第四章  “高荷 恵”

 蒼紫と恵が消えた礼の壁を力一杯押すと、地下に続く階段が現れた。この下で、恵は“蜘蛛の巣”を作っているのか。
 今日は観柳も蒼紫も留守にしている。夕方までは帰らないと聞いているから、それまではも自由に動くことができる。尤も、への監視が無くなっているわけではないのだが。
 こうやって階段を下りている今も、天井裏からの視線を感じている。般若ではないようだから、は視線を無視して足を進めた。
 力ずくで止めに来るかと思ったが、天井裏からの動きは無い。このままを泳がせて、後で蒼紫に報告するつもりなのだろうか。その報告を受けた時、蒼紫はどんな顔をするだろう。
 あの女は大事な女だから手出しをするな、と蒼紫は言った。あの後ずっと、あの言葉の意味を考えていた。仕事上の意味で大事なのか、それとも一人の男として大事な存在なのか。もし後者だとしたら、はどうすれば良いのだろう。
 高荷恵がどんな女か想像してみる。あの時はよく見えなかったが、きっと美しい女なのだろう。自分より美人なのだろうかと想像したら、まだ蒼紫と何かあると決まったわけでもないのにむかむかしてきた。
 むかむかしながらも、もしも恵がの思い当たる女だとしたら、とも考える。もしの憶測が当たっていたら、彼女にとって非常にややこしいことになるだろう。
 地下室の扉の前で足を止める。まだ視線を感じるが、は髪を留めているピンを一本抜いて大きく息を吐いた。
 部屋の鍵は単純な造りだったらしく、ヘアピンで鍵穴を弄っているうちにカチリと音がした。
「誰?」
 部屋の中から、警戒するような女の声がする。これが高荷恵の声かと思った途端、は部屋に飛び込みそうになったが、気を落ち着けてゆっくりと扉を開いた。
 狭い室内はに、必要最低限の調度品と薬品を調合する器具が詰め込まれている。天井近くに通気口らしい穴があるだけで窓らしいものは無いせいか、息苦しくなるような圧迫感を覚え、“独房”という言葉がの頭を過ぎった。
 割烹着のような白衣を着てマスクをした女が、敵意を持った目でを睨みつけている。この女が高荷恵なのだろう。“蜘蛛の巣”を製造している最中だったのか、阿片らしいものや白い粉が机の上に所狭しと置かれていた。
 この女か、とも恵をじっと見る。顔の上半分しか判らないが、多分よりも若い。睨みつけているせいもあるかもしれないが、気の強そうな女だと思った。
 睨み付けられても怯むことなく、は部屋の中に一歩踏み出す。それと同時に恵の鋭い声が飛んだ。
「入らないで!」
 反射的に身を硬くするに、恵は言葉を続ける。
「煙を吸い込んだら、あんたも中毒になるわよ」
 精製しているらしい器具から、白く細い煙が立ち上がっている。恵がマスクをしているのは粉を吹き飛ばされないためかと思っていたが、あの煙を吸い込まないためだったらしい。
 恵の方から入り口まで来ると、マスクを外した。
「ふーん………」
 品定めするように、は恵を上から下まで見る。
 まあ、確かに美人ではある。雰囲気は落ち着いているがよりは年下のようだ。蒼紫が好みそうといえば、好みそうな女かもしれない。
「………何よ?」
 不躾な視線に、恵は不審げに睨む。
「別に」
 ぶっきらぼうに応えると、は恵を押し退けて部屋に入った。
「ちょっ……あんた!」
「狭苦しい部屋ねぇ。換気も悪いし。こんな所にいたら、本当に中毒になりそう」
 勝手に入っておいて、言いたい放題である。としてはもっと言ってやりたいところなのだが、長くなりそうなのでやめた。
 の部屋も上等なものではないが、ここはそれより数段酷い。こんな所に一日中閉じ込められ続けていたら、気が変になってしまいそうだ。恵が正気を保っていられるのは、蒼紫が励ましたり慰めたりしているからなのだろうかと想像したら、改めて腹が立ってきた。
