余計なお世話

 比古の家では、狸も自給自足の生活である。家の近くや比古と一緒に行く川で自力で餌を探すのだ。餌が採れない時は流石に比古が餌を用意してやるけれど、基本は放任主義である。
 これを“飼っている”といってもいいものか判断に困るところではあるが、比古の家で寝起きをしているのだから、狸としては飼われているという認識なのだろう。
「じゃ、あんまり遠くに行くなよ」
 首の紐を解いて、比古はいつも通り狸を送り出す。この辺りは肉食獣もいないし、漁師も来ないからできる飼い方である。
 狸も心得たもので、紐を外されると一目散に川に向かって走り出した。今日は魚を食べたい気分らしい。真冬なのにご苦労なことだ。
「さて、俺も飯にするか………」
 狸の後ろ姿を見送って、比古は山小屋に入った。





 いつものように、比古が『屋』にやって来た。今日は珍しく狸連れではないらしい。代わりに魚をぶら下げている。
「………それ、何?」
 鰓をひくひくさせている魚を、はあからさまに不審そうに見る。
 魚籠にでも入れて持ってくればいいものを、比古は何故か素手で尻尾を掴んで持ってきたのだ。これで町中を歩いてきたなんて、どう見ても不審者である。
「………お土産」
 無表情でそう言うと、比古は魚をの前に突き出した。
「あ……うん………」
 手土産とは比古にしては気が利いているのだろうが、何も裸で持ってくることはないだろう。あまりのことに突っ込むのも忘れて、さやはそのまま魚を受け取ってしまった。
 それにしても、狸を連れていないことといい、手土産といい、今日の比古は様子がおかしい。この男は普段からおかしいが、今日は輪をかけておかしい。
 おかしいけれど、手土産持参というのは評価すべきところだろう。こういう“常識”を学習するのはいい傾向だ。
「お父さんもお母さんもいないから大したものは出せないけど、お昼食べていく?」
「うん!」
 いつもなら当たり前の顔で上がり込むところを、今日の比古は喜色満面で大きく頷いた。御馳走は出ないとはっきり言っているのに、何をそんなに喜んでいるのだろう。
 ひょっとして、両親がいないということで何かを期待しているのだろうか。何しろ比古は、を嫁にする気満々のようなのである。ここで既成事実を作って――――と企んでいるのかもしれない。
 しかし不思議なことに、そんな悪巧みをしている割には、比古の表情には邪気が無い。いつも悪そうな顔をしているくせに、今日は一体どういうことなのか。今までの自分を反省して心を入れ替えたということは絶対にありえないから、頭でも打ったのかもしれない。
 まあ、頭を打ったにしても、常識人になったり素直になったりするのはいいことだ。いつもの捻くれた比古よりずっといい。
「あんまり期待しないでよ。台所も碌なものがないし」
 比古がまともになれば、の口調も自然と柔らかくなるというものだ。
 それに対し、比古もにこやかに、
さんが作ってくれるなら、何でも御馳走だよ」
「………え?」
 比古らしからぬ台詞に、も思わず顔を紅くして絶句した。
 あの比古がの名前を呼んだ上に、さん付けである。しかも歯の浮くような台詞だ。やはり頭を打ったのではあるまいか。
 今までが今までだけに、は迂闊にもどきりとしてしまった。相手が比古でも、ドキドキしてしまう。
 これを比古に気づかれたら、せっかくまともになったのに調子づいてしまうだろう。は平静を装おうとして、いつもよりつっけんどんな調子になってしまう。
「そんなこと行っても何も出ませんから」
 こんな可愛げの無い反応もいつものことと思っているのか、比古は相変わらずにこにこしている。いつもと違う比古の人の良さそうな笑顔を見ていると、は何故が自分が悪いことをしているような気分になってきた。





 “何も出せない”というのは謙遜でも何でもなく、本当に朝の残りと比古が持ってきた川魚しか出せなかった。母親の帰りを待っていれば、何か買ってきていたのだろうが。
 しかし比古も腹を空かせているようだから仕方がない。どうせこの男のことだから、酒さえ出してやれば満足だろう。
 ところが、比古は徳利とぐい飲みを見て、怪訝そうな顔をした。
「どうしたの?」
