第六章 脱出
今夜は観柳は夜会に出て、明け方まで帰って来ない。蒼紫も護衛に出て留守にしている。動くなら今夜しかない。箪笥の一番奥にしまい込んだ二つの風呂敷包みを出して、は静かに床に置いた。もう使うことは無いと思いながら捨てることも出来なかった品と、命よりも大切な思い出の品だ。
どんな時も、この二つの包みを手放そうとは思わなかった。この二つの物に纏わる記憶は辛いものでしかなかったけれど、これだけがの生きた証だったから。あの頃、辛い思いも悲しい思いも沢山したけれど、全力で生きてきた。今の生活は辛くも悲しくもないけれど、あの頃に比べれば死んだも同然のものだ。
結局、も蒼紫と同じく、戦いの中でしか生きられない種類の人間なのだろう。戦うことに疲れ、平穏な生活を望んでいたはずなのに、そんな生活は向いていなかったということなのか。
は今、自分でも驚くほど気分が高揚しているのを感じている。こんな気分になるのは、明治の世になって初めてのことだ。
蒼紫がいなくても、般若以下御庭番衆は屋敷に残っている。一芸のみのべしみとひょっとこは、まあ何とかなるだろう。は会ったことが無いが、式尉も何とかなると思う。ただ、般若が問題だ。蒼紫に直々に仕込まれたあの男には、手の内を知られているだけに手こずりそうだ。手こずりそうだが、どこまで自分の力が通用するか試してみたくもある。
一つ深呼吸をして、は風呂敷包みを開いた。
一つは、あの頃使っていた忍装束。袖を通さなくなってもう十年経つが、まだ着られるだろう。
そしてもう一つは、大振りの日本刀。こちらはの手で抜いたことは無い。これからも抜くことは無いだろう。十年共にした刀だが、のものではないのだから。
鳳凰が描かれた臙脂色のを愛しげに撫でる。この刀の持ち主に触れるように―――――この刀の持ち主は、あの頃のが深く愛した男だった。
どんなことがあっても、命に代えても守りたい人だった。想いが届かなくても、傍にいられれば良いと思っていた。だからどんなに苦しい戦いであっても、共に最前線で戦い続けたのだ。そして―――――
「………………っ」
あの時のことを思い出すと、今でも息ができなくなるほど苦しくなる。は鞘を強く握り締めた。
あのときは大切な人を守りきることが出来なかったが、今度は必ず恵を逃がしてみせる。次は絶対に守りたいものを守りきってみせる。
「―――――だから力を貸してください………」
刀を抱き締め、は囁いた。
突然やって来たの扮装に、恵は唖然とした。
身体にぴったりとした黒い奇妙な衣装は手足が剥き出しで、見ている方が恥ずかしくなる。それに、腰に帯びた長すぎる刀。一体何の仮装かと思うような姿だ。
「………何なの、その格好?」
「昔の仕事着ってとこかな。メイド服じゃ、思うように動けないでしょ」
上から下まで何度も見る恵の視線など全く気にしていないように、は胸を張る。彼女にとっては手足が剥き出しなど、取るに足りないことなのだろう。
続けて、
「今夜は観柳も蒼紫もいない。行くでしょ?」
「見張りは?」
恵が躊躇う様子を見せた。
主人と警護の要が不在でも、恵には二十四時間見張りが付いている。前にと接触した時は何の動きも見せなかったが、今度はそうはいかないだろう。見張りが異変を知らせれば、二人はあっという間に囲まれる。
一度は脱走を決意した恵だが、いざ逃げるとなると恐ろしくなってきた。本当に逃げられるのか、目の前の女に全てを託しても大丈夫なのか。
刀を持っているということは、多少腕に覚えがあるのだろう。この珍妙な“仕事着”も、何か特殊な技能を持っていることを示している。恵を逃がすと自信たっぷりに宣言したのも、ただのハッタリのようではなかった。けれど―――――
