第五章 訣別
一日の仕事が終わって部屋に戻ると、蒼紫が待っていた。こんなことは初めてだが、は驚かない。蒼紫がいるのは予想していたことだ。「あの女には手出しするなと言ったはずだ」
感情を読み取らせない全くの無表情で、蒼紫は単刀直入に切り出した。
怒っているだけなのか、既に“敵”と認識されているのか、には判らない。けれど、もう蒼紫はのことを“仲間“として見ることはないだろうということだけは確かだ。
こうなることは最初から解っていたことだ。やめようと思えば、いくらでも引き返す機会はあった。それでも突き進むことを選んだのはなのだ。
「恵さんのことだけは、どうしても譲れなかったの」
前にもこんなことがあったなと思いながら、は台詞を読むように淡々と応える。
ずっと昔、蒼紫が御頭になる前にも、同じような遣り取りをしたことがある。あの時も、蒼紫が手出しするなと言った人間に深入りしてしまって、のその後は大きく変わってしまったのだ。今回もまた、の人生を変えてしまうかもしれない。
蒼紫も同じことを思ったらしく、忠告するように言う。
「あの女を逃がしたところで、何も変わらない。すぐに連れ戻されて、今よりも酷いことになるぞ」
「それは恵さんも覚悟の上よ。それでも逃げることを選んだの」
「捕まって拷問を受けることになれば、必ずお前を恨むことになる。誰が手引きしたのかも、すぐに白状するぞ」
「それも覚悟してる」
だって、恵が逃げ切れなかった時のことを考えていないわけではない。捕らえられて拷問に掛けられた彼女がのことを恨むことも。最悪のことまで考えた上で、恵を逃がすことを決めたのだ。
蒼紫は呆れたように溜息をついた。
「どうしてそこまであの女に肩入れをする?」
「どうして阿片密造を見過ごしておくの? 昔のあなたはそんな人じゃなかった」
蒼紫の問いに、も質問で返す。
蒼紫が阿片密造を知っても何もしないのは、“主人”のために割り切っているのだと、初めは考えていた。が、蒼紫と観柳の様子を垣間見ているうちに、それは少し違うと感じるようになった。
蒼紫は観柳を主人だと認めてはいない。元々蒼紫が仕えるに相応しい器量の持ち主ではないが、それ以上に彼が観柳を冷ややかに見ている。観柳を利用しようと考えているかのようなのだ。
「“蜘蛛の巣”があれば、何かしらきな臭いことが起こる」
後ろめたさなど全く感じていないように、蒼紫は淡々と答える。
「だから?」
胡散臭い青年実業家の周りには胡散臭い人物が集まり、小さな騒動は日常茶飯事だ。騒動の殆どは私兵団で事足りる程度のものなのだが、稀に御庭番衆が出ることもある。そういう騒動はまともな実業家や政治家の護衛では起こるはずの無いもので、“蜘蛛の巣”は蒼紫たちにとって、そういう騒動を呼び寄せる餌なのだろう。
けれど、そんなことの為に“蜘蛛の巣”を見過ごすというのは、には理解できない。昔の蒼紫は、そんな身勝手な理由で阿片密売という大罪を許す男ではなかった。
「世の中がこれだけ変わったんだから、人が変わるのも仕方ないと思ってたけど………あなたがこんなに変わるなんてね」
目の前にいる男はが子供の頃から知っている蒼紫とは違うのだと思うと、悲しくなった。生きていくために仕方なく、というのなら、まだ許せる。けれど、騒動を求めているだけだなんて、には考えられない。
の軽蔑の目を仕方ないものと受け止めているのか、蒼紫は黙っている。
「般若は何も言わないの?」
般若は蒼紫に対して“忠実”とか“服従”という言葉を遥かに超えて、心酔しているといって良いくらい傾倒している。しかしそんな彼でも、蒼紫が間違った道に進めば諌めるはずだ。江戸城御庭番衆の最後の御頭として、気高く生きることを望んでいるはずだから、蒼紫が阿片密売を許す男になってしまったら、暗殺さえ考えるだろう。般若は蒼紫やと同じく、思い込みの激しい性格なのだ。蒼紫が自分の理想と反する生き方を選べば、きっと許さないだろう。
そんな般若が今の蒼紫の様子を黙って見ているのも、には解せない。般若もまた、時の流れと共に変わってしまったのだろうか。
「あいつらは戦うことしか出来ない人間だ。だからこうやって力を発揮できる場を与えてやることで、誇りを持たせてやりたい。般若も理解している」
「ああ………」
私欲のためではなかったというのは、納得できた。仕官の話が幾つもあった蒼紫や、どんな仕事をしてでも生きていけるとは違い、一芸のみ秀でた“普通とは違う”部下たちが第二の人生を踏み出すのは難しい。明治も十年も過ぎた今となっては、不可能と言っても良いだろう。
敗者の立場で新時代を迎え、新しい生き方を見出せないまま燻り続けるしかない彼らには、御庭番衆で培った業を発揮できる場が必要だ。徳川が瓦解して不要のものになってしまった彼らが誇りを持って生きるために、蒼紫は観柳も“蜘蛛の巣”も利用するつもりなのだ。
蒼紫たちが“蜘蛛の巣”を容認している理由は解った。部下たちが誇りを持って生きていけるように考える蒼紫の姿は、が慕っていた少年時代のままだ。
しかし、だからといって恵の逃亡計画を中止するわけにはいかない。蒼紫が部下たちを大事に思うように、にとっても恵の件は譲れないのだ。
「でも、恵さんのことは、また別の話だから」
「ああ」
強く止めるかと思ったが、蒼紫は何も言わない。引き留められても考えを変えるつもりは無いが、何も言われないのも完全に見放されたような気持ちになる。
けれどそれもが選んだことだ。この後どんなことが待っているかは分からないが、後悔はしたくない。
「だからもう、此処には来ないで。私と会ってることを般若たちが知ったら、あなたの立場が無いでしょ? 私だって―――――」
これ以上蒼紫と会い続けていたら、折角のの決心が鈍ってしまう。蒼紫を敵に回しても恵を助けたいという思いが揺らいでしまう。
やっと巡り会えて、これからはずっと一緒にいられると思っていたけれど、また駄目だった。蒼紫のことは誰よりも好きだけれど、それでも別れることを選んでしまう。どうしてこんなことになってしまうのだろう。
いっそ恵のことを見捨ててしまえば―――――そんな囁きを、は必死に押さえつける。が辛かった頃に優しくしてくれた隆生の娘を見捨てるなんて、できない。そんなことをしたら、今度は一生自分を許せないだろう。
同じ屋敷にいるけれど、これはからこうやって二人で会うことは出来ないと思うと、自分で選んだことなのには涙が出そうになる。が、泣き顔を蒼紫に見られるわけにはいかないから、彼から顔を逸らして俯いた。
涙が零れ落ちないように目に力を入れていると、蒼紫の手がそっと頬に当てられた。
「来るなと言うなら、此処にはもう来ない。短い間だったが、お前と居られて楽しかった」
その声はとても淋しげで、は本当に泣いてしまいそうになる。蒼紫に抱きつきたい気持ちを必死に堪え、唇を噛んだ。
蒼紫の手がすっと離れ、気配が遠ざかる。静かに扉を閉められた後も、は俯いたまま涙を堪え続けた。