 いつもなら勝手に手酌で始めているくせに、今日は見ているだけで全く手を出そうとしない。柄にもなく遠慮しているのだろうか。
 比古はもじもじしながら、
「昼間からお酒を飲むのは駄目だって………」
 比古らしからぬ言葉に、は唖然とした。あの比古がこんなことを言うなんて、本当にどこか悪いのではあるまいか。もしかしたら死期が近いのではないかと心配になるほどだ。
 いつもの比古相手ならそのまま酒を引っ込めるところだが、こんなことを言われると飲ませてやりたくなるのが人情である。これまでのことを反省して、本当に心を入れ替えたのだとしたら凄いことではないか。どうせ長続きはしないだろうが、この男が一瞬でも反省したということが大事である。
「今日はいいのよ。大したもの出せなかったんだから。それにしても、体のことを考えるようになったなんて、偉いじゃない」
 この手の性格は褒めて伸ばすのが一番だ。比古もいい歳なのだから、そろそろ自分の体を労ることを覚えさせなくては。
「そうかな………」
 いい気になってふんぞり返ると思ったら、意外にも照れているではないか。比古にも“照れる”という感情があるなんて、は仰天した。
 心を入れ替えると人相まで変わるのか、あんなに性格の悪さが滲み出ていた顔が可愛らしく見えくるから不思議だ。ものもとの土台は悪くないのである。やはり顔立ちより心が大事なのだと、は改めてしみじみと思った。
「少しなら薬にもなるんだもの。さあ、飲んで」
「お酌してくれるの?」
 徳利を持ったを見て、比古が嬉しそうな顔をする。
 としては徳利を渡すだけのつもりだったのだが、こんなに前回の笑顔を見せられると、酌をしてやらなければ悪いような気がしてきた。
「あ……じゃあ………」
 手酌で飲めとも言いづらく、は仕方なく酌をした。
 酒を注いでやったらすぐ飲むかと思いきや、比古はぐい飲みをじっと見ている。まさかとは思うが、まだ遠慮しているのだろうか。
「どうしたの?」
「美味しそうな匂いだなあと思って」
「………いつも飲んでるお酒なんだけど」
 やっぱり今日の比古はおかしい。いつもの銘柄なのに、しかもたまに別名柄を出しても何も言わずに飲むくせに、今更何を言っているのだろう。
 不審そうなの視線に気付いたか、比古は慌てて取り繕うように、
「きっとさんがお酌してくれたから美味しそうに感じるんだね」
「………………」
 笑顔でそんなことを言われるなんて、は迂闊にもどきりとしてしまった。
 こんなことを言うなんて、ますます怪しい。目の前に座っている男は比古の顔をしているが、本当は別人なのではないかと思えてきた。
 だが、比古に双子の兄弟がいるとか、そっくりな兄弟がいるという話は聞いたことがない。あの男と同じ体格の人間がいるということも考えにくいが。ということは、やはり比古で間違いないのだろう。
 納得できないけれど、は深く追及せずに箸を取った。





 酒の進み具合はいつもの比古であるが、珍しく酔いが回っているようで、顔が赤い。しかも見たこともないくらい上機嫌だ。いつもなら黙って飲み食いしているのが、今日は饒舌である。本当に、比古に何があったのか。
さんは本当に料理が上手いよね。いつでもお嫁に行けるよ」
「………魚焼いただけだし」
 酔っているとはいえ、比古がこんなことを言うなんて不気味すぎる。しかもが作ったのは焼き魚だけで、他は母親が作った朝食の残りだ。
 の言葉など酔っている比古には全く聞こえていないようで、変わらず上機嫌に、
「ご主人がくれるのは焦げてるのとか失敗作ばっかりだし―――――]
「ご主人?」
 “ご主人”というのはの父親のことだと思うのだが、比古に出すのは一番いいところばかりだ。酔って本音が出たとしても、これは明らかにおかしい。食事をたかっているのは此処だけだと思っていたけれど、他所でも同じようにたかっていたのだろうか。金に困っているというわけでもないだろうに、恥ずかしい男だ。
「あんた、まさか他所でもご飯たかってんの?」
「えっ?! あ、いや………」
 の突っ込みに、比古は一気に酔いが醒めたような顔をした。
「本当にみっともないったら! うちだけならまだしも、他所様にまで迷惑かけないでよ!」
