美女ははるか昔から、少し愚かでもよいという特権を持っている
家を知られて以来、近所でよくに会うようになった。偶然を装っているが、待ち伏せしているに違いない。が何故そこまで斎藤に付き纏っているのか、未だ謎のままだが。斎藤を慕っているのだと本人は言うけれど、みたいな女に慕われる謂れは無い。一目惚れというものを斎藤は信じてはいないし、仮にあったとしても、それは役者のような誰もが認める美男限定のものだと思っている。要するに、斎藤には無縁のものだ。
「あら、斎藤さんにだって一目惚れされる権利くらいあるでしょ。美男美女しか一目惚れされないなんて、夢が無いじゃないの」
慰められているのか馬鹿にされているのか、よく分からない言い草だ。前半だけで黙っていられないのが、らしい。
夢があるとか無いとか、そういうことはどうでもいい。仮にの一目惚れが本当だとして、あの状況で一目惚れなんてできるのだろうか。介抱されたのをきっかけに恋が生まれることもあるだろうが、介抱は介抱でも酔い潰れて嘔吐の介抱である。あんなみっともない姿を見られたら、並の神経なら相手には二度と会いたくないだろう。
ますます疑惑を深める斎藤の表情など気にならないのか、は楽しそうに話題を変えた。
「私、あれから料理の練習を始めたの。今度、斎藤さんの大好きな掛け蕎麦を作ってあげる」
「………………」
確かに掛け蕎麦は好きだが、が作ったものとなると食える代物なのかと不安になる。包丁を使わない手軽な料理ではあるけれど、簡単なだけに誤魔化しが利きにくいのだ。汁がまずかったり、蕎麦がのびてたりしていては、食えたものではない。
「料亭の板さんに習ったのよ。屋台のなんかより美味しいんだから」
は得意げに言うけれど、これほど不安になる言葉はない。本職の料理人から習ったといっても、弟子入りして一から仕込まれたわけではなく、作り方を習っただけだろう。が習った通りに作れるかとなったら、無理だろうと斎藤は思う。
「………気持ちだけ受け取っておく」
「遠慮なんかしなくてもいいのよ」
遠慮なんかではなく本心から言っているのだが、は可笑しそうに笑う。斎藤に掛け蕎麦を作ってやるのは、決定事項らしい。
どうしては余計なことにこんなに張り切るのだろう。暇なのだろうか。芸者というのは、日中は稽古に励んでいるものだと思っていたのだが。
「遠慮なんかしていない。お前も昼間は忙しいだろう」
「斎藤さんのためなら、時間なんていくらでも作れるわ」
「〜〜〜〜〜〜」
こんな美人に言われたら男冥利に尽きるというものであるが、に言われると厄介な気分になるから不思議だ。
「板さんにも美味しいって太鼓判押されたんだから、楽しみにしててね」
斎藤の不安を増大させることを言って、はふふっと笑った。
そして休日、は大荷物を抱えて斎藤の家にやってきた。掛け蕎麦を作ると言っていたはずだが、とてもそうは見えない荷物だ。まさか、蕎麦打ちから始めるつもりなのだろうか。
「………掛け蕎麦を作るんだよな?」
念のため、斎藤は確認してみる。のことだから、気が変わって別のものを作ることにしたということもありそうだ。
は荷物を広げながら笑顔で、
「勿論よ。まだ掛け蕎麦しか作れないもの」
そんなことは自慢にならないと思うのだが、は大威張りだ。
だが、広げられた荷物を見て、“掛け蕎麦を作る”どころではないことに気づいた。
が持ってきたのは、汁が入った瓶と蕎麦、そして鍋と、何故か砂時計だったのだ。汁を温め、茹でた蕎麦を入れれば、掛け蕎麦の完成というわけだ。これを料理と言っていいのだろうか。
まあ、の手が加わる部分が少なければ、安心ではある。汁も、おそらく板前が作ったものだろう。
「鍋なんか家にもあったのに」
が持ってきたのは、重そうな大鍋だ。斎藤の家には鍋が無いと思ったのだろうが、独り身の男の家にも鍋くらいはある。しかも新品同様だ。
は鍋に水を張りながら、
