第八章 突入
高荷恵が戻ってきた。自分から戻ってきたというが、多分脅迫されたのだろうとは思っている。今日の昼過ぎに観柳と蒼紫と般若が揃って出かけていたからだ。その時に恵と接触して、何かしらの遣り取りをしたのだろう。
「お帰りなさい、恵さん。必ず帰ると思っていましたよ」
英国製の椅子に脚を組んで座り、観柳がくすくす笑いながら上機嫌に言う。数日前までのあのカリカリしていた小心者の男とは別人のようだ。
観柳の斜め後ろの定位置に立ち、は恵の顔を見る。
東京から離れろと指示したのに、そのための金も渡したのに、どうして東京に居続けたのだろう。人斬り抜刀斎と一緒にいれば、観柳が手出し出来ないとでも思っていたのか。それなら何故、最後まで人斬り抜刀斎に守ってもらわなかったのか。
恵の硬い無表情からは、何があったのか、何を考えているのか全く読み取れない。何も読み取れないが、強い決意を秘めた目をして観柳を睨みつけている。彼女の目にはの姿は映っていない。
今度は、部屋の片隅で壁に凭れ掛かって立っている蒼紫に視線を滑らせる。蒼紫も、冷たい“御頭”の顔で恵を見ていた。
否、見ているのは恵ではない。後ろに回されている恵の右手だ。何か仕込んでいるのか。
観柳はすっと立ち上がると恵に歩み寄り、彼女の顔を撫でた。
「私はいつも、あなたを可愛く思っているんですけどねェ」
「あなたが可愛く思っているのは、私が作った阿片の利益でしょ」
硬い表情のまま、恵は冷ややかに応える。
「ええ。ですから、そのついでにあなたも可愛がってあげているんですよ」
「そう………。でも生憎、私は阿片を作りに来たんじゃないの」
恵の右手が微かに動いた。
「武田観柳を、殺しに来たの」
その言葉と同時に、硬い音を立てて何かが落ちる。それが短刀の鞘だと気付くと同時に、恵が観柳の肩を斬りつけた。
悲鳴を上げながら逃げる観柳を、は冷ややかに眺めている。過去を隠してメイドとして観柳邸に入ったのだから、ここで何か行動を起こしたら今までのことが全て無駄になる。
勿論それはただの口実で、には観柳を助ける気など更々無いのだが。この男が死ぬと仕事が無くなってしまうのは一寸困るが、また何処かの職業斡旋所で紹介してもらえば済むことだ。女一人食べていけるだけの仕事は、他にもある。
遂に観柳が壁に追い詰められ、恵がその肩に短刀を振り下ろす。
「あひひぃぃ!!」
観柳の情けない悲鳴を聞きながら、終わったな、とは目を閉じた。
さて、この後どう始末を付けるか。観柳のようなカスみたいな男でも、殺したら殺人犯である。恵が死刑台に登るのは確実だ。
が、いつまで経っても観柳が倒れる音が聞こえない。不審に思って目を開けると、そこにあったのは意外な光景だった。
「そこまでにしておけ」
恵の背後に回った蒼紫が、恵の短刀を取り上げていたのだ。
さっきまでみっともなく怯えていた観柳が、形勢が逆転した途端に怒りを露わにする。
「この、くそアマ!!」
恵の顔を殴りつけ、倒れたところを激しく蹴り上げる。武器を持っていない女相手なら、どこまでも強気になれるのだ。今更ながら卑怯な男だと、は心底呆れた。
だが、呆れている場合ではない。このまま怒りに任せて、恵を殺してしまうかもしれない。
「止めてください! 死んでしまいます!!」
これで止めなかったら、が観柳を殺すつもりだった。中途半端に殴って止めるよりも、いっそのこと殺してしまった方が、後々禍根が残らない。幸い、此処にいるのは恵と蒼紫だけ。いくらでも誤魔化せる。
が、の声で少し冷静になったらしく、観柳は肩で息をしながら恵を見下ろす。血と痣だらけになっているが、恵は気を失っているだけらしい。
「私兵団を呼べ! 拷問にかけて、精製法を吐かせてやる!」
「小姓隊以外は、出払っているさ。耳を澄ませてみろ」
相変わらず頭に血が上って怒鳴りつける観柳に、蒼紫が冷静に言う。
その言葉に、も観柳も窓の外に神経を集中させる。と、甲高い笛の音が聞こえた。非常用の呼子の音だ。
「あの男が、来た!」
ドクン、との心臓が大きく鳴った。
あの男―――――緋村抜刀斎
