恋と戦争においては、あらゆる戦術が許される
牛鍋が広まったのは、明治三年ごろだと言う。味噌、葱、豆腐などを肉に加え、山椒を少々かける、外国文化と日本文化が融合した最初の例だ。かつては高級料理であったが、今では身近なものになった。何しろ、門下生たった一人の貧乏道場の主ですら食えるほどなのだ。本当に、貧乏道場の主とヒモと無職の分際でどこから牛鍋代を捻出しているのか、斎藤には謎である。しかも、どうやら常連のようなのだ。隠し財産でもあるのかと疑いたくなる。
神谷家の財政など斎藤が気にすることではないのだろうが、隣の席で牛鍋を突かれていては気にしないわけにはいかない。しかも、大人しく自分の席に収まっていればいいものを、こちらの席にまで干渉してくるのだ。お前らはそんなものを食える立場なのかと、泣くまで追求したい。
「それにしても、斎藤にこんな美人の知り合いがいたとは意外でござるな」
こういうことには疎いように見せかけて、剣心は興味津々のようだ。京都にいた時に美人は飽きるほど見てきただろうに、何がそんなに珍しいのかと思う。
「この顔、どこかで見たことがあるんだよなあ………」
子供だけあって、を見る弥彦の視線は不躾だ。神谷道場では年長者への礼儀というものを教えていないのだろうか。まあ、日頃の弥彦の態度から察するに、教えてはいないのだろう。
それにしても、見たことがある顔だなんて、弥彦は美人絵葉書を知っているのだろうか。今からそんなものに興味を持つなんて、今時の子供は進んでいる。
「何だよ、お前も知り合いか?」
「う〜ん………」
左之助の問われ、弥彦はますますを凝視する。
が美人絵葉書の常連だと知られたら厄介だ。絶対に思い出すなと、斎藤は全力で念を送ってみる。
が、肝心なところに念を送るのを忘れていた。
「美人絵葉書で見たんじゃないかしら。私、結構出てるのよ」
黙っていればいいものを、が種明かししてしまった。どうしてこの女は、こうもいらぬことを言うのか。斎藤の立場というものを察してもらいたい。
案の定、場の空気が固まってしまった。そこいらの美人ではなく、美人絵葉書に出るほどの美人が斎藤の知り合いとなれば、剣心たちにもいろいろと思うところがあるのだろう。知ろうとも思わないし、知りたくもないが。
「あ、お肉が煮えたみたい。さあ、斎藤さん食べて」
空気も流れも読まぬとばかりに、は早速斎藤の更に肉や野菜を取り分ける。美人絵葉書の女にこんなことをしてもらえるなんて、人も羨む果報者なのだろうが、この状況下では非常に困る。
「斎藤がこんな美人と知り合いなんてなぁ………」
呆然としていた左之助が溜め息をついた。憎まれ口の一つでも叩くかと思っていたが、そんなことも思いつかないほど心が折れているのかもしれない。斎藤が美人に料理を取り分けてもらったくらいで折れるなんて、左之助は意外と軟弱な心の持ち主のようだ。
「たまにはお肉もいいわね。斎藤さんもこういう精のつくものを食べなきゃ」
「余計な世話だ」
はしゃぐに、斎藤はむっつりとして応える。精を付けたところで、どうせ片っ端からに吸い取られてしまうのだ。
美人と食事をしているというのに、こんなにむっつりとしているのは、傍から見れば感じの悪いことこの上ないだろう。そんな態度が許されるのは、水が滴りまくって全身びしょびしょの色男くらいなものだ。斎藤がやっては、ただの勘違い男である。
だが、勘違い男でも何でも、相手にでれでれできるわけがない。ではない美人が相手であっても、剣心たちが隣にいるのにでれでれなんかできるものか。
「こんな男のどこがいいのかねぇ」
目の前で繰り広げられている光景が、左之助にはまだ受け入れられないものらしい。阿呆な男だとは思っていたが、自分の目で見ていることすら受け入れられないとは、筋金入りの阿呆だ。
「こっち見るな」
こうなったら、さっさと食って帰るしかない。隣の席の存在は一先ず忘れることにして、斎藤は牛鍋に集中することにした。
無言で食べる斎藤の様子を、全員が見ている。そんなに斎藤が物を食う姿が珍しいのか。
「何だ?」
斎藤は一同を睨み付ける。
「みんな斎藤さんに見惚れてるのね」
「それはない」
楽しそうなの言葉を、剣心たちが全力で否定した。彼ららしい失礼な反応だが、肯定されるのもそれはそれで気色悪いので、斎藤は黙っている。
「この人のいいところを探そうと思ったんだけど、見つからない………」