「違う鍋だと水の量が分からなくなるじゃない」
あまりにも当たり前のように言うから、一瞬何を言っているのか理解できなかった。鍋の大きさが変わると、どれくらい水を入れるのが適量なのか分からなくなるということなのだろう。水面の位置で適量を覚えているらしい。
水を入れた後、が言う。
「斎藤さん、火を点けて」
どうやら竈に火を入れろということらしい。料理は習っても、火の点け方は習わなかったようだ。板前がに火を扱わせるのは危険だと判断したのか。賢明な判断だと斎藤も思う。
それにしても、竈に火も入れられないのに、料理ができるつもりでいたことには驚いた。だが、火の扱いを斎藤が監視することができれば、うっかり鍋や家を焦がすことは無いだろう。
斎藤が火を入れてやると、は竈に鍋をかけた。
「沸騰したら蕎麦を入れて、砂時計が空になるまで茹でるのよ」
「なるほど」
だから砂時計なのかと、斎藤は納得した。の感覚に頼るよりは、こういう明確なものに頼る方が安心だ。板前も教えているうちに、この方法に至ったのだろう。教える側の苦労が偲ばれる。
「これと同時進行でお汁を温めて―――――あ、こっちは沸騰させちゃ駄目なの」
の口調は斎藤に料理を教えているようだ。この作業を“料理”を呼べればだが。
こんな子供以下の作業でも、は料理気分で楽しそうである。ままごとの延長なのだろう。
「すぐにできるから、楽しみにしててね」
まるで女房のようなことを言うと、は鼻歌を歌い始めた。
出来上がった蕎麦は、見た目はまともである。
「さあ、食べて食べて」
「ああ」
に自信満々に勧められて、斎藤は早速箸を取った。
蕎麦は普通に美味い。料亭の板前が作ったものを温めただけのものなのだから、美味いに決まっている。
「どう?」
は期待に目を輝かせて、身を乗り出さんばかりに尋ねる。
「ああ、美味い」
「よかったぁ。また作ってあげる。他の料理も練習しなきゃ」
は子供のように大喜びした。まるで自分の手柄のように言っているが、料亭の板前の手柄である。
しかし、こんなことで喜ぶなんて、可愛いといえば可愛いのかもしれない。破天荒ではあるが、こういうところは普通の女と同じようだ。
「料理より、火の扱いを覚えるのが先だろう」
百歩譲って、できているものを温めるだけの行為を料理だというにしても、火を使えないのでは一人では何もできない。斎藤がずっと火の番をしてやらなくてはならないのだ。
深刻な問題だとは思うのだが、は何とも思っていないようだ。それどころか楽しそうに、
「火の扱いは斎藤さんに任せるわ。そしたら、料理している間も斎藤さんと一緒にいられるじゃない」
「お前なぁ………」
の言葉に、斎藤は呆れて言葉も出ない。可愛いことを言っているのかもしれないが、何とも微妙な発言だ。
“作ってあげる”と言いながら、これでは斎藤も一緒に作っているも同然である。まさかと共同作業をすることになるとは思わなかった。
「斎藤さんとの共同作業ね。夫婦みたい」
調子のいいことを言うものである。“夫婦みたい”とは、の行動力が加速しそうな言葉だ。まあごとのような料理なのだから、“夫婦みたい”もままごとの範囲で済めばいいのだが。
温めるだけの料理しかできないなら、掛け蕎麦の他は作ることはないだろう。怪しいものを作る心配は無いし、斎藤が監視していれば火を出す危険も無い。身の危険が無ければ、のままごとに付き合ってやるか。美味い蕎麦を食えるし、どうせすぐに飽きるだろう。
「料亭の味で食えるなら、何だっていいさ」
独り言のように言うと、斎藤は蕎麦を啜った。
主人公さんの手料理です。いや、これを“手料理”と呼んでいいものか悩ましいところですが……。これって、インスタントラーメンを作ってあげた程度のことですよね。火を使えない分、インスタントラーメン以下か(笑)。
しかし味は良かったようで、斎藤は満足な様子。美人は得だな(笑)。