「此処には蒼紫はよく来るのかしら?」
「は?」
 刺々しい声で訊くに、恵はますます怪訝な顔をした。いきなりメイドがやって来て、一人で喧嘩腰になっているのだから、訳が分からなくて当然だ。
「御頭がわざわざ来るわけないでしょ。来るのは御頭が連れてる部下よ。今だってきっと見張ってるわ」
 恵の口調は忌々しげで、蒼紫たちに対して敵意を持っているようにも聞こえる。芝居かとも思ったが、どうやら本気の表情だ。
 蒼紫の“大切な女”発言で、二人の間には何かあると思っていたのだが、の勘違いだったらしい。
 考えてみれば、一人の女として大切にしているのなら、恵がこんな部屋に閉じ込められているのを蒼紫が黙って見ているはずがない。尤もらしい理由を付けて、観柳にもっとマシな部屋を用意させるはずだ。それが無いというのは、が思っているような“大切”ではないということか。
 しかし蒼紫は、観柳絡みではないと言っていた。一人の女として大切というわけでもなく、観柳絡みでもないとしたら、一体何なのだろう。
 考え込んでいると、恵が心底迷惑そうに言った。
「大体あんた、何なの? さっきから訳の解らないことばっかり―――――」
「ああ………」
 蒼紫の一言のせいですっかり忘れ去っていたが、こんなことを言いに此処に来たのではない。当初の目的を思い出して、は訊ねた。
「高荷隆生って人、知ってる?」
 その名に、恵の顔がさっと強張った。やはり思った通り、恵は高荷隆生の縁者だったらしい。
 高荷家は代々医者の家系で、男子だけでなく女子にも医学を学ばせるという、珍しい家だ。特に会津藩の御典医だった隆生は進歩的な考えの持ち主で、脱藩して長崎で西洋医学を学んだという。
 その後、会津戦争の激戦の只中だった城下に家族と共に入り、傷病者の治療に尽力した。が隆生を知ったのは、その頃だ。
 も隆生の治療を受けたことがあるが、最先端の医学を学んだだけあって、腕は良かった。当時のは知らなかったが、高名な医者にも拘らず奢ったところが全く無くて、父親というものを知らずに育ったには、父親のようにも接してくれた。隆生には城下の外に残してきた娘が一人いたそうで、どうやらと歳が近かったらしく、その話もよく聞かされたものだ。
 その娘が生きていれば、恵くらいの歳になっているだろう。もしも恵が隆生の娘だとしたら、女の身で薬に詳しいというのも頷ける。
「知ってるのね?!」
「ち……父よ」
 身を乗り出してきたの勢いに圧されたように、恵は答えた。そして今度は恵の方から質問する。
「父を知っているの?」
「昔、少しだけお世話になったことがある。立派な方だったけれど………」
 そのままは口を噤む。
 激戦の会津城下で家族と共に寝食を惜しんで傷病人の治療に当たっていた隆生の姿は、今でもはっきりと思い出せる。あんな医者は、それ以前も以後も会ったことが無い。
 戦況の悪化でたちは落城前に北に向かったから、高荷家のその後は判らない。どこかで生き延びていてくれればともうけれど、あれだけの医者の噂を耳にしないということは、多分もう―――――
 だから恵に詳しいことを訊かれる前に、は本題に入る。
「もしもあなたが阿片の密売を止めたいと思っているのなら、手助けしたいの。あなたが望むなら、此処から逃がしてあげる」
「………え?」
 とんでもない申し出に、恵は目を丸くした。が、すぐに胡散臭そうな目でを見る。まあ、当然の反応だろう。
 のことを何も知らない恵にとっては、目の前にいるのは観柳の使用人なのだ。そんな人間が恵を外に出そうだなんて、何か裏があると思うのが普通だ。阻止かも天井裏からは、今も監視の目が光っているのである。
 けれどはそんな恵の様子などお構い無しに話を続ける。
「高荷隆生の娘が阿片の密造をしているなんて、会津の人が知ったらきっと悲しむわ。お父様は誰からも尊敬されている人だったから………。勿論私も尊敬してる。だから、あなたにはもう、こんなことはして欲しくないの」
