もっとも驚くべき記憶力は、恋する女の記憶力である
藤田警部補が玄人風のとんでもない美人と付き合っているらしい、と署内で噂になっているらしい。部下からその噂を聞いた時、斎藤は頭が痛くなった。斎藤がと歩いているところを見た者がいるのだそうだ。いつ見られたのかは分からないが、具合の悪いところを見られたものである。お陰で、誰かと話す度にこのことを訊かれるのだから、困ったものだ。
「―――――というわけで、あまり俺に構うな」
「あら、どうして?」
斎藤が事情を説明するが、は何が悪いのか解らないらしい。
密偵という仕事柄、署内では極力目立たないようにやってきたというのに、女のことなんかで注目を浴びては困るのだ。しかも玄人が相手というのがまずい。そんな女と何処で知り合ったのかと、絶対怪しまれている。
それも説明したのだが、はますます意味が解らないという顔をする。
「どうして? 私が誰を好きになろうと、私の勝手じゃない。言いたい人には言わせておけばいいのよ」
実にらしい意見である。 はの道を突き進んでいけばいい。ただ、斎藤を巻き込むのはやめてもらいたい。
「目立つのは困るんだ」
「斎藤さんが目立つのは、私のせいじゃないわ。いい男は、何をしても注目を浴びるものよ」
冗談なのか本気なのか、はそういってくすくす笑う。
何をしても注目を浴びるいい男というのは、斎藤のかつての上司のような何をやっても絵になる伊達男ではあるまいか。斎藤とは少し方向性が違う。
「お世辞を言っても何も出ないぞ」
「お世辞じゃないわ。だって、刀を振るう斎藤さんの姿、役者なんかよりもずっと素敵だったもの」
「………何を言ってるんだ、お前?」
斎藤は顔を強張らせた。
の前で刀を抜いたことは一度も無い。だが、この口ぶりでは、斎藤が刀を抜いたところを見たことがあるようではないか。
やはりあの夜が初対面ではなかったのだ。あの状況で一目惚れだなんて、おかしすぎるとは思っていた。
となると、初めて会ったのはいつなのか。“刀を振るう姿”などと言うくらいだから、穏やかな状況下ではあるまい。
初対面のような顔で近付いてきたり、果ては斎藤の家に上がり込んだり、やはりこの女は誰かの差し金か。狙われるのは身に覚えがありすぎて、誰の差し金かなんて見当もつかない。
「どうしたの? そんなに怖い顔して」
自分の失言に気付いていないのか、は相変わらずにこにこしている。
「いつ見た?」
斎藤の口調が尋問のようになる。そこで初めて、の表情が曇った。
「まだ思い出さないの?」
意外にも、詰るような声だ。この様子では誰かの差し金ではないようである。
そうなると、ますます訳が分からなくなってきた。自身が何かの目的を持って斎藤に近付いたということになるのだが、一体何が目的なのか。斎藤に斬られた誰かの縁者か。だがそれにしては、さっきの言葉は好意的だった。あれが演技だとしたら、大した役者である。
「何処で誰を斬ったかなんて、いちいち覚えていられないんでね」
やられた方はたまったものではないだろう、とは思う。しかし、いちいち覚えていては、斎藤の頭と身がもたない。
「私はずっと忘れたことなかったのに」
まあ、やられた側としては当然の台詞である。当然の台詞なのだが、何かがおかしい。
縁者の敵討ちで近付いてきたのだと推理していたが、の声からは恨みや憎しみといった感情が伝わってこないのだ。その割にはしつこく覚えているようであるし、ますます斎藤には分からなくなってきた。
「そりゃあ、あんな戦争だったから、斎藤さんも助けた相手なんていちいち覚えてられないだろうけど………。でも、一宿一飯の恩を忘れるなんて、ひどいじゃない」
「えっ?」
ますます話が見えなくなってきた。敵討ちのために近付いたのだとばかり思っていたら、どうやら逆のようである。
“あんな戦争”というのは、西南の役のことだろうか。しかしの顔立ちは、南の人間のものではないような気がする。となると、斎藤が参加した戦争は幕末の―――――
「………あ」
思い出した。