恵の不安を打ち消すように、はふふっと笑う。
「大丈夫。ぐっすりお休み中よ」
見張りのべしみは、当分目を醒まさないだろう。彼が伸びている間に屋敷を抜け出せれば、あとは大丈夫だ。
「ぐずぐずしてたら奴が目を醒ましちゃう。どうする?」
軽い口調だが、の目を強く決断を迫っている。一つの答えしか許さない雰囲気だ。
見張りを手にかけたのだから、はもう後戻りは出来ない。たとえ顔を見られていないにしても、此処にはもういられないだろう。がいなくなってしまえば、恵がこの屋敷を逃げ出せる機会は完全に失われてしまう。
今が屋敷を出る最初で最後の機会だ。これから先、こんな協力者が現れることは無いだろう。
そして恵も、引き返せないところまできている。二人の脱走計画は、蒼紫の耳に届いているだろう。今日まで何も仕掛けてこなかったのは不思議だが、これからもそうとは限らない。
やるなら今夜しかない。も恵も、後戻りは出来ないのだ。
「行くわ」
覚悟を決めた恵の答えに、は満足げににやりと笑った。
階段を駆け上がり、二階へと向かう。外の警備は厳しいが、屋敷の中は驚くほど無防備だ。主人が不在というせいもあるが、お陰で廊下の突き当りまで誰にも会わずに済んだ。
地下から二階まで走っても息一つ切らさないに較べ、恵はもう限界のようだ。長い監禁生活のせいで、体力が落ちているのだろう。
少し休ませてやりたいが、今はそんなことも惜しい。ぐずぐずしている間に誰かに発見されたら面倒だ。
「もう少しだから頑張って」
苦しげな恵を励まし、は突き当たりの壁を力一杯叩いた。すると、天井から縄梯子が落ちてくる。
地下室の鍵に気付いてから、屋敷を探っていた時に偶然見つけた秘密通路だ。有事に備えてか、屋敷のあちこちにこんなものがあった。
「裏の雑木林に通じてるの。さ、行くわよ」
先にが梯子を登って、恵を促した。
狭い隠し通路を抜け、出口の蓋をそっと持ち上げる。外は真っ暗で何も見えないが、人の気配は無いようだ。
目が慣れるのを待って、は用心深く外に出た。
今夜は新月。逃亡には絶好の夜だ。
「何も見えない………」
手探りで外に出て、恵は不安げに辺りを見回す。
「大丈夫。来て」
真昼のようにとはいかないが、訓練を受けたの目には不自由ない程度には見えている。現役を退いて長いが、まだまだ使えるようだ。
恵の手を引いて、は走り出した。
雑木林を抜けると、高く聳え立つ石塀が見えた。成人男性の倍近くありそうな高さである。
これくらいの高さなら、今のでも跳び越えられる。だが、恵を連れてとなると、些か心許ない。
塀の手前で立ち止まり、恵の姿を観察する。背はより高いが、体格は華奢であるようだ。助走をつけて跳べば、何とか跳び越えられるだろう。
は恵をひょいと抱き上げた。
「きゃっ………!」
「しっかり掴まってて」
そう言うが早いか、は全速力で走り出した。
走りながら、もう一度塀の高さを目測する。この高さなら、ぎりぎりで大丈夫だ。は思い切り地面を蹴った。
やった、と気が緩んだ瞬間、右足が塀に引っかかった。
「?!」
それでも何とか塀を越えることは出来たが、着地に失敗して強かに全身を打ち付けてしまった。同時に恵の身体も地面に投げ出される。
「大丈夫っ?!」
「え……ええ」
よろよろと立ち上がり、恵は応える。見たところ、大きな怪我は無さそうだ。
「此処から先は付いて行けないけど、早いうちに東京から離れて。兎に角遠くへ逃げるのよ」
そう言いながら、は恵に財布を握らせる。観柳邸で初めて貰った給金だ。大金ではないが、当座の逃亡資金にはなるだろう。
が、恵は慌ててそれを返そうとする。
「駄目よ、こんな―――――」
「此処にいる限り、お金は使わないから大丈夫。遠くに行くには旅費が必要でしょ」