どうして今頃になって来たのか。助けるくらいだったら、最初から恵のことを守ってくれなかったのか。そうすれば恵は此処に戻ることも無く、観柳に暴行を受けることも無かったののに。
観柳より先に、は玄関側の窓に走る。もう、怪しまれるとか考える余裕は無かった。
そこに見えたのは、赤い着物を着た小柄な赤毛の男の走る姿。ヤクザ隊も剣客隊も蹴散らし、銃士にさえも怯まない、頬に十字傷の剣客。明治の始まりと共に消えたはずの“人斬り抜刀斎”だ。
連れらしいトリ頭の背の高い男と少年の姿も見えたが、そんなものはどうでも良かった。人斬り抜刀斎の姿しか、今のには見えていない。
“神速”と謳われたその動きは、幕末の頃そのままだ。あっという間に私兵団を倒していく戦闘能力もあの頃のまま―――――のように見えたが、何かがおかしい。
そこにあるのは死体だと思っていたが、みんな生きているようだ。骨を折った者や気絶しているらしい者はいるが、誰も死んではいない。人斬り抜刀斎は、誰も殺してはいないのだ。
あれだけの強さを持っている男が仕損じるということはないはずだ。ということは、わざと殺さなかったのか。しかし刀の向きを見ても峰打ちのようには見えない。
目を凝らして抜刀斎の刀をみるの目に、信じられないものが映った。
「何なの……あの刀………?」
抜刀斎が握っている刀は、刃が通常と逆に付いていたのだ。あれなら、普通に使えば峰打ちと同じになる。
何故抜刀斎はあんな奇妙な刀を持っているのだろう。彼もと同じく、あの時代に人生を変える転換点があったのだろうか。
玄関まで守っていた私兵団が全て片付けられ、抜刀斎がこちらに歩み寄ってくる。
「年貢の納め時だ、武田観柳。恵殿を連れて降りて来い」
そう言う抜刀斎の目は幕末の頃そのままで、その迫力には背筋がぞくりとするのを感じる。それは決して不快なものではなく、忘れかけていた何かを思い出させるものだ。
それは蒼紫も同じらしく、振り向くと彼は口許に薄く笑みを浮かべている。幕末の大物がやっと目の前に現れたのだ。蒼紫の興奮は、の比ではないだろう。
まずいな、とは舌打ちしたい気分になった。人斬り抜刀斎が出てきたとなったら、蒼紫は対決するまで絶対に恵を手離さないだろう。恵を逃がしたいにとっては、蒼紫が最大の障害になってしまう。
隣では、観柳が抜刀斎を懐柔しようと必死に金の話をしている。馬鹿な男だと、は改めて呆れ返った。抜刀斎が金で懐柔出来るような男だったら、今頃こんなところでこんなことをしてはいない。維新の功労者として、明治政府の中枢で偉そうにふんぞり返っていることだろう。
案の定、交渉は決裂。
「わかった、私の負けだ。降参する。高荷恵は手離そう!」
「?!」
観柳の言葉に、は勿論、抜刀斎たちも驚いた顔をする。
観柳は言葉を続ける。
「一時間後には必ず送り届ける! 頼む! この場はおとなしく退いてくれ!!」
そういうことか、とは観柳を横目で見た。一時間で恵を拷問にかけ、“蜘蛛の巣”の製造法を吐かせるつもりなのだ。製造法さえ分かれば、恵に用は無い。
そんなその場しのぎの浅知恵は、抜刀斎にもお見通しだろう。は鼻で小さく哂ったが、意外にも抜刀斎はくるりと背を向けた。
まさか観柳の戯言を信用したのかと訝しんだ刹那、抜刀斎が居合い抜きでガス灯を石の土台から斬り倒した。
「――――――――――!!」
「一時間以内にそこに行く!! 心して待ってろ、観柳!!!」
“伝説の人斬り”の顔で怒鳴る抜刀斎の気迫に、観柳は全身の血の気が抜けたような顔をする。
「姑息な奸計は火に油か。成程、確かに激情家だ」
口の端を吊り上げて、蒼紫は淡々と独りごちる。観柳とは反対に、久々の活きの良い敵に出会えて、気分は上々といったところか。
青い顔のまま、観柳はみっともないくらいに声を裏返らせて、
「お…御頭、御庭番衆の配―――――」
「もう済ませた」
「いいか、べしみやひょっとこの様な役立たずのクズは、もう真っ平だぞ! 高い給金に見合うだけの働きをせん奴は、この私が許さんからな!」
内心の恐怖を振り払うためか、必要以上に偉そうに言う観柳の姿に、は呆れるのを通り越して哀れみさえ感じる。蒼紫に向かって、よくもまあそこまで御庭番衆のことを言えたものだ。しかも、「この私が許さん」とは。
