湯上り美人
約束どおり、週明けに休みを取ってと会うことにした。さっさと約束を果たしてしまわないと、また職場に乗り込まれたらたまらない。「あら、今日は制服じゃないの?」
会って早々、は少し困ったような顔をした。
「休みの日まで制服なわけがないだろう」
今日の斎藤は着物である。から見れば洒落た格好ではないかもしれないが、どうせ大したところに行くわけではないのだ。あまり張り切った格好をしても、を調子に乗せるだけである。
「あら、わざわざ休みを取ってくれたの? 何だかんだ言って、乗り気だったんじゃない」
は嬉しそうに微笑む。めかし込まなくても、調子に乗るときは乗るものらしい。
休みを取ったのは、別にと会うのに気合が入っていたからではない。昼休みに会うにしても、制服姿でいかにも水商売の女と歩き回るわけにはいかない。
斎藤はむっつりと、
「そういうわけじゃない」
「ふーん、まあいいけど。
本当は制服の方がよかったんだけど、ちょっと付き合ってほしいところがあるの」
「………付き合ってほしいところ?」
何だか嫌な言い方である。制服に拘っているところも、面倒なことに巻き込まれるような予感しかない。
警戒する斎藤に、はふふっと笑って、
「そんな深刻な話じゃないわ。一寸話をしてもらうだけだから」
そう言って連れてこられたのは、銭湯だった。何故銭湯なのか、何故銭湯に行くのに制服の方がよかったのか、斎藤には謎だらけである。
「風呂に入るのか?」
最近は西洋化のお陰で変わった逢引きが増えているとは聞いていたけれど、銭湯というのは初耳だ。男湯と女湯に分かれているのだから、逢引きの意味が無いような気がする。
「入ってもいいけど、用が済んでからよ」
「風呂に入る以外に銭湯に用があるのか?」
「此処のご主人を説得してもらいたいの」
によると、この銭湯では来月から芸者の入浴料を倍に値上げするという話が出ているという。芸者は他の客の三倍の湯を使うからというのが、店主の言い分だ。
勿論、その案に芸者たちが大人しく従うわけが無い。毎日通うお得意さまなのに狙い撃ちで値上げとは何事かとか、男でも湯をたくさん使う客はいるとか、置屋や料亭を巻き込んで猛反発しているのだという。
それならば他の銭湯に行けばいいだろうと斎藤は思うのだが、それでは隣町まで行かなくてはならなくなり、仕度に三倍以上の時間がかかるようになるから大変なのだそうだ。
「なるほどねぇ………」
「だから斎藤さんに説得してもらいたいのよ。女だとどうしても舐められちゃうけど、男の人が話せば違うと思うの」
「俺は便利屋じゃないんだが」
だから制服の方がよかったのかと納得した。しかし、こういう交渉に警官が出るというのは、どんなものだろう。事件ではないのだし、この手のことは町の世話役にでも任せておけばいいことだ。
全く気乗りしない斎藤に、は焦れたように言う。
「斎藤さんにビシッと言ってもらうのが一番話が早いのよ。ほら、行くわよ」
に引きずられるように、斎藤は銭湯に連れ込まれた。
早い時間ではあるが、銭湯には既に客が入っているようだ。そういえば、外の長椅子に座っている湯上りらしい男が数人いた。昼風呂とは羨ましい限りである。
「何度来ても同じだよ。来月からの値上げは決まったことだからね」
の顔を見るなり、主人は鬱陶しげに言う。これまでも何度も交渉に来ていたのだろう。
はむっとして、
「今日は私じゃなくて、この人と話してくださいな。芸者だけ値上げだなんて馬鹿げてるわ」
「湯をたくさん使う人間の料金を上げることの何が馬鹿げてるもんかね。誰と話そうと考えは変わらんよ」
主人の態度はけんもほろろだ。
主人の値上げの意志は固いようだ。湯をたくさん使う客が何人もいれば、その分水も燃料も多くかかるのだから、経営者としては深刻な問題なのだろう。主人の言い分は筋が通っているだけに、斎藤も説得しづらい。
「お湯なんて、土方や人夫だって沢山使うでしょう。何で私たちだけ、ってことですよ」
「男の使う湯の量なんて高が知れてる。それにあんたたちは人数が多いからね。湯を足すのは大変なんだよ」
「それなら私たちは上得意客ってことじゃない。いきなり倍なんて、ぼったくりだわ」
「この人と話して」と言ったくせに、斎藤が口出しする隙が無い。このままに話をさせてもよさそうだ。
と、女湯から客が出てくるのが見えた。なかなかの美人である。きっと芸者なのだろう。
入れ替わるように二人組の美人が入ってきた。どうやら今は芸者が風呂に入りに来る時間帯らしい。美人が来る銭湯とは羨ましい。主人には別室でと話し合ってもらうことにして、斎藤が変わりに番台に座りたいくらいだ。
「何鼻の下伸ばしてるんですか」
女湯に入っていく美女二人を目で追っていると、が斎藤に肘鉄を食らわせた。
「誰が伸ばすか」
一寸美人に目を遣っただけで酷い言いがかりだ。斎藤がと付き合っているのなら、その言い掛かりもありなのかもしれないが、そうではないのだから理不尽な因縁をつけられたような気分である。
「ほら、斎藤さんも何とか言ってくださいな。女湯を覗きに来たわけじゃないんだから」
「誰が覗くか」
おかしな誤解を招くようなことを言わないでもらいたい。第一、女湯の脱衣所は奥まったところにあって、此処からでは覗きたくても壁しか見えないのだ。
このままいても、におかしな因縁をつけられるだけだ。斎藤は少し考えて、
「此処は美人の客が多いんだな」
「斎藤さん!」
くだらない世間話を始めると思ったのだろう。が鋭い声を出す。
