災難の狸様

 いつものように比古の山小屋に行くと、玄関先に狸が繋がれていた。どうやら罠に掛かっていたようで、足に包帯をしている。
 やはりこれも食う予定なのだろうか。狸汁というのがあるのはも知っているが、あれはあまり美味しくないと聞いているのだが。
「これ、食べるの?」
 答えは予想できているが、一応訊いてみた。
 が、比古はいつもの調子で、
「お前、友達を食うのか? 酷い奴だな」
 これは獲物ではなく、比古の友達だったらしい。人間の友達ができないから、狸を友達にすることにしたのか。あの性格では自業自得とはいえ、切ない話である。
 考えてみれば、食う予定のものを手当てするはずがない。失礼なことを言ってしまった。
「そ……そうよね。手当てまでしてあげてるんだものね」
「別に礼はいらねぇぞ」
「は?」
 比古が自分の友達の手当てをして、どうしてが礼を言わなければならないのか。意味が分からない。
 ぽかんとしているに、比古はにやにやしながら、
「畑を荒らすから始末しようと思ったんだが、お前の仲間だったら悪いと思ってな。お前、ちゃんと言い聞かせとけよ」
「なっ………!」
 この前の狸神社のことといい、失礼にも程がある。こんな美人を捕まえて、何が「お前の仲間」だ。と狸が仲間なわけがないではないか。
 百歩譲ってが狸に似ているとしても、それが本人に言うことか。狸に似ていると言われて喜ぶ女がいるわけがないではないか。
「私が狸の仲間なわけないでしょ! 馬鹿じゃないの!」
 が怒鳴りつけても、比古は涼しい顔だ。
「そうか? あんまり似てるから、お前が引っかかったのかと思ったぞ」
「似てないっ!あんた、もう耄碌してるの?」
 本当に苛々する。からかわれているだけなのだから、本気で相手をするだけ馬鹿を見るのだが、それでも言い返さずにはいられない。
 案の定、比古は可笑しそうに大笑いした。そして狸を抱き上げると、その顔をの鼻先に突き出して、
「ほら、鏡見てるみたいだろ? そうだ、養うなら名前を付けてやらないとな。面倒臭ぇから“”でいいか」
「〜〜〜〜〜〜」
 狸にの名前を付けるなんて、からかいを通り越している。の前で狸に向かって名前を連呼して、反応を楽しむつもりなのだろう。いい歳をして、子供みたいなことをする男だ。
 こんな男が、世間では新進気鋭の陶芸家なんてありがたがられているのだから、どうかしている。そんな御大層な肩書きに騙されて、父親もお近も、比古の真の姿が見えていないのだろう。
 こんなのを相手にするだけ体力の無駄だ。はぷいっと顔を背けると、無言で陶芸の準備を始めた。





