たのむし かんにんしてくれ。

 一人暮らしの食生活は、手間や光熱費を考えると外食の方が経済的な場合がある。斎藤のように家に帰らないということもある生活だと尚更だ。
 そういうわけで、今日の斎藤の夕食は屋台の蕎麦である。夕食といっても、時間的には夜食に近い。こんな時間に食える店といったら、酔客相手の屋台くらいなものだ。
「あら、斎……藤田さんじゃないの」
 いつものように掛け蕎麦を啜っている斎藤の背後で、嫌というほど聞き覚えのある女の声がした。
 やっと仕事から解放されて一息ついたというのに、仕事より疲れる相手に見つかってしまうとは。ここで振り返って相手をしたら、明日の仕事に響く。
 ここは無視してやり過ごすのが一番だ。斎藤は女の声など聞こえない振りをして、無言で蕎麦を啜り続ける。
「斎藤さんってば」
 女は馴れ馴れしく斎藤の肩に手を置いた。
「どなたかとお間違えでは?」
 意地でも目を合わせるものかと、斎藤は視線を丼に集中させて、藤田五郎仕様で応える。ここをやり過ごせば、これ以上この女に絡まれることは無いはずだ。
 が、こんなにも全力で避けているのに、は当たり前のように斎藤の隣に座って、
「仕事が終わったら、制服でも“斎藤さん”って呼んでもいいのかしら?」
「そういうわけじゃない」
 ついうっかり応えてしまい、斎藤は後悔した。目を合わさなくても、がいるというだけで調子が狂う。
 斎藤は忌々しげに舌打ちをして、
「座敷はどうした。この業界ではまだ宵の口だろう」
 今日のは芸者の姿をしている。一件終わったとしても、この時間ならまだ座敷に上がることもあるだろう。
「今日はもう終わりよ。
 私も掛け蕎麦をいただこうかしら」
 は屋台の主人に注文すると、身体ごと斎藤の方を向く。
「こんな時間に夕飯? 遅くまで大変ね」
「いつものことだ」
 斎藤はぶっきらぼうに応じる。もう無視するのは諦めた。
「いつも外で食べてるの?」
「家で作っても、どうせ材料を腐らせるだけだしな」
「ふーん………」
 は考えるような顔をしながら、主人から丼を受け取る。そして、素晴らしいことを思いついたような弾んだ声で、
「それなら休みの日にお家に差し入れを持っていってあげる」
 のとんでもない申し出に、斎藤は危うく口の中の蕎麦を吐き出しそうになってしまった。
 お家に、というのは斎藤の家のことだろう。どうしてそんなことになるのか。
 写真で眺めるだけだった絵葉書の女が自分の隣で蕎麦を食っているというのも考えてみれば凄いことだが、家に差し入れを持ってくるなんて少し前には想像もしなかったことだ。あの夜以来、斎藤の日常に非日常が強引に割り込んできている。
 美人が家に差し入れを持ってきてくれるなんて、独り身の男なら誰しも妄想することだ。それが現実になるというのに、斎藤の心は重い。
「いや、いい」
 家を知られたら、休みの度に押しかけられそうな気がする。貴重な休日が、休日にならないではないか。
「だって、警察署に持っていくわけにもいかないでしょ? 掛け蕎麦ばかりじゃ身体に悪いわ」
「蕎麦以外のものも食っている」
「まあいいじゃない。たまには家で食べるのもいいものよ」
「何がいいんだ」
「たまの休みくらい、家でのんびりしたいじゃない」
「お前がいると、のんびりできるものもできなくなる」
「気を遣わなくったっていいのよ」
 こんなに断っているというのに、は何が何でもごり押ししてくる。何がそこまで彼女を駆り立てているのか。
 前から気になっていたけれど、どうしてはこんなにも斎藤に絡んでくるのか。斎藤は上客でもないし、見返りを期待できるような金持ちでもない。外見だって、本人の好みもあるだろうが、絵葉書になるような女に惚れられるほど大層なものではないと斎藤は思う。
 やはり何かを探ろうと、斎藤に付きまとっているのだろうか。しかし今は、これといって重大な事件は担当していない。過去の事件となると数が多すぎて、何の関係者なのか見当もつかない。