観柳の無礼な言葉に、それまで機嫌の良かった蒼紫の顔が、一瞬にして険しくなる。
御庭番衆は蒼紫そのものなのだ。それを侮辱することは、この世の誰にも許されない。観柳如きに許されるわけがない。
「『この私が許さん』とはどういうコトだ?」
怒りのこもった低い声でそう言うと、蒼紫は大股で観柳に歩み寄る。そして乱暴に胸倉を掴み上げ、
「俺の御庭番衆だ。何人たりとも卑下することは許さん!」
「もし抜刀斎が此処まで来れなかったら、どうするの?」
展望室のベンチに恵を寝かせる蒼紫の背に、は硬い声で問いかける。
玄関から繋がる大廊下に般若、突き当りの階段に式尉が控えている。そして、此処のすぐ下のダンスホールには蒼紫。三人を倒さなければ、恵を救い出すことは出来ない。
いくら人斬り抜刀斎といえども、般若と式尉を相手にして無傷ではいられないだろう。あんな奇妙な刀を持っているのなら尚更だ。ダンスホールまで辿り着けたとしても、手負いの抜刀斎が蒼紫に勝てるわけがない。
抜刀斎が此処に来ることが出来なければ、観柳は必ず恵を拷問にかけるだろう。一度逃げ出した女をそのまま飼い続けるわけがない。そして“蜘蛛の巣”の製造法を吐かせた後は、秘密を守るために殺してしまうだろう。
拷問が、苦痛を与えるだけのものなら、まだマシだ。恵は女、しかも美しい女なのだ。拷問をやるのはヤクザ隊の連中に決まっているから、“拷問”だけで済むはずがない。女が拷問にかけられる時にどんな目に遭うか、幕末の京都を生きたは幾つもの事例を知っている。蒼紫だって、それくらい判っているはずだ。
じっと睨みつけるに、蒼紫が静かに振り返る。
「お前は、どうしたい?」
「どうしたい、って………逃がしたいに決まってる。若い女が拷問にかけられるっていうのがどういうことか、あんただって判ってるでしょ」
蒼紫の反応が馬鹿にしているようで、は喋りながら自分の語気が激しくなっていくのを感じる。蒼紫にとっては恵のことはただの“仕事”だろうが、にはそうではない。相手が恵だからというのもあるのだろうが、それよりもが“女”だから。女だから、それを黙って見過ごすことは出来ない。
いくら仕事とはいえ、蒼紫がそれを黙って見過ごすつもりなら、は彼と一戦を交えるつもりだ。女にとってそれがどんなに屈辱的で苦痛を伴うものか、も知っているから。だから、どんなことがあっても恵には、そんな目に遭わせたくはない。
“御頭”の顔をした蒼紫の表情が一瞬、僅かに緩んだように見えた。蒼紫はの顔に手を伸ばし、優しく撫でる。
「高荷恵のことは、俺たちにはどうでもいいこと。抜刀斎と戦えれば、それで良い」
その目はもう、を映してはいない。心がどこか遠くへ行ってしまっているかのような蒼紫の声に、は不安を覚えた。蒼紫の目にはもう、抜刀斎しか見えていないのだろうか。
十年間、蒼紫はこの日を待ち続けていたのだ。もしかしたら、と再会する日よりも。“その時”を目の前にして、蒼紫にはもう、恵のことも、のことさえも見えていないのかもしれない。
ふと、戦うために戦っていた“あの人”のことを思い出した。今の蒼紫の姿は“あの人”の姿に重なる。最後に言葉を交わした時、“あの人”は今の蒼紫のような目をしていた。
そう思った瞬間、は言いようの無い不安にぞくりとした。
「蒼紫―――――」
「………う…ん…」
蒼紫に手を伸ばしかけた時、恵が小さな呻き声を上げた。その声に、は慌てて手を引いた。蒼紫も、に触れていた手を引く。
「気が付いたか」
“御頭”の顔に戻って、蒼紫は起き上がった恵を見る。も不安を隠すように無表情になった。
「神谷道場の男たちが、お前を奪回しに攻めてきた」
「………うそ。せっかく私から身を引いたってのに、なんで………」
意外そうな顔をして、恵は呆然と呟く。やはり彼女は観柳に脅迫されていたのだ。
泣きそうな顔をしている恵の足許に、蒼紫が短刀を投げた。
「お前の短刀だ。返しておく。ヘタに希望は持たない方がいい。奴等はここまでたどり着けはしない。一時間後にお前を待つのは、救済でもなく観柳の拷問。苦痛の生か、安息の死か、せめて自分で望む方を選べ」
