恋をしそんじる

 近頃、写真を使った絵葉書が流行っている。景勝地の写真が中心だが、売れ行きが良いのは“美人絵葉書”と呼ばれる種類のものなのだそうだ。
 美人絵葉書を飾るのは、各地の芸者らしい。絵葉書になることで、芸者の宣伝にもなるのだろう。実際、絵葉書がきっかけで、地方から客が来ることも少なくないと聞く。
 流行りものに乗るのは斎藤の性分ではないけれど、この美人絵葉書だけは別だ。新作が出れば、つい財布の紐が緩んでしまう。斎藤も世の男たちと同じく、美人には弱いのだ。
 だが、美人絵葉書なら何でも良いというわけではない。名前は知らないが。目元のくっきりした芸者のものが斎藤のお気に入りだ。着物の感じや髪型から、多分東京の芸者だと思われる。
 こんな美人と一緒に飲む酒は、さぞかし旨かろう。斎藤も若いころは島原や祇園で派手に遊んだものだが、こういう顔の美人はいなかった。京都では女雛のような柔らかな顔立ちが美人とされ、この絵葉書のような男雛のように凛々しい顔は好まれなかったのだろう。
 昔のように羽振りがよければ、この女を座敷に呼んで豪勢に遊びたいところだけれど、警官の給料ではそうもいかない。絵葉書になるような女だから、玉代も高いだろう。今の斎藤には、新作の絵葉書を買ってこっそり眺めるのがせいぜいである。





 料亭は今も昔も密談の舞台である。今日の斎藤は密偵としてではなく護衛として此処にやって来た。
 とはいえ、護衛すべき相手は命を狙われているというわけでもなく、形ばかりの仕事だ。その証拠に護衛は斎藤しかおらず、しかも護衛すべき相手からは「その辺で時間を潰していたまえ」というありがたい言葉をいただいているのだ。要するに今回の仕事は、大物ぶりたい政治家先生の見栄のためのものらしい。
「時間を潰せったってなぁ………」
 庭に放置されている斎藤には、時間を潰す方法が無い。せめて控え室くらいの用意が欲しいところだ。
 煌々と明かりが透けて見える障子の向こうでは、旨い料理と美人芸者を並べて楽しい宴会のようだ。密談なんていうけれど、結局はこんなものである。警護名目の斎藤を庭に放り出して、いい気なものだ。
 こんなしょうもない人物を襲撃する物好きなど、いはしないだろう。斎藤は目立たないところにある石に腰掛けると、持参してきた水筒と握り飯を出した。今夜は長丁場になるから夜食を持って行けと言っていた同僚の言葉に従って良かった。ゆっくり飯を食っていれば、ある程度は時間潰しになるだろう。料亭で握り飯一つというのは侘しい限りだが。
 と、黒い着物を着た女が渡り廊下を走っているのが見えた。どこかの座敷に向かっているのだろうかと思ったが、様子がおかしい。
 突然、女は庭に飛び降りると、茂みに隠れるようにしゃがみこんだ。
 厠まで我慢できなかったのかとも思ったが、それにしてはしゃがんでからの時間が長い。腹でも下したのか、もっと具合が悪いのか。
 様子を見に行くべきか、悩ましいところである。斎藤が様子を見に行って、女が用を足している最中だったら大変だ。しかし、どこかしら具合が悪くて倒れていたとしたら、警官として放っておくわけにはいかない。
 散々迷った後、斎藤は握り飯を置いて茂みに近づいた。
「おい、大丈夫か?」
 万が一のことを考えて茂みの向こうを見ないようにして声をかけてみたが、返事が無い。
「おい、どうした―――――」
 倒れているのかと茂みの中を覗くと、口元を懐紙で押さえている真っ青な顔の女がいた。飲みすぎて気分を悪くしたのだろう。微かに酒の匂いがする。
 芸者のくせに飲みすぎるなんて呆れるが、それ以上に驚いたのは女の顔だ。
「あんた―――――」
 女は、斎藤がいつも持ち歩いている写真絵葉書の芸者だったのだ。
 斎藤に気付いて、女は驚いたように彼の方を見た。が、すぐに気持ち悪そうに俯く。
 美人絵葉書の作った表情も文句なしに美しいが、美人というのは具合の悪そうな表情も美しいものである。貧血を起こしているのか青白くなった肌も、苦しげな眉間のしわも、なかなか風情があって―――――などと感心している場合ではない。苦しんでいる善良な市民を介抱するのも、警察官の大切な仕事である。
「大丈夫ですか?」
 見るからに具合の悪そうな相手に大丈夫も何もないものだが、まあ挨拶のようなものである。
 女は物憂げな様子で再び顔を上げた。そして何か言い出そうと口を開きかけた時―――――
「ぅおえぇぇぇぇ〜〜〜〜〜」
「げっ………!」
 女の盛大な嘔吐に、斎藤は大袈裟な動きで後ずさった。
 弱った女の姿は風情があると思ったが、流石に嘔吐はない。しかも、悪酔いしたオッサンのような凄まじい声付きである。いくら美人でもこれは無理だ。
 否、斎藤も女を知らぬ純情少年ではないのだから、どんな美人も厠にも行けば嘔吐もするくらい解っている。それくらいで幻滅するほど女に幻想を持っているつもりは無かったのだが、絵葉書美人の嘔吐には斎藤は自分でも驚くほどドン引きしてしまった。
 無言で固まってしまっている斎藤を、女は懐紙で口を拭いながら睨み付ける。
「何見てんの? そんなに女がゲロ吐くのが珍しい?」
「いや、あの………」
 大抵のことでは怯まない斎藤も、これには怯んでしまった。怒りを孕んだ声も、女の口から出る言葉も、あまりにも絵葉書から想像していたものと違って、斎藤には衝撃的過ぎた。
「背中……さすろうか?」
 詐欺に遭ったような気持ちで一杯になりながらも、斎藤は労わりの言葉をかけてみる。思っていたのとはかなり違うけれど、目の前にいるのは憧れの絵葉書美人なのだ。
「悪いわね。うぅ……また吐きそう………」
 取り繕う余裕など無いらしく、女は激しくえづきだした。これでは折角の美人も台無しである。
 夢を壊されてげんなりしながら、斎藤はえづく女の背中をさすり始めた。





