隔靴掻痒

「ただいま戻りましたー・・・・・・」
やる気のすっかり失せた声でそう言いながら、はくたくたになった体を引きずって廊下を歩いた。父親に言い付かった配達が思いの外重労働で、外は冷たい風が吹いているにもかかわらず、身体はじっとりと汗に湿っていた。
(全くもう、いくら自転車だからって言っても運べる量には限界があるのよ!)
無茶な依頼をよこした父への文句が頭をよぎる。そんな依頼を軽い気持ちで請け負った自分の責はあえて無視した。
「先にお風呂に入らなきゃ。冬なのに汗かくなんてどうかしてるわ」
弱々しいの声が耳に入ったのか、母親が自分を呼んで何かを伝える声がしたが、意識が既に風呂に向かっていた彼女にはその言葉が届く事はなかった。



 自分の部屋から着替えを持って風呂に向かうと、戸の隙間から湯気が漏れている。
「誰か入ったのかしら・・・・・・もう、戸くらいちゃんと閉めなさいよね」
疲労も伴った溜息をついて、はそのまま風呂の戸を開けた。







 ―――――数秒後。



 柱という柱を揺るがすほどの絶叫が、その屋敷中の人間の鼓膜を刺激した。






 「ったくうるっせえなあ、いきなり入ってきてでけェ声張り上げんじゃねえよ」
の視線の先には、およそこの邸宅には似つかわしくない大男―――比古が耳を押さえて顔を顰めていた。


 「な、な、な、・・・・・・」
予想外の姿がそこにあった事と、その姿が下帯一丁であった事の衝撃で言葉もろくに紡げずに、ただ口をぱくぱくさせる事しかできない。手にしていた着物も滑り落ち、足元に広がってしまった。
「何だよ、さっきから雛鳥みたいな顔して」
「―――――何であんたがここにいるのよ!!」
変な奴だな、と首を傾げる比古の様子に、喉元でつっかえていたの言葉が漸く堰を切って流れ出した。
「そりゃお前に会いに来たに決まってんだろ?今更何言ってんだ」
比古はどういうわけか、自分を気に入っていると公言して憚らない。そのせいなのか何なのかの両親もこの男をいたく気に入っている様子で、こうして自分がいない時でも自宅に上げてしまう事も一度や二度ではなかった。しかし今回の状況はの想定を大幅に超えており、疲れきった心身に更に打撃が加わった気がした。
「そうじゃなくて!何であんたがうちの風呂に入ってんのって言ってんのよ!!」
「ここに顔出したらよ、お前の親父さんが風呂に入って温まってくれって言うもんでな。確かに外は寒かったし、せっかくなんでそのままお言葉に甘えたってわけだ」
「・・・・・・」
飄々と返す男には遠慮会釈の欠片もないらしいとは思う。疲労が更に上乗せされ、もう言葉を発する事さえ億劫になった。


 「・・・・・・もういいわ、さっさと着替えて出てって」
落とした着物を拾い上げ踵を返したの襟首を、比古の手が無遠慮に掴んだ。
「どこ行くんだよ。風呂入るんだったらここで待ってりゃいいじゃねえか」
「あんたの着替えをまじまじ見る趣味は私にはないの!いいから早く着物着なさいよ!」
振り返りもせずにそう怒鳴る。少しの沈黙が流れたが、比古の手は離れない。
「ああ、そんなら」
そうしての耳に飛び込んできたのは、


「せっかくだし、このまま一緒に入っちまえば問題ねえだろ?お前のせいで俺もすっかり冷えちまった」





「出てけ――――!!!!」
今度は怒号が、屋敷をびりびりと震わせる事になった。







 積もりに積もった鬱憤を全て流してしまえとばかりに殊更ゆっくり風呂に入れば、沈みがちだった気分も浮上してくる。芯から温まったが両親のいる部屋に足を運ぶと、何故かそこには比古の姿しかない。
「随分遅かったじゃねえか」
まるで自分の家のように寛いでいる男の様子に、浮上していた気持ちが一気に萎える。帰宅した時さえ出なかった溜息が漏れた。
「何であんたがここでゆっくりしてんのよ。父さんと母さんはどこ行ったの?」
「そういや寄り合いがどうとか言ってたっけなあ。お前がいつまでたっても出てこねえからって、さっき二人揃って出かけてったぜ」
「寄り合い?!」
は思わず頓狂な声を上げた。そんな話は全く聞いていない。いや、あの両親の事だから伝え損ねているのは大いにありうるが、何もまさかこの頃合で家を空けてしまうとは。
「て事はここ、あんたと私の二人だけって事なの?!」
「そうらしいな」
比古の方はそんな事などお構いなしといった様子で、目の前の酒をちびちびと楽しんでいる。 これではどちらが家人だかわかったものではない。
「何であんた、そんなに遠慮会釈もないのよ・・・・・・父さんも母さんも出かけたんだから、さっさと帰れば?」
がそうこぼすと、比古はそれまで飄々としていた面を急に顰めた。
「お前なあ、俺がここに何しに来たかわかってんのか?何べんも言ってんだろ、お前に用があるんだよ」
そう言うと手にした空の杯をに向かって突き出した。
「ほら、そんなとこに突っ立ってねえで酌しろ、酌」
どこまでも上から目線の男は、が素直に言う事を聞くまでは折れないらしい。とうとう諦めの境地に達したは、これ以上ないという不機嫌な顔で隣に座った。






