に解釈しておくことにした。
まあ、木は植えているけれど、肥料をやったり剪定したりなど面倒を見ているわけではないのだから、園芸が趣味というのとは少し違うのかもしれない。木にしろ狸にしろ、比古が手をかけてやらなくても好き勝手に生きているのだ。こういう手のかからないものが、彼の性に合っているのだろう。
だから自分が人間嫌いなのかと、比古は妙に納得した。人間関係というのは、きめ細かく手をかけてやらないと育たない。弟子と喧嘩別れしたのも、この性格が原因だったのだろう。
「どうしたの?」
珍しく過去を振り返っていると、が怪訝な顔をした。
「いや………」
昔のことを思い出すと、どうしても辛気臭くなってしまう。こういうのが歳を取るということなのだろう。
比古は話題を変えた。
「お前が此処に住むようになったら、何を植えようかな」
「何言ってんのよ」
は急につっけんどんになる。けれど、いきなり否定から入らないのは大きな進歩だ。
だって、いつかは比古と一緒になることを考えているはずだ。口では“嫌い”を連発しながらも、実際は互いの家に通い、こうやって一緒に酒を飲んで、やっていることは恋人同士のようではないか。何より、親公認の仲である。
はむっつりして杯に口を付ける。こういう話題になると不機嫌な顔を作るのは、男慣れしていない証明にも見えて、可愛いといえば可愛いのかもしれない。
黙っているを横目で見ながら、比古は楽しげに話す。
「やっぱり花が咲くやつがいいか。せっかくだから大きくなるやつがいいが、桜はもうあるからなあ」
過去を思い出すより、未来のことを考える方が、やはり楽しい。未来を楽しく語れるというのは、まだ若い証拠だ。
黙っていたの口元が、何か言うように小さく動いた。
「何か言ったか?」
「………桃がいい」
視線を落としたまま、はぼそっと言う。
面白くなさそうな顔に見えるけれど、希望を言うということはつまり―――――
比古の顔がぱあっと明るくなる。普段は仏頂面とはいえ、このときばかりは喜びを隠せない。
「桃はいいな。花見もできるし、実も食える。うん、桃にしよう」
抑えようと思っても、比古の声は年甲斐もなく弾んでしまう。は相変わらずむっつりとしているけれど、それは照れ隠しだ。その証拠に、耳まで紅くなっている。
「それなら桃の苗を買わないと。いつ買いに行くか?」
「まだ買わなくていい!」
せっかく盛り上がっていたのに、に全力で拒否されてしまった。比古の山小屋に桃が咲くのは、まだまだ先のようである。
山にも師匠にも春が来たようです。二人で花見なんて、もうデートじゃね?。
桃を植えるのはいいけど食べられるような桃にするには手間かかりすぎるだろ、って書いてる途中で気付いた(笑)。素人には難易度高そうだけど、まあ天才師匠が何とかするでしょう。頑張れ、師匠!