恋人同士の喧嘩は、恋の更新である

 宣言通り、比古はあれからぱったりと姿を見せなくなった。
「山はそんなに雪が積もってるのかねぇ」
 父親が不思議そうに首を傾げる。
 父親はと比古のやり取りを知らない。はわざわざ報告しなかったし、比古も何も言わなかったのだろう。
 破談にするつもりなら比古から何か言ってくるはずなのだが、それすら面倒だったのか。正式な縁談ではなかったのだから、有耶無耶にして自然消滅を狙っているのかもしれない。こういう面倒ごとは避けそうな性格ではある。
、新津さんから何か聞いていないのかい?」
「知らない」
 はつっけんどんに応える。
 破談にするならするでいいけれど、それなら最後に抱き寄せたのは何だったのか。あれからずっと考えたけれど、ただの気まぐれだったのか。気まぐれだったとしても、性質が悪い。
 の不機嫌な顔をちらりと見た後、父親は腕組みして考える。大方、婚期を逃しつつある娘の行く末に頭を悩ませているのだろう。
「こんなに来ないなんて、具合でも悪くしてるのかねぇ」
 そう言いながら、父親はまたをちらりと見る。病気で来ないのだとしたら、に見舞いに行けとでも言うのか。
 大体、あの比古が病気などするわけがない。あの体格といい、性格といい、殺しても死にはしないだろう。
「そんなに気になるなら、お父さんが様子を見に行ってきたら?」
 吐き捨てるように言うと、は席を立った。





 比古がどうしようと知ったことではないと思ってはみたものの、結局はあの山小屋に行くことになってしまった。
 別に、比古のことが心配になったわけではない。ただ、最後にを抱き寄せた理由を知りたかった。これが分からないと、死ぬまであの時のことを引きずるような気がした。
 とはいえ、雪解けでぬかるんだ道を自転車で行くわけにはいかない。というわけで、今日はにしては珍しく徒歩である。
「どうして私がこんな目に………」
 誰に強制されたわけでもなく、自分の意思で来たというのに、ふつふつと怒りがこみ上げてくる。
 足場の悪い山歩きで余計に疲れるし、足元は泥だらけだ。片道でこんなになるなら、往復したらどうなるか。せめて替えの足袋を持ってくればよかった。
 こんな道を比古は三日と空けずに通っていたのだ。比古にとっては慣れた道で、とは体力差もあるけれど、これを往復するのは楽なことではない。の家で出される食事が目当てなだけでは頻繁に通えないだろう。
 そうなるとやはり、比古は本当にに好意を持っていたのか。名前すら呼ばなかったけれど、この悪路を往復する程度には好意を持っていたのだろう。にはまともに伝わらなかったのだが。
 いろいろと考えているうちに、どうにか比古の山小屋に着いた。が、比古は何処かに出かけているようだ。
 やっと此処まで来たというのに留守とは。が通っていた時は必ず家にいたのに、今日に限って留守というのは、縁が無かったのかもしれない。
 せっかく来たけれど、今日は帰ろうか。いつ帰るか判らない比古を待って、暗い道を帰る羽目になったら困る。
 と、足元に狸がやってきた。いつも一緒のくせに、今日は留守番らしい。
「今日は一緒じゃないんだ」
 のことがどうでもよくなったから狸と別行動になったわけではないのだろうが、いつもと違うと意味があるのかと考えてしまう。
「誰もいないみたいだから帰るわ。じゃあね」
 が引き返そうとすると、引き止めるように狸が着物の裾を引っ張った。
「何よ?」
 は着物を引っ張り返すが、狸は頑として放さない。ひょっとして餌をねだっているのだろうか。この前、が食事を出した時に大喜びしていたのを思い出した。
「今日は何も持っていないの」
 両手を広げて食べ物が無いのを見せるが、狸は放してくれない。いつもの家で何か貰っていたから、彼女がいれば餌が貰えると思い込んでいるのだろう。
 強引に引っ張ったら着物が破れそうなくらいしっかりと咥えられて、は溜め息をついた。
「そんなにしたって、無いものは無いの。ご主人様に貰いなさい」
 そういっても、狸は裾を咥えたまま低く唸る。何か言いたいようだが、生憎には狸の言葉は解らない。
「私も暇じゃないのよ。放しなさいってば」
「何をやってるんだ、お前………」
 狸とが争っているうちに、比古が帰ってきた。が来たのは予想外だったらしく、ひどく驚いた顔をしている。
「何って………」
 そのままは黙り込んだ。
 確かめたいことがあったから来たけれど、どう話を切り出したものか。そこを全く考えていなかった。
 比古は冷ややかな声で、
「まだ言い足りないことでもあんのか? わざわざこんな山奥までご苦労なこった」
「………………」
 歓迎されるとは思っていなかったけれど、それがこんな山奥まで訪ねてきた女に言う台詞か。