台詞を読み上げるような抑揚の無い声で一方的に言うと、蒼紫は恵みに背を向ける。そして扉を開け、
「お前のお陰で至高の敵と巡り会えた。それ
「待って! 私も行く」
部屋を出て行こうとする蒼紫を、も慌てて追う。蒼紫と抜刀斎の戦いを最後まで見届けるつもりだった。抜刀斎が蒼紫を殺そうとするなら、が全力で阻止する。今度こそ、大切な人を守りきってみせる。
が、を拒否するように、蒼紫は扉を閉めた。そして、施錠の音。
あまりのことに一瞬頭が真っ白になっただったが、自分も閉じ込められたのだと思うと、怒りに任せて扉を叩いた。取っ手をガチャガチャいわせてみるが、やはり開かない。
「一寸! どういうつもり?!」
“至高の敵”との戦いなら、必ずを連れて行ってくれると思っていたのに。御庭番衆に戻るように頻りに勧めていたのだから、の能力は評価しているはずだ。それなのにここにきて置いてきぼりだなんて、裏切られた気分だ。
「私が足手纏いになると思ってるの?! 私だって幾つも修羅場を潜り抜けてきたんだからね! 抜刀斎なんか―――――」
「黙れ」
癇癪を起こして喚き散らすの言葉を、蒼紫が静かに遮る。
が足手纏いになるとは、蒼紫も思ってはいない。幕末の京都を生きた彼女は、きっと頼もしい味方になってくれると思う。
けれど今回は、を巻き込みたくなかった。蒼紫と抜刀斎が対決することになれば、はきっと蒼紫の楯になろうとするだろう。それだけは絶対にさせたくない。
それには、“普通の人生”を選んだ女だ。蒼紫と違って、それをできる女だ。一時は御庭番衆に戻ることを望んでいたけれど、今となってはこれで良かったのだと思う。
恵と共に此処に閉じ込めておけば、抜刀斎は手出しできない。此処にいる限り、は無傷でいられる。何よりには、抜刀斎との戦いよりも大切な任務があるのだ。
「その女のことは、お前に任せる。好きにしろ」
にだけしか聞こえない小さな声で、蒼紫は伝える。
抜刀斎が此処に辿り着けなければ、恵は拷問にかけられる。それを阻止するのがの仕事だ。
その言葉に、扉を叩いていたの手が止まる。
蒼紫は最初から恵を逃がすつもりだったのだ。観柳邸に連れ戻したのは、抜刀斎を誘き寄せるため。抜刀斎が関わっていなければ、ずっと知らぬふりを貫くつもりだったのだ。
そう思ったら、今まで感じていた不自然さも一気に納得がいった。恵に簡単に接触できたことも、簡単に式尉が倒されたことも。全ては蒼紫の手の中のことだったのだ。
恵に逃げられた時、蒼紫たちの立場は悪くなったことだろう。それなのに誰も何も言わず、抜刀斎の件が無ければずっと秘密にしておくつもりだったのだ。
「ごめんね………。私、いつも困らせてばっかりだ………」
子供の頃からずっと、は蒼紫が困ることばかりしている。そして蒼紫は、黙ってそれを受け入れ続けてくれた。ずっと蒼紫の役に立ちたいと思っていたのに、やってることはいつも逆のことばかりで、はそんな自分を情けなく思う。
いつになったら蒼紫の役に立つことが出来るのだろう。どうしたら蒼紫に喜んでもらえるのだろう。
「お前には感謝している。謝ることは無い」
悲しげに言うに、蒼紫は短く応える。
のせいで困ったことが無いと言えば嘘になるが、だからといって彼女を責めることは一度も無かった。特に今回は、が恵を逃がしてくれたお陰で、幕末の大物に巡り会うことが出来た。そのことには本当に感謝している。
全てが終わったら、を連れてこの屋敷を出るつもりだ。大変な旅になるだろうが、それでも彼女がいれば楽しいだろう。般若たちもが加わることに賛成しているから、きっと彼女にとっても居心地の良い旅になると思う。
そのためにも、今は抜刀斎を倒すことだけに集中しなければ。いつまでも此処でぐずぐずしているわけにはいかない。
目を閉じ、意識の中からの存在を消す。今の蒼紫にとって何よりも大切なことは、抜刀斎を倒して“最強”の称号を手に入れることだけだ。
下が騒がしくなってきた。今は般若が相手をしているのか。
蒼紫は目を開け、静かにダンスホールへと下りていった。