 「わかんねえなあ」
用意された酒が全て空になる頃、比古は不思議な表情を浮かべながら首を傾げた。
「何が?」
「お前だよ、お前」
お前呼ばわりされてばかりでは不機嫌にもなるというものだ。は更に眉間に皺を寄せた。
「私がどうしたっていうのよ」
「だってよォ」
酔っているのか、比古の口調は体躯に似合わず幼くなる。

「この超絶美形、完全無欠な俺様に惚れるどころか見向きもしねえ。相当な変わりモンか、相当な大物か・・・・・・何だ、どうした?」
あまりに自信過剰なその言葉に眩暈を覚えたは、そのまま畳に突っ伏していた。


 「・・・・・・あんたのそのありえない自信がどこから来るのか、一度あんたの頭の中見てみたいわ」
腕を掴まれて起こされたは、心底呆れ果ててそうこぼした。
「俺の方こそ、お前の頭ん中見てみてえよ」
比古は薄く笑みを浮かべると、その腕をぐいっと引っ張った。勢いあまって比古の胸元に倒れ込みそうになるのを、すんでのところで持ちこたえる。

「この俺様がわざわざ会いに来てやってんだ。そろそろこっちの本気もわかってもらわねえと、俺もいつまでも大人しく待ってらんねえぞ」
面に笑みは敷いているがその眼光は鋭い。普段はさらりと流す軽い言葉が今はやけに重く聞こえ、不覚にもの心拍数が上昇した。
「それにせっかくの二人っきりだしな・・・・・・」
あえて先を口にしないいかにも思わせぶりな態度に惑わされつつ、
「ッ、バ、馬鹿な事言わないでよね!」
それでも精一杯の矜持では男の腕を振り解いた。その様子が小動物のようで、比古はとうとう堪えきれずに声をあげて笑い出した。



「―――しかしそれにしても、お前の親御さん遅いな」
ひとしきり笑った後、いつもの調子に戻った比古は閉め切った障子の方を見遣った。確かにあれからだいぶ長い時間が経つが、二人はまだ戻ってこない。
「まさかとは思うけど、そのまま宴会になっちゃってるんじゃ・・・・・・」
言いながら、は自分の予想が強ち外れていない気がしていた。確か以前にも似たような事が数度あったからだ。おまけにそうなった場合、二人の帰宅が翌朝になる事はそれまでの経験から明白だった。
「信じらんない・・・・・・娘をたったひとりこんな男の傍に置き去りにするなんて」
半ば絶望的な面持ちで、は今頃暢気に宴会に興じている両親を恨んだ。
「こんな男たァ随分な言い草だな、オイ」
「人の家で遠慮会釈なく食事したりお風呂入ったりする人間が何言ってんのよ」
「お前の親父さんがいいっつったんだからいいじゃねえかよ」
何が悪いのだと言わんばかりの態度に、はもう溜息をつくしか出来なかった。
「て事は、この状況じゃ暫く邪魔は入らねえってこったな。いい機会だし、じっくり俺様の魅力って奴をわからせてやるから覚悟しろよ」
比古は再びの腕を取った。ぎょっとして振り向くと、男は今まで見た事のない雄の表情でこちらを睨んでいる。は自分が、まるで逃げ場のない袋小路に追い詰められたような気がした。







「さっきはやり損ねたからな・・・・・・ひとつ所に男と女、そうくりゃするこたひとつだろ」
言いながら比古は、己の袷に手をかけようとしている。








「このド変態!!さっさと山に帰れ―――――!!!」






―――――街一番の酒屋では、今日も元気な声が昼夜問わず響き渡っている。











※隔靴掻痒(かっかそうよう)…思うようにならず、もどかしい事。核心に触れず、歯痒い事。
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