修羅場とか

 あの屋の娘に婿が来るらしい、という噂が流れているらしい。“あの”が屋にかかっているのか娘にかかっているのか判断に悩むところではあるが、きっと後者なのだろう。だって自分の評判くらい判っている。
 “婿”というのは勿論、比古のことだ。あんな大男が頻繁に出入りしていたら、噂にならないはずがない。しかし、屋は商家であるから人の出入りは頻繁であるのに、なぜ比古だけが“婿”ということになっているのか。
 は不思議に思っていたけれど、すぐに謎は解けた。あの狸の置物である。
 比古から貰った狸の置物は、店に置かれている。は気に入ったわけではないが、父親が非常に気に入って、店の一番目立つ所に置くことになったのだ。
 店の一等地にあるからなのか、作者の腕なのか判らないが、小さいくせに客の目を引くらしい。客が「あの狸は何か」と尋ね、父親が「新進気鋭の陶芸家が娘のために特別に作ってくれた」と自慢げに答えるのだ。
 しかもよせばいいのに、足繁く通ってきているから今では家族同然の付き合いとまで言い触らしている。
 確かにしょっちゅう飯を食いに来ているのだから、言っていることには間違いは無い。完全に家族の食卓に馴染んでしまっているのも、“家族ぐるみの付き合い”と言ってもいいだろう。
 だが、何故そこから“の婿”という話になるのか。そんな話は全く出ていないというのに。
 そもそも比古にはお近がいるのだ。そこはどう考えているのか。本人は何もないと言っていたけれど、あんなに熱心に通っているのを放っておいているのは、やはり何かあるのではないかと疑ってしまう。
 比古とお近がくっ付くのは構わないけれど、何だかもやもやする。狸の置物とか「狸顔が好み」とか言ったりして、比古はどう考えているのだろう。
「酒屋に入り婿って行うのはなあ。俺、商売に向いてねぇし」
 比古のせいで変な噂が立っているという話をしているのに、彼の反応はずれている。商才があったら入り婿になるつもりなのか。
 比古が屋に婿入りしたところで、跡を継ぐのはの兄と決まっている。若旦那として左団扇な生活などできないのだ。
「店は兄が継ぐから、私は婿なんか取りません!」
「何だ、婿入りしたら酒飲み放題かと思ったのに」
「商品を飲めるわけないでしょ! 何考えてるの」
 この男が屋に入ったら、手当たり次第に商品を飲んでしまいそうである。よく勘違いされるが、酒屋だからといって、好きなだけただ酒を飲めるわけではないのだ。
「でもほら、酒蔵で試飲とかやるだろ? 飲み放題じゃねぇのか?」
 比古の頭の中は酒のことしかないらしい。どれだけ酒が好きなのか。に気がある素振りを見せているのも、酒目当てような気がしてきた。
 も配達しているから分かるが、比古の酒の消費量はただ事ではない。毎日、しかもそれなりの量を飲んでいるようだ。の家で飯を食っている時も当たり前のように飲んでいる。 
 そういう男なら、酒屋と親族になるというのは魅力的な話なのかもしれない。新酒の試飲会にも行く気満々である。
「あのね、私は噂の話をしてるの。あんたの願望なんか聞いてないから」
 お近という女の影がちらついている男を、何が悲しくての婿にしなければならないのか。だって、結婚するなら身辺の綺麗な男が良い。
「お父さんが乗り気になってるのは、お近さんのことを知らないからなの。あんたからもちゃんと言ってよね」
「何を?」
 惚けているのか本気なのか、比古は訳の分からない顔をする。そういう都合の悪いことを無理矢理流そうとする根性が気に入らない。
「お近とは何も無いぞ。前にも言っただろ」
「あんなに熱心に通ってるのに何も無いなんて、信じられるわけないでしょ」
「じゃあ、来ないように言えばいいのか」
「それは………」
 お近が来なくなれば、確かに身辺は綺麗になる。比古の様子を見ると大して困っている様子も無いし、これは本当にお近が勝手に来ているだけなのだろうか。
 しかし比古がお近に山小屋に来ないように言ったとして、恨まれるのは確実にだ。他人の恨みを買ってまで婿にする価値がある男かと考えると、微妙である。
「お近さんが来なくなったら寂しくないの?」
「別に。人付き合いはあんまり好きじゃねぇし」
 比古はあっさりしている。あっさりし過ぎて少し冷たいのではないかと思うくらいだ。
 人付き合いが好きではないと言っている割には、の家で飯を食っているのはどういうことだと思うが、きっと餌付けされてしまっているのだろう。その証拠に、飲み放題だと思って、婿の話も乗り気である。