「随分と熱心だが、何が目的だ? 何を探っている?」
「探ることなんて何も無いわ」
 斎藤の鋭い眼光をさらりと受け流し、は涼しい顔で応える。
「それなら何故そんなに俺に構う?」
「有名人だから……かしらねぇ」
 冗談めかして応えると、はくすくす笑う。
 有名人だからというのは尤もらしく聞こえるが、嘘なのは見え見えだ。有名人など、くらいの芸者であれば珍しいものではないはずである。それに有名人といっても、斎藤はもう“過去の人”だ。が絡みたがる理由にならない。
 やはり何かを探ろうとしているのか。だがその割には、仕事に関する話題には全く触れてこない。それなら私生活を探って弱みを握ろうとしているのか。しかし―――――
 考えれば考えるほど、の狙いが分からない。ここは一つ、の作戦に乗った振りをしてみるか。何を狙っているにしても、必ず尻尾は出すはずだ。
「わかった。それなら次の休みにでも―――――」
「ほんと?! 美味しいもの用意するから、期待してね!」
 斎藤の言葉に、は小娘のように大喜びした。





 そして当日、は朝からやって来た。夜の仕事の割に早起きな女である。
「お休みだからまだ寝てるかと思ってたけど、案外早起きなのね。せっかく寝起きの顔を見られると思って早起きしたのに」
 玄関で出迎えた斎藤の顔を見て、は少し残念そうに言った。
「それはこっちの台詞だ」
 が来るのはどうせ昼からだろうと思って、遅くまで寝ているつもりだったのだが、いつも通りの時間に起きておいて良かった。虫の知らせというやつだったのだろう。
「うーん。寝起きの顔は一寸ねぇ。まだそこまでの仲でもないし〜」
「何でそう解釈する」
 くねくねと芝居じみた動作付きで恥らうの言葉を、斎藤はぴしゃりと撥ねつける。
 “こっちの台詞だ”はどう考えても“案外早起き”にかかっていると思うのだが、どうしてそっちだと解釈するのか。斎藤が想像していた写真絵葉書の女の寝起き姿なら見てみたいけれど、目の前の女の寝起きの顔なんぞに興味は無い。見てしまったら最後、幻滅するのは確実なのだ。
「そんなこと言って、本当は見たいくせに。寝起きの顔は、今後の斎藤さんの頑張り次第ね」
 斎藤は全く興味を持っていないというのに、はどこまでも上から目線だ。どうしたらそこまで自惚れられるのか。自分の美貌に気付いてしまっている美人というのは性質が悪い。
 いつものことながら、の相手をするのは疲れる。朝っぱらからこんなに疲れていては、一日が終わる頃にはげっそりとやつれてしまいそうだ。
 早くも疲れきってしまっている斎藤とは対照的に、は年甲斐も無くうきうきして、
「こんなところで立ち話も何だから、中に入りましょうよ。今日はいろいろ持ってきたの。斎藤さんの口に合えばいいんだけど」
 そう言って、は大きな風呂敷包みを見せた。中身は重箱のようだが、二人で食べるには大きすぎる。よほど気合を入れて作ったのだろう。
 この量ということは、夕方まで居座るつもりなのか。まだを家に入れる前から、斎藤はげっそりした。





 どうせ仕出し弁当だろうと思っていたら、重箱の中身は素朴な家庭料理だった。が料理ができたとは意外である。
 しかし、問題は味だ。見た目は美味そうに見えても、味はとんでもないということは十分に考えられる。
「さあ、たくさん食べてね」
 は笑顔で自信満々に勧める。
 これだけ自信があるということは味はまともだと信じたいが、相手はである。食べたら最後、とんでもない味がするのではないかと躊躇ってしまう
「遠慮しなくてもいいのよ。あ、もしかして食べさせてほしいの? もう、しょうがないわねぇ。はい、あ〜ん」
 は卵焼きを箸でつまみあげると斎藤の口元に持っていこうとする。
 いい歳をした男を相手に、一体何を考えているのか。がいつも相手にしている酔客なら大喜びなのだろうが、あいにく斎藤は素面だ。仮に酔っていたとしても、そんなこっ恥ずかしい真似ができるものか。
