リングアウトは許されない。
「あんたのことは嫌い」とはっきりと言われてしまった。てっきりは比古のことを好いていると思っていたから、びっくりだ。の父親は縁談を進めたがっていたし、はでお近を山に来させるなと言ってきたから、もう祝言を待つばかりだと思っていたのだが。それを今になってひっくり返されたら、比古の立場が無いではないか。
そもそも、その気も無いのに何故お近と手を切れなどと言ったのか。自分がどれほどの女か試してみたかったのか。自分の魅力を確かめてみたいという気持ちは解らないでもないが、いくら何でもやりすぎだ。
はこれまで出会った女とは違うと思っていたけれど、どうやら比古の勘違いだったらしい。比古に惚れなかったところは、ある意味他の女とは違っていたが。そこは男を見る目が無いだけだったのだろう。そこを見極められなかった比古も、まだまだ未熟だったと認めざるを得ない。
「俺としたことが………」
に振られたことよりも、そっちの方に落ち込んでしまう。今でこそ山篭り生活だが、昔はそれなりにいろいろな女を見てきたつもりである。それなのに今になってあんな小娘に言いようにあしらわれてしまうとは。
超絶天才、超絶美形の比古を手玉にとって、このままで済ませておくものか。最後に一言説教してやろうと、比古はの部屋に向かった。
狸に化かされたお陰で、比古が如何に駄目な男かよく解った。礼儀も気遣いも狸以下なんて、人として如何なものか。
しかもが比古の事を好いているなんて訳のわからないことを言い出すし、勘違いどころの騒ぎではない。きっと長い山篭り生活のせいで、普通の人間には見えないものが見えるようになってしまったのだろう。こうなってしまうと、もう人として末期だ。
たしかに、父親に言われたからとはいえ山に通っていたのは、比古を勘違いさせてしまった一因だとは思う。そこはも反省すべきところだろう。だからといって、比古の今までの態度は許されるものではないが。
大体、のことを好きだと言ったくせに名前を呼ぶのすら嫌がったり、狸ほどの気遣いも無いというのはどういうことなのか。そういうふざけた態度が何よりも嫌なのだ。好きなら好きで、そういう態度を見せるなら、まあ一寸は考えないでもない―――――
突然、勢いよく襖が開け放たれた。
「おい、いるか」
顔を見ないでも判る。こんな無礼を働くのは一人しかいない。
「〜〜〜〜〜あんたって人は………」
相手の顔も見ずに、は吐き捨てる。
「あんたってば、いっつもそう! 何なのよ!」
比古には人に対する気遣いというものが全く無い。今だってそうだ。女の部屋なのにいきなり襖を開けて、が着替え中だったりとか、そうでなくても他人に見られたくないようなだらしない姿かもしれないとか考えたりしないのだろうか。
よその家なのに我が家のように傍若無人に振舞って、本当にこの男は。父親がの婿に望んだからとはいえ、図々しいにも程がある。というか、比古のどこを見て婿に望んだのか、にはさっぱり分からない。
「それはこっちの台詞だ、馬鹿女」
比古も何故か怒っているようである。どうせ比古にしか通用しない理不尽な理屈で怒っているのだろう。
は見せ付けるように盛大に溜め息をついた。
「まあいいわ。今日で最後だから、何でも聞いてあげる」
「ほーぉ、珍しく殊勝じゃねぇか」
最後だとはっきり言っているのに、何故か比古は勝ち誇った顔をしている。の言葉を脅しだと思っているのだろう。
「脅しじゃないんだからね! もう山にも行かないし、あんたもうちに来ないで!」
「へーぇ、最後の最後でやっと気が合ったな」
一発ガツンと言ってやったつもりなのに、比古は面白そうに返す。
比古も今日を最後にこの家に来ないつもりなのか。此処に来ないとなったら、山では食えないご馳走も上等な酒も口にできなくなるというのに。
何より、のことを好きだといっていたのに、こうもあっさりとどうでもよくなってしまうものなのか。別に比古に好かれていたいわけではないけれど、この掌返しはあまりにも失礼だ。
「脅しじゃないのよ! 本当に本気でこれで最後なんだから! 分かってるの?!」
これで比古と縁が切れるとなれば嬉しいはずなのに、は何故か腹が立って金切り声を上げた。これではまるで、が一方的に振られたみたいではないか。
思い返してみても、先に振ったのはの方である。比古みたいな無神経で図々しい自惚れ屋は、こちらからお断りだ。あんな変な奴に付き纏われずに済むのはめでたいはずなのに、実際にそうなると侮辱されたような気がする。
自分の感情には驚いたが、比古にとっても意外だったようだ。