「言っとくけど、うちにお婿に来ても飲み放題じゃないから。そこはよ〜く考えてね」
 比古には筋道を立てて説明するのは無理だ。酒を中心に話してやれば、もっと真剣に考えるだろう。
「飲み放題じゃないのか………」
 の言葉に、比古は少しがっかりしたような顔をした。





 今朝、初雪が降った。すぐに止んだが、そろそろ比古の山小屋への配達もおしまいにする時期だろう。自転車で山道を行くのは危険すぎる。
 流石に父親も大事な一人娘に雪の山道を配達に行けとは言わないだろうし、近いうちに配達を止めようと思う。どうせが配達に行かなくても、比古が自力で山を下りて店に飯をたかりに来るのだ。
 比古の山小屋が見えたところで、女の声が聞こえてきた。
「どうしてですの? 私、比古様のお気に障るようなことをしました?」
 紛れもない、お近の声だ。彼女が山小屋にいることは珍しいことではないが、様子がおかしい。泣いているようでもある。
 まさかとは思うが、此処には来るなと言ったのだろうか。がお近のことを言ったのは数日前の話だというのに、変なところに行動が早すぎる。
 ここでが出ていったら、それこそ修羅場だろう。それだけは避けたい。
 は自転車を脇道に隠し、自分は気の陰に隠れながらそっと二人に近付く。
「そういう訳じゃねぇけどよ。こんな山奥まで通うのも大変だろ」
 長いこと話しているのか、比古は面倒臭そうだ。当事者のくせに緊迫感が無い。
 お近が一人でたかぶっているように見えるけれど、これは比古の態度も悪いと、は思う。来るなと言うなら言うで、誠実にお近と向かい合うべきだ。
さんは私より此処に来てるじゃありませんか」
 やっぱり自分の名前が出たかと、はげんなりした。きっとお近は、のせいで山小屋に来るなと言われたと思っているに違いない。当たっているのが辛いところだが。
「あいつは仕事だからな。だが、雪が降り始めたら来させないつもりだぞ」
「それなら私がお酒をお持ちしますわ。配達が無くなったら不自由でしょう?」
 お近の声は縋りつくようだ。の役目を自分が取って代わろうというのだろう。
 正直、お近はよりも体力があると思う。あの山道を息も切らせずにやってくるのだ。ただの仲居とは思えない健脚である。
 お近が代わってくれるというのなら、は喜んで代わってやる。この山道は正直きつい。
 が、比古はけんもほろろに、
「俺があいつの店に行くから平気だよ」
「そんな、大事なお仕事もあるのに―――――」
「店に行けば飯も食えるしな」
 比古はの家を何だと思っているのか。比古の定食屋ではないのである。
 いい歳をして餌付けされるなんて情けない。これでは狸といい勝負だ。
 は呆れ返っているが、お近は逆に奮起して、
「お食事ならうちでもお出ししますわ。懐石だってお酒だって―――――」
「そういう堅っ苦しいのはなあ………」
 ここまで言ってくれているというのに、比古の返事は重い。懐石なんて、が食べたいくらいだ。
 お近がここまで言ってくれているのに、この男は何なのか。はだんだん腹が立ってきた。
「いい加減にしなさいよ! 懐石なんて私だって食べたことがないのに!」
 お近が帰るまで隠れているつもりだったが、思わず飛び出してしまった。
「きゃあっ?!」
「何処から出てきてんだよ!」
 ぎょっとする二人にはお構いなしに、は比古を怒鳴りつける。
「ここまで言ってくれてるのに何なのよ、あんたは! お近さんの気持ちを考えなさいよ!」
 休みの度に山小屋に通ってきて、女房のように世話を焼いてくれて、しかも店に来たら懐石も酒も用意すると言うくらいなのだ。本当に比古のことが好きでたまらないのだろう。そこまで好いてくれていて、しかもなかなかの美人である。これで一体何が不満なのか。
 比古は、の婿になれば酒が飲み放題だと思っているようだが、店は兄が継ぐのだ。生活は今までと変わらないし、どう考えてもの婿になるより、お近とくっ付いた方が条件が良さそうではないか。
「じゃあ俺の気持ちはどうなるんだよ?」
 比古の声は落ち着いているが、目は剣呑だ。
「あ……あんたの気持ちは………」
 前に、の顔が好みだと言っていたのを思い出した。狸の置物とはいえ、のために作品を作ってくれたことだってある。お近には多分、そういうものを送ったことは無いだろう。
 けれどそれは、父親の餌付けの賜物ではないかとも疑ってしまうのだ。比古のに対する態度は、好きな女に対するものには見えないし、何しろあの性格である。あまり深く考えもせずに、好みの飯を食わせてくれる“の家”が好きなのかもしれないとも思う。