「おい、拾い食いなんかすんな」
、そんなところで糞すんじゃねぇ」
 予想はしていたが、狸に向かって“”の連発である。しかも他人が聞いたら誤解するようなことばかり言う。必要以上に大声で言っているのだから、わざとやっているのは確実だ。
 意地でも無視してやろうと決心していただったが、ここまでやられると限界である。粘土を叩きつけると、勢いよく立ち上がって比古を睨みつけた。
「さっきからって、いい加減にしてよ!」
「こいつの名前がなんだから、しょうがねぇだろ」
 まるでが理不尽なことを言ってるような言い種である。理不尽なのは、狸にの名前を付けた比古の方ではないか。
 の怒りなど全く見えていないように、比古は狸を撫でながら、
「お前のこと呼んでるだけなのになあ、?」
 狸は狸で、野生を忘れてすっかり比古に懐いてしまっているようで、甘えるように鼻を鳴らしている。狸には罪は無いが、腹の立つ奴だ。
「こっちのは素直で可愛いなあ。何処かの誰かとは大違いだ」
「あんた―――――」
「まあっ、比古様っ………!」
 が反論しようとするのと同時に、背後から悲鳴のような鋭い声が突き刺さった。
 振り返ると、お近がこの世の終わりのような顔で立っている。いつの間に来たのか知らないが、さっきの比古の言葉で妙な誤解をしているらしい。
「ちっ……違っ………! これはっ………!」
「よう、来てたのか」
 慌てて否定しようとするを遮って、比古が暢気に声をかけた。お近のただならぬ様子など全く頓着していないようだ。
 嫉妬なのか怒りなのか、お近の顔は青くなったり赤くなったり大変だ。今にも頭の血管が切れて倒れそうである。
 これは全くの誤解なのだ。比古が可愛いと言っているのは狸のことであって、名前だってへの嫌がらせなのである。断じてお近が考えているような意味ではない。
「こっ……これは狸のことでっ………」
 が弁解をするのはおかしな話ではあるし、こんなに吃っていては疑惑を深めるばかりだ。けれど、思わず挙動不審になるほど、お近の顔は怖いのである。
 般若の面というのは、嫉妬に怒り狂った女の顔を基にしていると聞いたことがある。あんな顔になるものかとは思っていたのだが、今のお近の顔を見たら納得した。
 このただならぬ空気を全く感じていないのか、比古は狸を抱えて得意げに、
「お前には“”を見せるのは初めてだったな。この前捕まえたんだ。飼ってみると懐くし、可愛いもんだぞ」
 今すべきことは狸の紹介ではない。やっぱり比古はズレている。
 “可愛い”の対象が狸と分かって、お近は毒気を抜かれたような顔をした。が、すぐに不機嫌な顔になって、
「狸にさんの名前を付けるなんて………」
 もっと言ってやってくれとは思うが、お近が言いたいのはが思っているのとは違う意味だろう。比古が“可愛い”と言っている狸に、の名前を付けたのが気に入らないのだ。
 普通に考えて、自分が飼っている生き物に人の名前を付けるとしたら、それは大体自分の好きな相手だ。野生の狸が懐くくらいだし、比古も可愛がっているのだろう。そんな狸にの名前を付けているとなったら、お近でなくても誤解する。
 しかしこれは違うのだ。は慌てて横から付け足した。
「あの狸が私に似てるって言うんですよ。酷いですよねぇ」
 自分を落として笑い話に持っていくつもりが、お近に睨みつけられてしまった。自虐自慢と取られてしまったらしい。
 これはまずいと思っていると、お近は今度は比古に向かって媚びを含んだ拗ねた顔をして、
さんじゃなくて、私の名前を付けてくださればよかったのに。さん、自分の名前を使われるのは嫌みたいですし」
 お近のような女にそんな言い方をされたら、が男だったらすぐに改名する。しかし比古は全く乗り気ではないようで、つまらなそうな顔をした。
「お前の名前を付けてもしょうがねぇだろ。こいつに似てるんだからよ」
「だから似てないって言ってるでしょ!」
 せっかくお近が言ってくれているのに、その断り方はないだろう。おまけにまたに似ているなんて、何処までも失礼な男だ。
 お近の名前を付けてやれと言ってやろうかとも思ったが、が口を出すと話がややこしくなりそうだから黙っている。しかし黙っていても事態が好転するはずもなく、辛いところだ。
 としてはお近と争うつもりは全く無いのだが、いつの間にやら三角関係に巻き込まれてしまっている。比古と関わってしまったばかりに、こんな面倒なことに巻き込まれるなんて、本当にこの男は疫病神だ。
 何処から解決したものかとが考えていると、すさまじい殺気が全身を貫いた。
 殺気の出所はお近だ。まあ気持ちは解る。
 気持ちは解るのだが、怒りのやり場が間違っているとは思う。お近の名前を付けるのを拒否したのは比古なのだ。はなにも悪くはない。
 男が浮気をした時、女の怒りは相手の女に向かうと聞く。この場合は浮気とは一寸違うが、似たような心理状態なのだろう。本当に災難である。
 この前の狸様は縁結びは聞いてくれそうだったが、人間関係はどうだっただろう。狸が招いたことなのだから専門外でも解決してくれないものかと、は思った。

<あとがき>
 狸ネタは前回限りだと思っていたのですが、師匠の家でリアル狸が飼われることになったようです。酒屋と狸は縁のあるものなんで、主人公さんが狸っぽいのも納得というか……(笑)。
 狸を飼ってる人って結構いるみたいですね。人に懐きやすいのか?
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