観柳邸では食事も服も全て支給される。遊びたいとかお洒落をしたいと思わなければ、一銭も使わずに済むのだ。もし自身が観柳邸から逃げなくてはならない事態になったとしても、資金無しでも何とかなる。
まだ躊躇う恵に、微笑みながらは財布を押し付けた。
「今は逃げ切ることだけ考えて。私のことは―――――」
そこまで言ったところで、の顔から微笑みが消えた。
後ろに誰かいる。
恵を軽く突き飛ばし、は有無を言わさぬ口調で命令した。
「早く行きなさい! 何があっても振り返っちゃ駄目よ」
の迫力に圧されるように頷くと、恵は一目散に走り出した。
それと同時に、巨大な鉄球がの背後から飛んでくる。
「――――――――っ?!」
間一髪のところで飛び退き。鉄球の主を振り返る。
筋肉隆々とした、見上げるような大男だ。全身に無数の傷跡があり、つぎはぎだらけのように見える。私兵団にいるヤクザ者とは明らかに違うが、かといってが見知った顔ではない。
「…………あんたが“式尉”?」
男を睨みつけ、が低い声で問う。
御庭番衆の四人の部下のうち、がただ一人会ったことの無い部下だ。話には聞いていたが、こんな小山のような男だとは思わなかった。
「あんたが“”か……。話には聞いていたが、なるほど、御頭が血迷うわけだな」
の姿を上から下まで舐めるように見て、式尉は含みのある笑いを見せる。
蒼紫が血迷っているかどうかは知らないが、今回の件に関して、彼にしては対応が甘いとは思っている。に監視を全く付けないことも勿論だが、彼女の行動は解りきっているのに今夜のように屋敷を空けるのも妙だ。
そもそも、彼女を邪魔者として“排除”しないのも、彼らしくない。蒼紫が自分に血迷っているかどうかはともかく、わざと隙を作っているのではないかとも思っていた。
「あんたの御頭が血迷ってる女なんだから、見逃してくれないかなあ。こんな鉄球が直撃したら、死んじゃうよ?」
“あんたの”の部分を強調して、は皮肉っぽく言う。
式尉の目から見た蒼紫はそんな人間かもしれないが、少なくともが知っている彼は、女なんかに惑う男ではない。抱いたことがある女であっても、そんな情に流されるような男ではない。そんな私情に流されるようなつまらない男なら、はいらない。
「猛獣みたいな女だから、本気で相手しろって言われてるんでね」
式尉が鼻で哂う。
「…………………」
猛獣のような女だなんて、蒼紫もとんでもない表現をしてくれる。一度は愛し合った仲なのだから、もう少し言い様がないのかと、は呆れた。
しかし猛獣と表現するのも、蒼紫なりの愛情表現なのだろうと思い直す。が女に血迷う男など欲しくないように、蒼紫も大人しいだけの女など欲しくはないだろう。猛獣のような女だから、もう一度自分のところへ戻って来いと誘ったのだ。
鎖が鳴り、式尉が鉄球を引き寄せる。
「というわけで―――――」
その声と同時に、再び鉄球が飛んできた。
の身体が跳び、顔面に当て身を食らわせる。身体の筋肉は鎧のように鍛えられても、顔の筋肉はそうはいかない。のような軽量の当て身でも、顔面ならそれなりに効くはずだ。
が、式尉は鼻血も出さずに平然として、
「ま、一寸は痛いかな」
「顔面まで筋肉なのか」
忌々しげに舌打ちをして、は呟く。
あの身体は御庭番衆秘伝の筋肉増強薬で作られたものだとは聞いていたが、まさか顔の筋肉まで鎧のように変えてしまうとは。ここまで筋肉に変えてしまうとは、一体どれだけの薬を作ったのだろう。
出来ることなら素手で済ませたかったのだが、そうも言ってはいられないらしい。は腰に帯びていた刀を外し、柄と鞘を握った。
この刀は抜かない。抜かないけれど―――――
式尉の視界からの姿が消えた。
「――――――――?!」