「うちだって、いつまでもあんたのご飯を用意できるわけじゃないし………。お父さんが隠居したら、兄さんは出さなくなるかもしれないし………」
 本当に重要なのはそこではないのだが、核心に触れるのは怖いような気がして、はどうでもいいことを言ってしまう。
「飯とかどうでもいいし。前にも言ったと思うが、俺は―――――」
「ぅわ―――――っっ!!」
 今の状況でそれを言ったら駄目だ。は奇声を上げ比古の言葉をて遮った。
 けれど、お近には全部伝わってしまったらしい。比古ではあるまいし、そこまで言えば大抵の人間には伝わるだろう。
 最悪である。比古のことを好きな女がいて、比古には別に好きな女がいて、“比古の好きな女”である自分も此処にいるのだ。修羅場の条件が揃ってしまった。というか、既に修羅場である。
 できるだけ穏便に済ませる方法を考えていたというのに、どうしてこんなことになってしまったのか。こういう空気はの最も苦手とするものである。
 恐ろしくてお近の顔を見れない。この前のように般若のような顔をしていたらどうしよう。
 比古もお近も何も言わない。だって何か言えるわけがない。これが三竦みというやつか。
 それぞれが相手の出方を待っているような沈黙が耐えられない。かといってにこの状況を打開する勇気があるはずもなく、下を向いて沈黙するだけだ。
 そんな中、お近が口を開いた。
「なんだ、そうだったんですか………。私ばっかり、馬鹿みたい」
 泣き喚かれるかと思ったら、予想外に気の抜けた声で驚いた。
 恐る恐る顔を上げると、お近は泣いているような怒っているような、複雑な顔をしている。それでいて、どこかほっとしているようにも見えた。
 修羅場というのは、乱闘になるものだとばかり思っていた。比古への想いの分、全ての怒りや憎しみがに向けられると覚悟していたのだが、お近はそういう女ではなかったのか。
 できるだけお近を刺激しないように、は様子を窺いながら話しかける。
「あの、私、新津さんがどう思ってるかなんて最近まで知らなくて……だから……」
「あー、そういうの、もういいから。あなたに何か言われると、余計に惨めになるから」
 ぴしゃりと撥ねつけられてしまった。さばさばしているように見えるけれど、きっとそれは虚勢か意地なのだろう。そう思うこと自体が、お近に対して失礼なことなのだが。
 お近がそう言うのなら、これ以上何も言わない方がいいような気がしてきた。が慰めたり気遣ったりするのは、余計にお近を傷つけてしまう。
 こういう時、“勝者”は何を言えばいいのだろう。慰めは論外だし、謝るのも何か違うような気がする。
「ま、そういうこった。今まではっきり言わなかったのは悪かったけどよ。お前のことは良い奴だと思うけど、何か違うんだよな」
 比古が話をまとめようとしているが、言っていることは残酷だ。「何かが違う」なんて漠然としていて、だったらきっと納得できない。
 けれどお近はそれで納得したらしい。小さく頷いた。





 世間的に見て、比古とお近はお似合いだったと思う。少なくとも、比古とよりはお似合いだったはずだ。世話焼きで、比古の前ではいつもにこにこしていて、の目から見ても幸せそうだった。
 けれど男女の仲というのは上手くいかないもので、お近は比古のことが好きだったけれど、比古はの方が良くて、は―――――
 自分が比古のことをどう思っているのか、自身も分からなくなってきた。悪い人ではないとは思う。父親も梅も勧めるような男だから、性格は難ありだけれど、世間的にも悪くない相手なのだろう。
 けれどは、お近のようにまめまめしく比古の世話を焼くなんてできないし、何よりあんな風にいつもにこにこなんてできない。今までのことを思い返しても、いつも喧嘩腰だ。
 そんなを、比古はどこが良いと思ったのだろう。お近のような女を振ってまで選ばれた理由が分からない。
 比古は自分を選んだ。その事実は胸を張っても良いものだろうが、理由が分からないだけにもやもやする。あんなことがあった直後では何となく訊きづらいし、はもやもやしたまま山を下りた。
<あとがき>
 あんまり修羅場にならなかったけれど、これでお近さんとの絡みは終わりです。書いててお近さんが気の毒だったわ。でも、師匠以外の話では結構活躍してるんで勘弁してください(笑)。
 あとはゴールを目指すだけだな。師匠、ラストスパート頑張れ!
戻る