これですんだと思うなよ
「女と象は似ている」と言った男が海の向こうにいるらしい。見ているぶんには面白いが家に置きたいとは思わない、のだそうだ。斎藤もその意見には賛成だ。女という生き物は、あまり近くで見ると幻滅する。幻滅はしたものの、斎藤は未だにあの芸者の写真絵葉書を捨てきれないでいる。現実はどうであれ、美人は美人。写真は喋らないのだし、実物を忘れて想像力で補完すれば問題ない。家に置かずに見るだけなら、女はいいものだ。
人気役者にしろ、錦絵の題材になる美男美女にしろ、求められているのは外見だけで、人格など無視されているではないか。誰とは言わないけれど、斎藤が直接知っている錦絵の色男は、上司としてはともかく、自分が女だったらあまり付き合いたくない男だった。それでも世の中の女は錦絵を買っているのだから、斎藤があの写真絵葉書を捨てないのはおかしなことではない。
ともかく、もうあの女と話す機会は金輪際無いはずなのだ。礼に行きたいとしつこく言われたけれど、全力で振り切った。これ以上憧れの美人に幻滅したくはない。
と思っていたが、世の中はそんなに甘いものではないらしく―――――
「警部補、お客さんですよ」
出先から帰ると、にやにやした顔の部下に出迎えられた。
「客?」
「水商売の女ですか? 警部補も隅に置けないなあ」
「………………」
思い当たる女は一人しかいない。礼に来るとは言っていたが固辞したし、何より斎藤がどこの部署にいるのかも教えてはいなかったのだが。
首を傾げつつも自分の部屋に戻ると、あの女がいた。芸者の化粧こそしていないものの、着こなしや雰囲気が見るからに“夜の女”だ。これは部下の想像力を刺激しそうである。
こうなるのが予想できたから礼を断り、所属を答えなかったのだ。女の子とは今日のうちに署内に広まるだろう。それどころか尾鰭がついて、明日にはとんでもないことになっていることに違いない。
「こんな立派なお部屋をもらえるなんて、警部補さんって偉いのねぇ」
斎藤の顔を見るなり、女はからかうように小さく笑った。
薄化粧の女の顔は、あの夜の顔とも絵葉書の顔とも違う。やはり絵葉書美人とこの女は別物なのだ。
「警部補だからって部屋があるわけじゃない」
斎藤に個室があるのは、彼の仕事が特殊だからだ。部屋を持たぬ警部補の方が多い。
「じゃあ特別扱いってことなのね。凄いわあ、藤田さん。それとも“斎藤さん”と呼んだほうがいいのかしら」
「………何のことだ?」
自然に惚けるつもりが、硬い声になってしまった。
“斎藤”の名を知っているのは限られた人間だけだ。完全な部外者である女が知り得るはずがない。そもそもこの女には“藤田”の名前も教えてはいないのである。この女は一体どこで斎藤の名を知ったのか。そしてどこまで斎藤のことを知っているのか。
女はくすくす笑って、
「元新選組の組長さんともなると、扱いも違うのかしら。でもあんな仕事をするなら、そうでもないみたいね。もしかして仲間外れにされてる?」
何をどう調べたのか、この女は斎藤の過去まで知っている。ただの芸者だと思っていたが、どこからか差し向けられた間諜なのか。
しかし間諜にしては斎藤に危害を与える様子は無いし、何より自分の手の内を明かしすぎだ。まるで自分がいかに斎藤のことを知っているかひけらかしているようではないか。
女が何か企んで近づいてきているとしたら、何も知らないふりをするはずである。すべて調べ上げているのだと仄めかして相手に圧力をかけるやり方もあるが、それは斎藤には逆効果だ。目的を持って斎藤に近付いているとすれば、そのことも解っているはずである。
となると、女の目的が何なのかますます解らない。表情から探ろうとしても、女はただ笑っているだけで、何かを企んでいるようには見えない。これが演技だとしたら、かなりの役者だ。
「お前、何者だ?」
惚けるのはやめだ。女の目的が何なのか、何が何でも聞き出さなくては。
「小つる―――――やっぱりでいいわ」
「名前を訊いてるわけじゃない」
「あら、私の本名を呼べる人なんていないのよ。あなたと同じね」
「お前と一緒にするな」
「ねえ、お腹空いちゃったわ。この辺りでお勧めの店ってある?」