 斎藤は仏頂面で箸を取って、
「自分で食える」
 覚悟を決めて、野菜の煮つけを口に押し込んだ。
 作った人間と同じく、見た目だけのとんでも料理かと思いきや、まともな味だ。まともというか、どちらかというと―――――
「………美味い」
 思わず言葉が出てしまった。
「本当? よかったぁ」
 は小躍りせんばかりに大喜びする。
 がこんなに料理が上手いとは、正直意外だった。今までの印象がひっくり返された思いである。斎藤は少し見直した。
 が、それは一瞬のことだった。
「無理言って頼んだ甲斐があったわ」
「頼んだ?」
 喜んでいるの言葉に、斎藤は怪訝な顔をした。
「通いのおばさんに作ってもらったの。上手いもんでしょ」
 恥ずかしそうにするわけでもなく、は得意げに説明する。
 一寸見直したと思ったら、これだ。まあ、のような女に家庭的なところを期待するほうがおかしい。自分が作ったように小細工しなかっただけでもマシなのだろう。
「お前が作ったんじゃなかったのか」
 自分で思っていた以上に、斎藤はがっかりした声を出してしまった。別にの手料理を期待していたわけではないけれど、微妙な気分である。
 斎藤の雰囲気を察知して、は少し申し訳なさそうに、
「私、家事ってやったこと無いの。家のことはずっと通いのおばさんにやってもらってたし………」
「だろうな」
 の手料理ではなかったからといって、別に斎藤は責めるつもりは無い。変なものを食わされるよりは、見ず知らずの人間が作った美味いものを食う方がいい。
 は芸者なのだから、家事なんかできなくても誰も困らないだろう。むしろ、家事なんかして生活感のある手になってしまう方が、仕事に差し支える。
「だからね、包丁を使わない料理を練習しようと思うの。それなら危なくないでしょ?」
 にとっては名案らしい。声が弾んでいる。
 確かに包丁を使わなければ手を切る心配は無いが、料理は危険だらけの作業なのだ。のことだからきっと、予想外の事故を起こすに決まっている。
「無理はするな。何かあったらどうする」
 火を使って鍋を焦がすならまだしも、家を焦がしでもしたら大変だ。ならそれくらいはやりかねない。
 斎藤は周りの被害を心配しているのだが、は自分のことを心配されていると思ったようだ。嬉しそうに目を輝かせて、
「大丈夫よ。怪我しないように気を付けるから。斎藤さんに食べてもらうためだもの。私、頑張る!」
「本当に無理するなって」
 を労わっているのではなく、本当に本気で心から斎藤は止めようとする。
 料理をしたことが無い女が好きな男のために料理の勉強をするというのは、一般的に見て可愛い行動だとは斎藤も思う。だが、の場合は別だ。この女が張り切ったら、絶対に碌なことにならない。
 が、斎藤の心からの訴えなど右から左に聞き流し、は楽しげに言う。
「斎藤さんって、意外と遠慮深いのね。憧れの美人絵葉書の芸者が手料理をご馳走するって言ってるんだから、素直に喜びなさいって」
「自分で“憧れの”とか言うな」
 いつものことだが、の自己評価は異常に高い。しかも斎藤に熱烈に惚れられていると思い込んでいるのが痛い。あれだけ言葉や態度にして否定しているのに通じないのだ。ひょっとしたら、今までのことは全部“照れ隠し”で流されているのだろうか。
 こうも通じないとなると、もう絶望的だ。こうなったら全てを諦めてを受け入れるしか道は無いのかと、斎藤にしては珍しく弱気になった。
<あとがき>
 斎藤、着々と縄張りに入り込まれています。家まで知られたら、もう逃げ場が無いですね(笑)。
 今回は主人公さんの手料理じゃなかったけれど、次回は手料理を振舞ってもらえるかな? 包丁を使わない料理となると、かなり限られてくるんですが……。
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