会津戦争の頃、官軍の兵に乱暴されかけていた美人を助けたことがあった。美人は武家の娘で、助けてくれた礼にと、部下も一緒に暫く家に泊めてくれたのだ。宿を提供してもらった記憶は、あの美人の家しかない。
しかし、あの美人との年齢は合わない。美人は当時、斎藤より幾つか年上だったはずである。そうなると、あの美人の妹か。あの家には、もう一人美人の娘がいた。美人姉妹の世話を受けて、斎藤も部下も大いに士気が上がったのを覚えている。
「さんの娘か………。しかし、随分と印象が変わった気がするが………。というかお前、俺とそんなに変わらん歳だったのか」
も文句なしの美人なのだが、記憶の中の美人とはかなり違う気がする。
はむっとして、
「それ、姉様! 私のことは覚えてないの?」
「あそこの娘は二人じゃ………」
「三人! どうして覚えてないのよ!」
は今までにないくらい激怒している。三姉妹なのに一人だけ忘れ去られているのだから、そりゃあ怒るだろう。
しかし、どうやっても三人目の娘の記憶が無いのだ。本当に三人目の娘なんていたのかとさえ思うほどだ。
記憶の糸を必死に手繰り寄せている斎藤の様子に、はとうとう堪えきれなくなったか持っていた巾着袋で殴りつけた。
「どうして私のことだけ覚えてないの? あんなに一緒にいたのに!」
「そう言われても………」
覚えていないのは斎藤が一方的に悪いのだから、殴られても弱腰になってしまう。
こんな剣幕でが怒るということは、家の三人目の娘は本当にいたのだろう。しかも、よく一緒にいたようである。短い間とはいえ、面倒を見てくれた恩人を忘れるほど斎藤は恩知らずな人間ではないつもりだったが、何だか自信がなくなってきた。
「もういい! 斎藤さんが思い出すまで会わないから!」
はそう金切り声を上げると、早足で立ち去った。
自分に構うなと、斎藤の方から言い出したはずなのに、別れ際にはの方から会いたくないと言われることになってしまった。は、会わないことが斎藤への罰になると思っているようだが、彼が初心を貫徹したら願ったり叶ったりの話になってしまう。はやっぱり斎藤の話を聞いていないようだ。
本人が会いたくないと言うのなら、こちらからも会いに行く必要はないだろう。そうしているうちに噂も沈静化するだろうし、丁度良かった。
とは思うものの、斎藤が恩知らずのままというのは気分が悪い。と会う会わないは別にして、何が何でも思い出さなくてはなるまい。
しかし、事情を知るかつての部下たちもおらず、手がかりになるものが何一つ無いとなっては、何かの拍子に思い出すことを祈るしかない。運が良ければ思い出すこともあるだろうが、多分無理だろう。
これでとの縁が切れてしまうとしても、それもまた運命である。生の絵葉書美人を嫌というほど(本当に嫌と言うほどだ)堪能できたのだから、悔いは無い。
そういうわけで、久々に戻った静かな生活である。静か過ぎて、何だか怖いくらいだ。
「そういえば藤田さん、噂の美人とはうまくいってるんですか?」
職員食堂で蕎麦を啜っていると、相席の同僚がにやにやしながら話しかけてきた。
と会わなくなっても、まだこの噂は続いていたらしい。まったく、うんざりする。
斎藤は眉間に深い皺を寄せて、
「何の話だ?」
「すごい美人だって話じゃないですか。いいなあ。友達でもいいから紹介してくださいよ」
どいつもこいつも同じことを言う。美人の友達は美人という思い込みで言っているのだろうが、斎藤はの友達など知らない。
そもそも、とはもう会ってはいないのだ。仮にの友達を知っていたとしても、目の前の男に紹介してやることなどできない。
「何が紹介だ。阿呆か。俺は美人なんぞ知らん」
「お姉さんか妹さんでもいいですよ。どういう男が好みなんですかねぇ。一寸訊いてきてくださいよ」
同僚は斎藤の話など聞いていないようだ。調子の悪いことは聞こえない、便利な耳の持ち主らしい。ついでに、斎藤の不機嫌面も見えない便利な目も持っているようだ。
「何で俺に言うんだ。他を当たれ」
そう言った後、斎藤は随分前にも同じような会話をしたような気がした。美人を紹介して欲しいなんて言われるのはしょっちゅうだが、何かが違う。あれは―――――
―――――なあ、あの二人、どんな男が好みなんだ?