 しかし、山小屋に来たお近をきっぱりと追い返すような男である。のことが好きでなくなったのなら、苦労して此処に来たのが分かっていても、何とも思わないだろう。もともと人間嫌いな性格だから、どうでもいい人間に来られても面倒臭いだけだ。
 比古にとっては、もうは面倒臭い相手なのだろう。ついこの前まで熱心に通っていたのに、変わり身の早いことだ。普通なら少しくらい情が残っていそうなものだが、比古はそこも規格外らしい。
 黙って視線を落とすを、比古は黙って見下ろす。沈黙が長くなるほど空気が重苦しくなる。
 重い空気を打ち壊すように、狸が一声鳴いた。
「なんだ、腹減ったのか?」
 急に優しい声になって、比古は狸の頭を撫でる。まるでなどいないかの様子だ。
 狸は一頻り尻尾を振った後、の方を見た。
「………お前も食うか?」
 狸に促されて仕方なくという感じで、比古が誘う。
「私は―――――」
 義理で誘われているのが見え見えだと、、も返事がしにくい。が、狸にじっと見つめられていると、断れないような気がしてきた。
「………うん」
 視線を落としたまま、は小さく頷いた。





 山小屋に入って汁椀を出したきり、比古はなどいないかのように振舞い続けている。こうなってくるとから話しかけるわけにもいかず、何とも重苦しい食卓だ。
「そんなに腹減ってたのか」
 皿に顔を突っ込んでガツガツ食べる狸を見遣って、比古は呆れたように言う。
「この時季はあんまり餌が獲れねぇからなあ。お前、俺に飼われてなかったら、冬越せなかったぞ」
 比古に恩着せがましく言われても、狸はどこ吹く風だ。きっと、似たようなことを何度も言われているのだろう。
 にのしかかる空気は重苦しいけれど、比古と狸の食事風景は楽しげだ。これではが仲間外れのようである。
「あの………」
 このまま黙っていては、本当にの存在が無いも同然になってしまう。思い切って声をかけてみたが、比古は相変わらず無視だ。
「あのね、新津さん」
「お前、まだ食うのか? 食いすぎだろ」
 もう一度、今度ははっきりと大きな声で言ってみたけれど、比古はの方を見ようともしないどころか、狸に楽しげに話しかけている。
 が帰るまで、こうやって無視し続けるつもりか。それならどうしてを招き入れたのか。こんな扱いをするくらいなら、お近のように追い返してくれた方がずっとよかった。
 は汁椀を床に叩きつける。
「無視するくらいなら追い返せばよかったじゃない! 嫌がらせのつもり?!」
「飯くらい黙って食えよ」
 やっと、比古はを見た。けれど、煩わしげな表情を隠そうともしない。
 そんな顔をするくせにを招き入れた理由が、本気で解らない。まさか、狸に促されたからではあるまい。
 追い返すでもなく、かといって話をするわけでもなく、比古は何をしたいのだろう。この前から、比古の行動は解らないことだらけだ。
 が混乱するのを楽しんでいるのだとしたら、なんと悪趣味なことだろう。こんな男のためにこんな山奥まで来てしまった自分にも腹が立つ。
「二度と会わないとか言ったくせに、今頃になって名前を呼んだり、抱きしめたり、何のつもりよ?! そんなに私の反応が面白い?!」
「は? いつ俺が―――――痛っ!」
 比古が言いかけたと同時に、狸が彼の脚に噛み付いた。
「何してんだ、この馬鹿狸!」
 比古が拳を振り上げると、狸は慌てての背後に逃げ込んだ。そしての陰に隠れたまま、抗議するように吠える。
 滅多に鳴かない狸に激しく吠えられ、比古にしては珍しく困惑した顔をした。
「何なんだよ、お前………」
 狸は低く唸る。比古に何か言っているようにも見えるが、何を言いたいのかにはさっぱり解らない。
 けれど、比古には何か理解できたらしい。面倒臭そうに舌打ちをして、
「………あれはアレだ。偶然っつーか、流れっつーか―――――」
「流れ? 流れであんなことしたの?!」
 比古のふざけた言い分に、は激昂した。
 あんなことをしておいて、“流れ”の一言で済ませるなんて。比古にとっては大したことではなかったのかもしれないが、にとっては初めてのことで、訳が解らないくらいドキドキして、とにかく“流れ”の一言で済ませられることではなかったのだ。
「いや、だから悪かったって」
「“悪かった”ですって?! そんなので済ませられることなの?!」
「じゃあ、どうすりゃ満足なんだ。嫌な思いさせたのは悪かったけどよ、そこまでぎゃあぎゃあ言うことか?」
「勝手に決めないでよ! 自分でも解らないのに!」
「どうしたら気が済むのか解ってから来いよ」
 比古は完全にを持て余している。頭をかきながら、面倒臭そうに吐き捨てた。
 比古はきっと、が謝罪を求めに来たと思っているのだろう。けれどは比古に謝罪してほしいわけではない。謝られた方が、侮辱されたようで腹が立つ。
 謝られて腹が立つというのは、あのことはにとって嫌ではなかったということか。あんな図々しくて傲慢な男なのに。