「こっちよ」
上に跳んで式尉の後ろに回り、着地する前に鞘に入ったままの刀を力一杯延髄めがけて突き立てた。
「がぁっっ………!!」
いくら筋肉に守られているとはいえ、中枢神経をやられては一たまりもない。白目を剥いて、大木が倒れるように式尉の身体が倒れた。
トン、と着地して、は口許に小さく笑みを浮かべて刀を愛しげに撫でる。こんな使い方は邪道だけれど、刀を抜きたくはなかった。この刀を抜く権利があるのは、その持ち主だけだと決めているから。
それにしても―――――とは倒れている式尉に目を遣る。じきに目を醒ますとは思うが、このまま放置しておいて良いものか迷うところだ。般若に言って回収させるのが一番なのだろうが、何と伝えれば良いものか………。
「どうしよう………」
「見事なものですな」
「わあっ?!」
気配もなくいきなり背後から声を掛けられて、は頓狂な声を上げた。
振り返ると、そこには般若の面を被った男が立っていた。声が般若のものだったから、恐らく般若なのだろう。刀を両手で握り締め、は警戒の態勢に入る。
般若の実力は、も知っている。蒼紫の右腕を務める彼を倒すとなると、式尉のようにはいかないだろう。殺す気でいかなければ、こちらがやられる。
無意識のうちに柄に手を遣るを見て、般若は仮面の下で息が抜けるような笑いを漏らした。
「私は無益な闘いをするつもりはありません。仮にあなたを倒したところで、高荷恵は遠くへ逃げ延びた後」
「そうね」
たとえ般若を倒すことは出来なくても、すぐに追跡できないところまで恵を逃がす時間稼ぎくらいは出来る。
「それだけの力をお持ちなら、是非蒼紫様の許で使っていただきたかった」
「……………………」
蒼紫の名を出され、の胸がちくりと痛んだ。
今日のことを知ったら、蒼紫はもうの許には現れないだろう。も本当は、蒼紫の傍にいたかった。共に戦うことは出来なくても、傍にいるだけで良かった。こうなってしまっては、もう叶わぬことだけれど。
黙り込んでしまったの顔をじっと見ていた般若だったが、突然急かすように言った。
「屋敷にお戻りください。騒ぎを聞きつけて私兵団がやって来るようです」
耳を澄ますと、複数の人間の足音のようなざわめきが聞こえてきた。
いくら暗闇でも、姿を見られるのはまずい。は体重を感じさせない身軽さで塀に飛び乗った。そして般若を振り返って、
「ごめんね。怒ってると思うけど、蒼紫にもそう伝えて」
恵が逃げたとなれば、見張りのべしみ、そしてその上司である蒼紫の立場は悪くなるだろう。謝って済むことではないし、蒼紫との仲も修復できないだろうが、それだけは伝えたかった。
が、般若は優しい声で、
「それには及びません。蒼紫様はお怒りではありませんから。今も様への気持ちはお変わりありません」
その言葉に、の胸が大きく鳴った。まだ蒼紫が自分のことを想ってくれていると考えたら、嬉しくて目が潤んでしまう。
やっぱり蒼紫のことが好きだ。調子が良いかもしれないが、全てが落ち着いたらもう一度会いたい。
般若は言葉を続ける。
「それに、高荷恵はすぐに捕縛します」
その声は確信に満ちたもので、多分近いうちに現実になることを予感させた。言いようの無い不安が胸を掠めて、はそれを振り払うように般若を強く見返す。
「身寄りの無い女一人、姿を消すのは意外と簡単よ」
今夜のうちに何処まで逃げ切れるかが勝負の分かれ目だが、明日のうちに東京を出ることができればきっと逃げ切れる。の経験上、女一人が雑踏に紛れるのは簡単なことなのだ。簡単だから、も今日まで静かに暮らすことが出来た。恵にもきっと出来る。
その言葉を受けて、般若は嘲笑うように息を漏らしたような気がしたが、はそのまま敷地内に降りていった。