―――――どうしてそんなことを訊くの? 本人に訊けばいいじゃない
「あ………」
あれは、家にいた子供とした会話だ。何故か斎藤に懐いていたから訊いてみたら、子供は不機嫌そうにそう答えた。
あの子供が、だったのか。当時は年頃の二人の娘にしか興味がなかったから、子供のことは気にも留めていなかった。どんな顔だったのか、今でも思い出せないくらいなのだ。美人は二人姉妹だと思い込んでいたくらいだから、当時はと上の二人が姉妹であることも知らなかったのかもしれない。
「あ〜………」
同僚の前にもかかわらず、斎藤は頭を抱えた。
若かったとはいえ、みっともない姿を晒したものである。に訊いていた時の斎藤の顔は、同僚のようににやにやと阿呆面をしていたに違いない。はきっとその時のことも覚えているだろう。
できることなら、当時の自分を殴ってやりたい。そして、遠い未来の貴様が困ることになるのだから、その子供を遠ざけろと忠告してやりたい。
「どうしたんですか?」
自己嫌悪の塊になっている斎藤に、同僚は怪訝そうに訊ねた。
あんなことを思い出した後では、ますますに会いたくない。このまま思い出さなかったことにして、一生避けたいところだ。
が、会いたくないと思う相手にこそ、ばったりと出くわすものだ。行動範囲には細心の注意を払っていたにも拘らず、斎藤もに出くわしてしまった。しかも悪いことは重なるもので、斎藤は同僚と警邏中、そしてはこれから仕事なのか芸者姿である。
「あら、藤田さん」
思い出すまでは会わないと言っていたのだから無視してくれればいいものを、が声をかけてきた。制服姿だから“藤田さん”と呼んだのは、一応気を遣ってくれたらしい。
「あのこと、思い出してくれたかしら?」
「思い出してない」
動揺のあまり、不自然なくらい早く答えてしまった。その様子を見て、はにやりと笑う。
「思い出してくれたみたいね。よかったわ。じゃ、急ぐからこれで」
は同僚に会釈すると、早足で立ち去っていった。
あの様子では、は絶対あの時のことを覚えている。ただでさえ厄介な女なのに、斎藤の恥ずかしい過去を知っているなんて、ますます厄介なことになったものだ。
そして厄介なことは大抵、まとめてやってくる。
「ねえねえ、藤田さん。さっきの芸者って、美人絵葉書の芸者でしょう? 噂の美人って、あれですか?」
興味津々の顔で、同僚は斎藤に迫ってくる。こいつも美人絵葉書には詳しいらしい。あんなのに詳しいなんて、随分と寂しい生活を送っているようだ。
噂の美人が美人絵葉書になるほどの女となったら、ますます面白おかしく話題にされることになるだろう。まったくは疫病神としか思えない。
「いいなあ。俺にも美人を紹介してくださいよ」
へらへらとみっともない同僚の顔を見ていると、あの時の斎藤もこんな顔をしていたのかとげんなりする。いくら子供だったとはいえ、こんな顔を見せられたらも不機嫌になるだろう。
「紹介できるほど親しいわけじゃない」
男という生き物は、美人を目の前にすると阿呆に成り下がるものらしい。斎藤は苦虫を噛み潰したような顔で吐き捨てた。
主人公さんと斎藤は、大昔に一度会っていたようです。それはいいんだけど、自分の恥ずかしい過去を知られているのはなあ……(笑)。
自分でも忘れていたことを主人公さんに思い出させられて、布団でゴロゴロ転がりまくってそうです、斎藤。