会話は成立しているはずなのに、全く話が通じていない。惚けて話を逸らしているかとも思ったが、の様子では変な意図など無いようである。そうなると、はこれを本気でやっているわけだ。こんなに話が通じなくて、座敷ではどうしているのだろう。
そういえば写真絵葉書になるのは“美人芸者”であって、“人気芸者”だとは誰も言っていないことに気付いた。は見た目が良いだけの不人気芸者なのかもしれない。考えてみれば、人気芸者がわざわざ斎藤の居所を調べて会いに。来るわけがないではないか。
誰かに差し向けられたわけでもなく、本当に礼を言いに来ただけなら、これで十分だろう。斎藤には暇な芸者の相手をしている時間などないのだ。
「此処を出て右に行って、最初の角を左に曲がってまっすぐ行ったところに蕎麦屋がある」
「こういう時って、一緒に行こうって言うものじゃないの?」
は白けた顔をした。
「子供じゃないんだから一人で行けるだろう」
迷うほど複雑な道ではないのだ。斎藤が案内してやるほどのものではない。
唖然とした顔の後、は呆れたように溜め息をついた。
「こりゃ女にモテないわけだわ」
「〜〜〜〜〜〜」
お前は俺の女関係をあれこれ言えるほど知っているのか、と言いたいところだが、今の斎藤がモテるとは程遠い状況なのは事実。返す言葉が無い。
「お礼をしに来たって言ってるんだから、食事は一緒にって言うのが普通でしょ。こんなこと女から言わせないでよ、恥ずかしい。ほら、行くわよ」
はそう言うと、斎藤の手をを引っ張る。
女は象に似ていると言う男がいたそうだが、まったくその通りだと斎藤は改めて思う。この女は象のように強引だ。断って象のように暴れられてはかなわないので、斎藤は黙ってに従った。
美人が斎藤を訪ねてきたというだけでも噂になりそうなのに、女に手を引かれて何処かへ出かけたとなれば、確実に署内はその話題で持ちきりだろう。明日のことを考えると気が重い。
署内ではできるだけ目立つような動きはせぬよう心掛けて生きてきたというのに、この女のせいで全て台無しだ。女は象並みの破壊力を持っているのかもしれない。
「もっといいものを頼めばいいのに」
運ばれてきた掛け蕎麦を見て、は不満そうな顔をした。
は天蕎麦、斎藤はいつもの掛け蕎麦である。の奢りだから同じものを注文するように言われたのだが、いつも通りが一番だ。にいつもの日常を引っ掻き回されたばかりだから、尚更そう思う。
斎藤は割り箸を取って無愛想に、
「これが一番好きなんだ」
「油ものは胃にくるの?」
悪気は無いのだろうが、いちいち癇に障ることを言う女だ。これでよく客商売ができるものである。
「吐くまで飲んだり、いらんことを言ったり、それでよく芸者をやっていられるもんだ」
写真絵葉書を眺めていた頃は、一度くらいこんな女と飲んでみたいと思っていたものだが、今となっては叶わなくてよかったと思う。高い金を出して、出てくるのがこんなのでは泣くに泣けない。
「あなたが護衛していた先生に無理矢理飲まされたのよ。私、お酒は飲めないのよね。それに、お金を出してくれるお客様相手の時はちゃんとやってますから、ご心配なく」
「酒も飲めないのに芸者か………」
「芸を売るんだから、飲めなくてもいいのよ。私は一流だからお酒の相手なんかしないわ」
「自分で言うな」
この前も思ったが、は自己評価が高い。美人というのは、それだけで周りの評価が高くなるのだろう。羨ましい限りである。
それはともかくとして気になるのは、がどうやって斎藤のことを知ったかだ。純粋に礼をしたかったというのが本当だったとしても、誰が斎藤の素性を教えたのか。
「俺のこと、誰から聞いた?」
「あの先生よ。私は所属を聞いただけなんだけどね。いろいろ教えてくれたの」
少しははぐらかすかと思ったのに、は驚くほどあっさりと答えた。たいした秘密ではないと思っているのだろう。
あの男が、美人に頼りにされていい気になっている姿が目に見えるようである。酒の勢いもあって、が感心するようなことを次から次に話したに違いない。
「どいつもこいつも阿呆ばっかりだ」
斎藤は苦々しげに吐き捨てた。