 改心したところを見て少しだけ見直したけれど、新事実を知ったらまた逆戻りだ。それどころか、今まで以上に見損なった。
 比古が何処で何を食べていようとにはどうでもいいことだが、無性に腹が立つ。此処でしか食べていないと思っていたから仕方ないと思っていたのに、他所でも食べてきているなら、そっちに行けばいいではないか。何というか、自分しかえさを与えていないと思っていた野良犬が他所でも餌を貰っていたのを知った時のようながっかり感だ。
「他所でご飯貰ってるなら、わざわざうちに来なくてもいいでしょ! ついでに、そこのお嬢さんを口説けばいいじゃない」
「そ……そうじゃなくて―――――」
「帰ったぞー」
 焦る比古の声に、玄関からの父親の声が重なった。
 父親が帰ってきたなら、追求は一旦ここまでだ。あとは父親にも話を聞いてもらって、きっちり〆てもらわなくては。
「このことはお父さんにもしっかり聞いてもらいますから!」
 それだけ言い捨てると、は足を踏み鳴らして部屋を出て行った。





「ちょっと聞いてよ、お父さん!」
 バタバタと走って玄関に向かっただったが、父親の横にいる男を見て腰を抜かさんばかりに驚いた。そこには、さっき座敷にいたはずの比古が立っていたのだ。
「あ……あんた、何してるのよ?!」
「そこで親父さんにあって、昼飯に誘われたんだよ」
 事情を知らない比古は、の態度はいつものことと思っているのか、飄々としている。さっきの比古といい、こっちに比古といい、の態度に全く頓着していないようだ。
 狐に化かされているような気分であるが、思えば狸も人を化かすと聞く。座敷にいる様子のおかしい比古は狸に違いない。心を入れ替えたのかと思ったけれど、よくよく考えてみれば比古が我が身を省みるなんてことがあるはずがないのだ。それができていたら、今頃はもう少しマシな性格になっている。
 比古の足元を見ると、いつも一緒の狸がいないではないか。座敷にいるのは比古に化けた狸で確定だ。
「あの狸!」
 を化かそうだなんて、飼い主も飼い主なら狸も狸だ。飼い主の態度を見て、自分もを馬鹿にしていいと思い込んだのだろう。
 狸にまで馬鹿にされたとなったら、も本気を出さざるを得ない。縛り上げて、二度とこの家の敷居を跨げないようにしてやる。





 ドタドタ走ってきたの後ろから本物の比古まで登場して、座敷の比古は驚いた顔をした。が、いい感じに酔いが回っているようで、特に慌てた様子は無い。
「ご主人もご飯ですか? 魚ありますよ、魚。私が捕ってきたんですよ」
 正体がバレてしまっているのは判っているはずなのに、狸は全く悪びれない。飼い主に似て図々しい奴だ。
 一発殴ってやろうと思っていたけれど、悪気無くにこにこしている狸の顔を見ていたら、何だか気分が殺がれてしまった。ひょっとしたら狸は、騙してやろうなんて気は全く無く、純粋に餌を食べに来ただけなのかもしれない。飼い主と違って、手土産まで持ってきているのだ。
 だが、これも狸の作戦なのかもしれない。何しろ、相手は人を騙す名人なのだ。仮に本当に悪気が無かったとしても、ここで何も言わなかったら人を騙してもいいと思ってしまう。
 やっぱり説教しようとが踏み出した時、後ろにいた比古が先に出て狸の胸倉を掴んだ。
「俺に化けるたぁいい度胸じゃねぇか、コラ」
「てへっ」
 狸はぺろっと舌を出して、自分の頭をコツンと叩いた。可愛ぶって比古の怒りを逸らす作戦なのだろうが、逆にイラッとさせただけのようである。可愛い女の子がやっても腹が立つところを、可愛くもない筋骨隆々の大男がやるのだから、不愉快にならないわけがない。
「ナメてんのか!」
 自分と同じ顔で可愛ぶられてよほど腹が立ったのか、比古は拳骨で力いっぱい狸の頭を殴りつけた。
「ぎゃっ!」
 短い悲鳴と同時に、外套の下から狸の尻尾がぴょこんと出た。
 涙目になって両手で頭を押さえる狸を見下ろし、比古はフンと鼻を鳴らして、
「俺より先に飯まで食いやがって。お前もお前だ。俺と狸の区別もつかねぇのか」
 何故かまで怒られてしまった。どう考えても八つ当たりである。
 も少しはおかしいとは思っていたけれど、見た目は完全に比古であるし、昔話ではあるまいし本当に狸が人に化けるとは考えられないではないか。しかも、本物の比古より狸の方が紳士的なのである。こうなったら、比古と狸が入れ替わったままでもいいくらいだ。