「お茶を用意するなんて気が利くじゃないの。冷めてるけど」
 水筒の茶で口を漱いで、女は漸く落ち着きを取り戻したようだ。顔色もさっきより大分良くなった。
 対する斎藤はというと、げっそりした顔で煙草を咥えている。気分を切り替えようと煙草を出したのだが、火を点けるのも億劫だ。
 絵葉書の中の女は、物静かで芯が強くて、とにかく斎藤の好みに合う女だった。それが現実ではこれである。あの薄い唇からは小さくて柔らかな声が出るものだと信じていたのに、こんな攻撃的な声の出し方をするなんて、詐欺もいいところだ。
「何よ?」
 無言でも斎藤の不満が伝わったらしく、女は水筒を閉めながら睨み付ける。
 斎藤は深く溜め息をついて、
「思っていたのと違ってな」
「何が?」
「これだよ」
 そう言って、斎藤は懐から二つ折りの紙を出した。
「あら………」
 紙を広げて、女は可笑しそうに声を上げた。
「これ、私の写真じゃないの。あなた、こういうのを買うの?」
「悪かったな」
 自分がこういうものを買って喜んでいる姿が似合わないのは、斎藤自身がよく解っている。いい歳をしてこんなものを買い集めるなんて、客観的に見たら気持ち悪いだろう。けれど、それも今日で終わりだ。
 むっつりとしている斎藤を見て、女はくすくすと笑う。
「悪くなんかないわ。女の趣味、いいじゃないの」
「自分で言うか?」
 この女が喋る度に、絵葉書の女は斎藤の想像から離れていく。女という生き物は、遠くで見るのが一番いいということか。
 斎藤の落ち込みようなどまるで気にならないようで、女は上機嫌になって言う。
「日を改めてお礼に伺うわ。あなた、お名前は?」
「礼なぞいらん」
 斎藤はぶっきらぼうに応える。どうせ大したことをしてはいないのだ。それに、日を改めて会ったところで、ますます斎藤の理想と違う現実を見せつけられるに決まっている。
 が、女の中ではもう決定しているらしく、勝手に話を進める。
「そうね、来週はどう? 昼間しか駄目だけど、お昼休みなら大丈夫よね」
 いらぬと言うのに、この様子では何が何でも斎藤の職場に乗り込んでくるだろう。そのときのことを想像したら、斎藤はますますげんなりした。
<あとがき>
 写真絵葉書の流行は明治後期ごろ。手作業で着色したものもあったそうです。
 今残っている美人絵葉書を見た感じでは、“美人”の基準は今とそう変わらないようですね。芸者はもちろん、女学生(?)、水着写真もありました。今でいうブロマイドのようなものでしょうか。
 美人絵葉書を持ち歩いてこっそり眺める斎藤……何だかその背中に哀愁が漂ってそうです(笑)。
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