「いいじゃないの。お陰でお気に入りの絵葉書美人とこうやって食事ができたんだから」
「お前の本性を知る前だったら、そう思えたんだろうがな」
「言ってくれるわねぇ」
斎藤の言葉を照れ隠しと思っているのか、は可笑しそうに声を上げて笑った。
どうやっても斎藤の本心はには伝わらないらしい。最初に絵葉書を見せたのが失敗だった。あれを見たら、そりゃあ熱烈にを好いていると思うだろう。熱烈に好いていたのは、の外見だけだったのだが。
「割と本気で言ってるんだが」
控えめに反論してみたが、控えめすぎてには通じないようだ。相変わらずにこにこしている。
「本当の姿っていうなら、それはお互い様よ。あの時は暗くてよく判らなかったけれど、こんな顔だったのね。いい声してたから、もう一寸……ねぇ?」
「ねぇ?」と言われても、斎藤にどんな答えを求めているのか。通じていないと思っていたが、思ったよりには伝わっていたらしい。
それならさっさと食って帰ればいいものを、未だに機嫌よく座っているのが謎だ。客商売をやっているだけあって、本心に関係なく笑顔を作れるのだろうか。
が笑顔を作って居座り続ける理由は解らないが、本人がそれでいいと思っているのなら斎藤が口を出すことではない。
「期待外れだったら悪かったな」
の望みそうな答えを返してやる程度には、斎藤は大人である。
「錦絵の人みたいなのを想像してたんだけど、まあいいわ。有名人には変わりないんだし」
せっかく斎藤が気を遣ってやったのだから、もそこは否定しておくべきだろう。まったく失礼な女だ。しかも比較対象が昔の上司である。誰かと比べるのはいいとして、斎藤の知っている人間というのは無神経だろう。
「有名人の顔を見たら気が済んだだろう。これを食ったら帰れ」
の目的はこれで果たされたはずである。蕎麦を食い終わったら、もう二度と会うことはあるまい。
何から何まで変な女だったが、まあいい。二度と会わないと思えば、蕎麦を食い終わるまでのわずかな時間くらい、広い心で相手ができるというものだ。
が、の答えは斎藤の期待を大きく裏切るものだった。
「そっか、お仕事があるものね。じゃあ、次いつ会える?」
「は?」
斎藤の眉間に深い皺が寄った。
礼はこれで終わったのだから、また会わなければならない理由は無いはずだ。礼を抜きにして会いたいなんて、まさかとは思うが斎藤の惚れたのか。
それはないと、すぐに思い直す。あれが惚れた男に対する態度か。有名人好きだから、とも考えたが、写真絵葉書になるような芸者なら毎日のように有名人に会っているだろう。それに斎藤が有名人だとしてもそれはもう過去のことである。今はただの警官だ。
「礼は終わっただろう」
「そうだけど、それとこれとは別よ。そうね、来週なんかどう?」
困惑する斎藤をよそに、は勝手に話を進める。
美人に会いたいと言われたら嬉しいはずなのだが、この女は別だ。こういう積極的な女は斎藤の好みではない。
「来週は忙しい」
「じゃあ、再来週?」
「再来週も忙しい」
「その次の週は?」
「忙しい」
「いつも忙しいのね」
はつまらなそうな顔をした。
これだけ忙しいというのは要するに避けているわけなのだが、にはまったく通じていないらしい。察するとか空気を読むとかできないのだろうか。
は少し考えた後、名案を思いついたような明るい顔をした。
「じゃあお昼休みに来るわ。休み時間ならいいでしょ?」
「よくない!」
咄嗟に大きな声が出てしまった。
休み時間に来られたら、また署の連中に話題を提供することになるではないか。いくらでも、それくらいは解っているはずである。
これは脅迫だ。は悪意の欠片も無いように微笑んでいるが、絶対に悪意があるに違いない。虫も殺さぬような顔をして、とんでもない女だ。
「わかった。週明けに時間を作る」
甚だ不本意なことだが、職場に乗り込まれるよりはマシだ。
「楽しみにしてるわ」
諦めの境地の斎藤とは対照的に、は満足そうな笑みを見せた。
憧れの美人とお食事ができたのにあんまり嬉しそうじゃないな、斎藤……。
斎藤はこれで終わりにする気満々のようでしたが、これですんだと思うなよ(笑)。これで済んだら話にならないしな。