「何だ? 今になって引き止めか? 勝手な奴だな」
「引き止めてなんかないし!」
比古が来なくなるのは、別に構わない。ただ、のことを好きだと言って、お近とは会わないと宣言までしておいて、こんなあっさりとを諦めて比古は後悔しないのか。またお近に言い寄ればいいと思っているのかもしれないが、あんな風に追い返しておいて、お近も今更靡きはしないだろう。
結局、比古の“好き”はその程度のものだったのだ。うっかり絆されなくてよかった。
「わたしのことを好きって言ったばっかりのくせに、今度はこんな―――――馬鹿にしないでよ!」
「それはこっちの台詞だ。気がある素振りを見せておいて、“嫌い”とか言い出すし、じゃあもう此処には来ないって言ったらゴネるし、お前は何がしたいんだ」
いつもの小馬鹿にするような口調とは違う比古の冷ややかな声に、は押し黙る。
のように大きな声こそ出さないけれど、比古も同じように起こっている。しかもと似たような理由でだ。
比古から見れば、のほうが彼をからかって面白がっているように感じられたのだろう。確かに自分でも軽率だったとは思うけれど、でも―――――
「そう思わせたのは悪かったと思うけど、でも―――――」
「あっ、! こっち来い!」
「へっ?!」
突然大声を出されて、はびっくりして固まってしまった。否、固まったのは大声のせいではない。
比古が、の名前を呼んだのだ。はっきりと大きな声で。
あんなに渋っていたくせに今更とは思うけれど、自分でも驚くほどドキドキして顔が熱くなる。好きでもない相手のはずなのに、腹が立つのではなくドキドキするなんて、どういうことだろう。
「早くこっち来いって!」
戸惑うをよそに、比古は少し苛立ったように呼びつける。
今更名前を呼んだり、こっちに来いなんて言ったり、一体どういうつもりなのだろう。もうには会わないみたいなことを言っていたくせに、訳が分からない。
動かないに焦れたように、比古は乱暴に手を掴んだ。
「えっ?! なっ……ちょっ………!」
そのまま比古のほうに引き寄せられて、は頭の中が真っ白になった。
の人生において、男に抱き寄せられるなんて当然初めてのことである。その初めての相手が比古で、しかもこんな訳の分からない流れで抱き寄せられるなんて、何が何だかで頭が爆発しそうだ。
これはいわゆる“抑えきれない衝動”というやつなのだろうか。別れ話の最中に(付き合ってもいないが)こんなことをするなんて、比古はまだのことを―――――
「あの―――――」
「よし!」
が思い切って尋ねようとしたと同時に、比古はあっさりと体を離した。
「次の男にはあんま馬鹿にした真似はするなよ。じゃあな」
今のは白昼夢だったのかと思う冷淡さで、比古は部屋を出て行った。
「何なのよぉ、一体………」
今日で最後と言ったかと思ったら抱き寄せたり、やっぱり最後みたいなことを言ったり、もともと訳の分からない男だったけれど、ますます比古のことが解らなくなった。にからかわれたと思っていたようだったから、仕返しのつもりだったのか。
仕返しなら仕返しでもいいけれど、このドキドキの持って行き場がない。くだらない仕返しだと思っても、まだドキドキしている。
「もぉ何なのよ………」
比古とことが解らないのはともかく、自分のことが一番解らない。は脱力してその場にへたり込んでしまった。
「お前なあ、いくら何でもやっていいことと悪いことがあるだろ」
廊下を歩きながら、比古は足元の狸を叱り付ける。
と話している最中に狸が部屋に忍び込んで粗相をしようとしているのを見た時は、肝が潰れるかと思った。腰を落として力み始めたところで止められたからよかったものの、に気付かれたら半殺しでは済まないところだった。
しかしも、自分の足元に狸がいたことに気付かないなんて、相当鈍い。よほど頭に血が上っていたのだろう。
それにしても、こちらが引こうとすると引き止めるようなことを言い出すなんて、一体何なのだろう。策略なしでやっているのなら、は相当なタマだ。人は見かけによらないものである。
狸のせいでうやむやになってしまったけれど、もっとガツンと言ってやればよかった。やっぱり狸に糞の一つもさせてやればよかったか。
「そういやお前、糞しなくていいのか?」
便意を途中で止められた割に、狸は機嫌よさそうに尻尾を振った。
ハーレクイン的な展開を期待したが、そうは問屋がおろさない(笑)。主人公さんが真相を知ったら、またまた脱力ですね。
しかしヒステリー起こしてる主人公さんの足元で狸さんがプルプルしているのを想像したら、間抜けすぎて笑いそうだ。笑わなかった師匠は偉いなあ。