 はむっとして、
「そうね、おかしいとは思ったわ。あんたがまともなお土産持ってきたり、私の名前を呼んだりするはずないもの」
「あ? 土産は持ってきたことあるだろうが」
 狸の置物のことを言っているのだろうが、あんなものが土産だなんては認めない。土産というのは、受け取る相手が喜ぶものでなければならないのだ。送る側が相手の反応を見て喜ぶものではない。
 ところが、比古の言葉は予想外のものだった。
「俺が一番の土産だろ?」
 比古は何故か自信満々である。何をどうしたらそんな結論に至るのか、比古の頭の中を見てみたい。
「………馬鹿じゃないの?」
 そんなことを言って許されるのは、売れっ子の二枚目役者くらいなものだ。いくら比古が有名人とはいえ、その発言はおかしい。
 の冷め切った反応は比古には意外だったらしく、驚いた顔をした。何故意外に思うのか、の方が驚きである。
「え? 好きな男が通ってきたら嬉しいもんじゃ……あれ?」
 よほど衝撃的だったのか、比古は見たことがないほどうろたえている。
 これまでの何を見てそう思ったのか解らないけれど、は比古のことが好きでたまらないことになっていたらしい。お近のように振る舞っていればそう解釈しても無理はないが、の態度は正反対のはずである。比古も狸に化かされているのだろうかと、は心配になってきた。
「あんた……大丈夫?」
さんはまだ別にそこまでは……」
 狸も心底呆れた顔をした。二人の様子をずっと見ていたとはいえ、狸の方が比古よりも現状を把握している。
「え………?」
 まるで死刑宣告を受けたかのように、比古は絶句した。彼の中では、はお近並みに比古に惚れていることになっていたようだから、それは衝撃的だろう。超絶自信家なだけに、ばっきりと心が折れて再起不能になってしまうのではないかと、にしては珍しく心配してしまうほどだ。
 が、すぐにそれは要らぬ心配だとわかった。比古も呆れた顔をして、
「お前、いい歳して理想高いなあ。身の程を知った方がいいぞ」
「〜〜〜〜〜〜」
 一瞬でも心配したが馬鹿だった。あれだけ面の皮の厚い男なのだから、鋼どころか金剛石の心の持ち主に決まっている。の方が心が折れそうだ。
 身の程を知れだなんて、比古にだけは言われたくない。は“普通の男”がいいのだ。普通を求めることのどこが身の程知らずなのか。
「私は普通の人がいいの!」
「そうか、俺が身の丈に合わないいい男だから遠慮してるのか。意外に謙虚なんだな」
「別に謙虚じゃないけど」
「平凡だからって引け目を感じることはないぞ。凡人の自覚があるだけでも大したもんだ」
 褒めているのか貶しているのか、よく分からない言い草だ。比古の表情に悪意は無いようだから、本人は褒めているつもりなのだろう。
 この男は何を言うにしても、苛っとする一言を忘れない。こういうところが嫌なのだ。
「もういいっ! ほんと、あんたってば狸以下っ!!」
 今まで何度爆発したか自分でも分からないけれど、今日という今日は本当に大爆発だ。こんなに無礼で言葉が通じなくて、気遣いも狸以下のくせに自信過剰で、人としていろいろ間違っている男に今日まで付き合ってやっていたなんて、は自分の器の大きさを褒めてやりたい。
「その根性、狸に叩き直してもらったら?!」
 比古に化けていた狸にはドキドキしてしまったのだから、本物の比古だって人並みに気遣いができれば、ひょっとしたら好意を持てたかもしれないのだ。そんなことすらしないで好かれていると思うなんて、を馬鹿にしている。
 名前で呼べと言っても呼ばないし、これまで持ってきた手土産といえば嫌がらせかと思うような狸の置物だけ。これまでの比古の行動を思い返したら、改めて腹が立ってきた。
「やっぱり私、あんたのこと嫌いだわ」
 今までにないくらいきっぱりと力強く、は言い切った。
<あとがき>
 狸さん、化けられるんだな。ってういか、狸さんの師匠の方が主人公さんに好かれそうってどういうことだよ。狸さんに教えを乞えよ、師匠(笑)。
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