別に斎藤は主人と美人談議をするつもりはない。のようにいきなり本題から入っては、主人も態度を硬化させるだけだ。
が、雑談を振ってみても、主人は不機嫌な顔で、
「毎日美人を見られるんだから値上げしなくてもいいだろうって? こっちは商売だからね。美人を見たって一文にもなりゃしないよ」
前に、美人を見放題なんだから、と言われたことがあるのだろう。
まあ、美人も滅多に見られないからありがたいのであって、毎日見ていれば飽きるというものである。それどころか、毎日見ていれば粗も見えて幻滅することもあるだろう。それは斎藤も嫌と言うほど解る。
「いやいや。聞けば、芸者が沢山来るというじゃないか。値上げしたら一斉に他所の銭湯に行って、商売に差し支えると思うが」
斎藤は穏やかに話を進める。
が、主人は取り付くしまもなく、
「そうかもしれないが、うちは男の客も多いからご心配なく」
「その男の客も、美人が来る銭湯だから通っていると思うが。外の長椅子に涼んでる客だって、湯上り美人を待ってるんじゃないか?」
「………………」
斎藤の言葉に、主人は考え込む。
夏ならいざ知らず、まだ肌寒いこの時季に銭湯の前で涼む男なんて、それしか考えられない。きちんと化粧した美人もいいが、湯上りの姿というのも風情があるものだ。しかも、此処でしか見られないのである。これのためだけに通う常連は絶対にいる。
主人が黙ったところで、斎藤は追撃する。
「芸者が来なくなったら、きっと男の客も減るぞ。確かに芸者は湯を沢山使うかもしれないが、その分客寄せに貢献しているのだから、経費と思って大目に見てやってくれないか」
「そうよ。私たちがいるから、男の人が来るのよ」
せっかく斎藤が下手に出て説得しているというのに、斎藤の上から目線の追撃で台無しだ。
一瞬、主人は面白くなさそうな顔をしたが、少し間があって仕方なさそうに言った。
「ま、少し考えてみるよ」
数日後、警邏中にとばったり会った。偶然だと思いたいが、もしかしたら待ち伏せていたのかもしれない。
はいつにも増して上機嫌な様子で駆け寄ってきた。
「斎藤さん!」
「制服の時は“藤田”と呼べ」
斎藤は不機嫌に言う。
「どっちでもいいじゃないの」
「いろいろあるんだ」
“斎藤”も“藤田”も同じ人間なのだから、にとっては同じなのだろうが、名前を変えたのにはそれなりの理由があるのだ。制服の時は“藤田五郎”という警官として生活しているのだから、昔の名前は都合が悪い。
はすぐに納得したように、
「そうよね。私も芸者の時に本名で呼ばれたら困るもの。ごめんなさいね」
の事情とはだいぶ違うのだが、斎藤は黙っていることにした。改めてくれるなら、それでいい。
「で、今日は随分と機嫌がいいな」
「そうなのよ」
は嬉しそうにふふっと笑う。
「銭湯の値上げ、無しになったの。斎……藤田さんのお陰よ」
「そりゃ……よかったな」
あんな話で主人が納得するとは意外だった。意外すぎて気が抜けた。
「それでね、これ、お礼」
そう言って、は封筒を出す。
「別に礼なんて―――――」
そう言いながらも受け取ると、斎藤は中身を改める。現金だったら突き返すつもりだったのだが―――――
「これ………」
中に入っていたのは、の写真だった。浴衣姿で、濡れた髪を手拭で拭いている。まさに湯上り美人だ。
「こういうのが好きだと思って。特別に撮った一点ものよ。大事にしてね」
「俺は別に………」
こういうのが好みだと思われるのは、少々気まずい。斎藤は困った顔をした。
斎藤の反応に、は少し残念そうな顔をして、
「あら、好みじゃなかった? じゃあ撮り直す?」
写真を取り返そうとするの手を振り払い、斎藤は慌てて言う。
「いや、いい! 写真を撮るのもただじゃないんだ」
斎藤の慌てぶりがよほど可笑しかったのだろう。は腹を抱えて笑った。
「そうね。ただじゃないもの」
そういう風に笑われると、斎藤の助平心を見透かされているようで微妙な気分になる。決して助平心で湯上り美人を見ていたわけではないのだが。
それにしても、“お礼”と称して自分の湯上り写真を渡すなんて、はよほど自分の容姿に自信があるらしい。美人絵葉書になるほどの容姿なのだから、そりゃあ斎藤には一生持てないほどの自信があるのだろう。その辺の女であれば突っ込んでやりたいところだが、の場合は実績があるだけに、流石の斎藤も無言にならざるを得ない。
「じゃ、お仕事頑張ってね」
このまま食事でも、と言われるかと思ったが、はあっさりと帰っていった。きっと今日は座敷があるのだろう。
「………湯上り美人、か………」
斎藤は改めて写真を見る。商品になるような着飾った写真もいいけれど、こういう何気ない姿も悪くはない。写真で見ても良いものなのだから、色のある実物はどんなものだろう。
一寸想像してみたが、写真と違って実物は喋るから残念感が増すかもしれない。やはり美人は写真で見るだけにしておいた方が良い。
斎藤は写真を丁寧に封筒に戻すと、胸ポケットに入れた。
芸者の入浴料をめぐって揉めた事例は、明治時代に実際にあったようです。仲介人が「湯上り美人を見に来る男の客もいる」と言って、値上げはなくなったとのこと。美人の威力って凄いな。
それはともかく、今回の斎藤、その辺のオッサンですやん(笑)。本人は鼻の下なんか伸ばしてないって言ってるけど、主人公さんの湯上り写真を大事に受け取ったところを見ると、やっぱり鼻の下伸びてたんじゃ……(笑)。