 あのドキドキしたのは驚いたせいではなく、流行小説でよくある“愛する人に抱きしめられて天にも昇る心地”というやつなのだろうか。否、相手は比古である。それはありえない。
「私はあんたが嫌いよ」
 比古に対してというより、自分自身に確認するようには呟く。
 比古は鬱陶しげに溜め息をついて、
「それは前にも聞いた」
「でも……嫌じゃなかったし………」
「………は?」
 の言葉は意外なものだったらしく、比古は間抜けな声を出した。
 の言っていることは、比古には訳の分からないものだと思う。自身、訳が分からないのだ。
 唖然としている比古の顔を見たら、とんでもないことを言ってしまったような気がしてきた。今更ながら顔を赤くして、は力いっぱい訂正する。
「違うんだから! あんたのことは嫌いなんだから!」
「なるほどねぇ………」
 嫌いと言われたのに、比古は何故か嬉しそうにニヤニヤしている。こういう顔をしている時は、大体碌なことを考えていないものだ。
「な……何よ?」
 どうせ碌でもない答えしか返ってこないだろうが、は一応訊いてみる。
「そりゃアレだ。嫌だの何だの思っても、カラダは離れられねぇってやつだな」
「ばっ………! 他人が聞いたら誤解するようなこと言わないでよ!」
 は全身を真っ赤にして怒鳴る。
 碌でもないことしか言わないとは思っていたけれど、こんな助平親父発言とは。こんな奴のために何日も悩んだ自分が心底情けない。
 カラダが云々なんてことは、断じて無い。そもそも一度だってそんなことになるようなことは無かったのだ。仮にあったとしても、そんな状況になるはずがない。口では大層なことを言う男は、実際は大したことないと聞く。比古もきっとそういう奴だ。
 怒りと恥ずかしさで目の前まで真っ赤になりそうなをよそに、比古は一人で納得したように腕組みして、
「動物も人間も、雌は強い雄に惹かれるもんだ。ま、俺みたいな最強の男に抱かれたいと思うのは自然なことだよな」
 この男は一体何を言っているのか。これではまるでが、比古の体目当てで近付く本能丸出しの女みたいではないか。
 あまりにも失礼な物言いに、はそれこそ動物のように叫びたくなる。叫ぶ代わりに、憤然と立ち上がって怒鳴った。
「死ね!!」
 捨て台詞にはあまりにも芸が無いが、これ以上的確な言葉はない。もう本当に、心の底から“死ね!!”だ。
「待てって」
 背を向けて出て行こうとするの肩を掴み、そのまま比古は抱き寄せる。
「ひっ………!」
 悲鳴を上げて暴れまくるつもりが、身体が痺れたように動かない。比古ではないけれど、頭は拒否しようとしているのに、の身体は満更ではないようだ。
「ほら、嫌なら振り払ってみろよ。簡単だろ?」
 可笑しそうに喉の奥を鳴らして、比古は囁く。その声は自信に満ちていて、が振り払うことは絶対に無いと思っているようだ。
 悔しいけれど、が逃げられないのは確かだ。を抱く比古の腕には殆ど力が入っておらず。振り払う労力すら必要無いほどなのに、足が動かない。
「そうやって……どうせまた“流れで”とか誤魔化すんでしょ。私のこと試してばっかり………自分のことは言わないくせに………」
 そう言いながら、何故か息苦しくなって泣きそうになる。の身体が動かない理由が解って、それを言葉にしたとしても、比古はきっと茶化しておしまいだろう。そんな男のやることをいちいち真面目に相手するなんて、馬鹿みたいだ。
「試しているのは、そっちだろ。俺は何度も好きって言ったぜ?」
 そう囁く比古の声は今までにないくらい優しくて、は心臓が破裂しそうになった。
 何か言わなければと思うけれそ、何と言えばいいのか分からない。本当は分かっているのかもしれないけれど、どうしてもその言葉が出てこない。
「私は―――――」
 喉が狭くなったような息苦しさを感じながら、は比古の手に自分の手を重ねる。
「嫌い……なのに、どうしたらいいのか分からないよ」
「分からないなら、分かるまで付き合うさ。ま、答えは分かりきってるけどな」
 自身が分からないと言っているのに、比古は分かったつもりでいるらしい。超絶傲慢な自信家だから、自分の調子の良いように考えているのだろう。けれど多分、比古にとって調子のいい答えが、の出す答えに近いのだろう。
「………うん」
 言葉が出てこなくて、は小さく頷いた。
<あとがき>
 タイトルは共和制ローマの劇作家テレンティウスのお言葉。
 一事はどうなることかと思いましたが、何とかドリームらしい展開に落ち着いてよかった(笑)。このシリーズの師匠は油断するとセクハラ発言するからなあ。
 どうやら師匠は“抱かれたい男bP”(師匠脳内調査による)らしいです。そういえば福山とそんなに変わらない歳だよね、師匠。
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