薫の反応が何気に一番失礼だ。まあ、狸娘なんぞに見付けてもらおうなどとは思わないが。
この発言に、は大層驚いた顔をして、
「分からない人もいるのねぇ。こんなに素敵なのに」
そんなに驚くほどのことではあるまいと思うのだが、にとっては斎藤の良さが分からないというのは驚愕すべきことなのだろう。何故そう思うのか、斎藤が知りたい。
ぽかんとしている一同を見回し、は楽しそうにふふっと笑う。
「斎藤さん、こんなだけど、私の写真を大事に持ち歩いてくれる可愛いところもあるのよ」
「おいっ!」
これには斎藤も大きな声を上げてしまった。
左之助のような若造ならともかく、斎藤のようないい歳をした男が美人絵葉書を持ち歩いているなんて、墓場まで持って行きたい恥ずかしい秘密だ。それをわざわざ剣心たちに暴露するなんて、は斎藤を陥れるために差し向けられた女なのではないかと疑いたくなる。
斎藤に怒鳴られても、は全く堪えていないようにうっとりして、
「斎藤さんみたいな人と相思相愛なんて、幸せよねぇ」
「………………」
は自分の世界に入り込んでいるから気付いていないようだが、剣心たちは完全に引いている。斎藤など、引くどころか逃亡したいくらいだ。
誰と誰が相思相愛なのか突っ込みたいところだが、それをやったら非難の集中砲火になるのは目に見えている。美人に相思相愛といわれて否定するのは、それに見合う美男にしか許されないのだ。理不尽なことだが、人は見た目で有利にも不利にもなる。斎藤とでは、圧倒的に斎藤が不利だ。
いっそのこと、相思相愛ということにしてを大人しくさせるか。しかしあの性格では、調子に乗ってますますすき放題やりそうな気がする。
どうにも動きが取れずに斎藤が沈黙していると、左之助がこそっと耳打ちした。
「お前、本当にいくら払ったんだよ?」
「金でどうにかなる女なら、金を払って黙らせてる」
本当に、左之助の言う通りだったらどんなに良かったか。左之助も理不尽な気持ちで一杯だろうが、それは斎藤も同じである。
「こんな美人と相思相愛なんて、羨ましいでござるよ」
「剣心っ!」
剣心の能天気な言葉に、薫が目を吊り上げた。美人だろうが狸娘だろうが、女というのは面倒臭いものである。
同じ面倒臭いなら、美人が相手な分、斎藤の方が幸せなのだろうか。無駄な行動力と、決して折れない鋼の精神と、空気を読まないお喋りさえなければ、斎藤ももう少し好意的になれるのだが。の見た目だけなら、斎藤の好みなのだ。
「羨ましいですって。照れちゃうわね、斎藤さん」
はどこまでも調子に乗っている。自分で散々勝手なことを喋っておいて、何が“照れる”だ。
前触れもなく職場にやって来たり、わざわざ剣心たちの隣の席に陣取って誤解を招くことを言ったり、着々と既成事実を積み重ねられているようだ。しかも不思議なことに、誰もが斎藤よりの言うことを信用しているのである。斎藤が美人に好かれるのは理不尽だと思っているくせに、これはどういうことなのか。
何だかもう、本当にと付き合ってしまう以外に道はないような気がしてきた。それ以外の選択をしようものなら、此処でも職場でも斎藤の人格を全否定されかねない。剣心たちに人格を否定されるのは痛くも痒くもないが、職場では非常に困る。何しろ斎藤は、信用第一の警察官なのだ。相手は芸者とはいえ、女を弄んで捨てたとなったら(事実はどうであれ、必ずそういう流れになる)、査定に響く可能性だってある。
恋については女は常に玄人だというけれど、これはもう斎藤が太刀打ちできる相手ではない。これだけ熱烈に想ってくれているのだからと諦めるか。しかし相手は象のように強引な女である。こんなのと付き合ったが最後、死ぬまで振り回されて引きずり回されるに決まっている。否、振り回されて引きずり回されて死んでしまうというのが正確か。どちらにしても最悪だ。
「何か顔色が悪いけど、どうしたんだ?」
弥彦に怪訝そうに突っ込まれたが、これからのことを考えれば顔色も悪くなろうというものである。美人から逃げたいなんて贅沢な悩みかもしれないけれど、今の状況からは逃げ出したいと斎藤は本気で思った。
いつでも何処でも主人公さんペースになってしまってます。ここまで強引に自分のペースに持っていくとは、主人公さんはまさに象系彼女(笑)。流石の狼さんも、象さんには勝てないよなあ……。
そして左之助、気持ちは分かるけど、そろそろお金を払ってないことを認めてあげて(笑)。