 恵が高荷隆生の娘だと知ったからには、これ以上阿片密造に手を染めさせるわけにはいかない。彼女には隆生のような立派な医者になってもらって、彼のように沢山の人の命を救って欲しい。それだけの知識はあるはずだし、隆生もそういう生き方を望んでいるはずだ。
 会津にいた頃、短い間ではあったがは隆生にとても良くしてもらった。あのころは何も返すことが出来なかったから、恵をこの屋敷から脱出させることで恩返しをしたい。
 恵を逃がしてしまったら、蒼紫が困ることになるのは承知している。彼女がいなくなれば、この屋敷は大変なことになるだろう。は職どころか蒼紫まで失うかもしれない。
 それでも、これはやらなければならないことなのだ。高荷隆生とその娘のことは、この十年ずっと気になっていた。ここで恵のことを観て見ぬ振りをしたら、きっと一生後悔することになるだろう。
 あの頃、は沢山のことをやり残してきた。沢山のことをやってきたが、何もかも中途半端に終わらせてきた。大切な人を守りきることさえできなかった。だから今こそ、一つでも遣り残したことを精算したい。
 まだ疑いの目を向ける恵の手を、は両手で包むように握る。
「私なら、あなたを逃がすことが出来る。だって、ほら、今でも私には阿片は効いてないでしょ? 詳しいことは言えないけれど、私は特別なの」
 の言葉に、恵ははっとしたような顔をした。確かにの顔つきは、阿片の影響を全く受けていないように見える。普通なら、たとえ短時間でも阿片の煙を吸えば、少しくらい意識障害が出るはずだ。
 この女はただのメイドではない。何かしら特別な訓練を受けた人間だ。そう思ったら、恵の表情に前向きな変化が表れた。
 この女が信用に値するかどうか、まだ決めかねているけれど、真剣な目で説得を続けるの様子を見ているうちに、彼女に全てを託してみようという気になってきた。もしかしたら、恵の方がの纏った阿片の匂いにやられてしまっているのかもしれない。
 けれど、恵にはもうそれもどうでも良かった。本当に此処から出してくれるのなら、こんな胡散臭い女にでも縋りたい気持ちだ。
「本当に逃がしてくれるの?」
「あなたにその気があるなら。外に出てからもあなたを守るまでは出来ないけれど、遠くへ逃げるまでの時間稼ぎはするわ」
 本当なら恵を会津まで無事に送り届けるのが筋なのだろうが、流石にも御庭番衆の追っ手を振り切る自信は無い。それよりは此処に留まって、彼らの追跡を阻止する方が確実だ。
「あなたに出来るの? 私は一日中見張られているのよ。今だって………」
「今すぐは無理だけど、時期を見て近いうちに必ず」
 不安がる恵を勇気付けるように、は彼女の目をじっと見る。
 御庭番衆の目を掻い潜るのは、確かに容易ではない。けれど彼らも人間だ。一日中見張っていれば疲れも出るし、どうやっても隙は生じるはずだ。そこを狙えば、恵を外に出すことは何とかなるだろう。問題は脱出後のことだが、それはもう運を天に任せるしかない。
 恵みにとってもにとっても、これは一世一代の賭けだ。失敗すれば、二人ともただでは済まない。
 あらゆる危険を冒しても全てをに託すか、恵はもう一度考える。失敗すれば、おそらく恵は拷問に掛けられて『蜘蛛の巣』の製造法を吐かされた後、殺されるだろう。そこまでされなくても、二度と逃亡する気が起きないように折檻されることは間違いない。けれどそれを恐れて此処に留まっていたところで、死ぬまで『蜘蛛の巣』を作らされるだけだ。そんな人生は、の言う通り、隆生は望んではいない。勿論恵も。それなら―――――
「私を此処から逃がして。お願い」
 どうやっても地獄なら、一か八かの賭けに出るしかない。恵はの手を強く握り返す。
 その瞬間、天井裏で小さな物音がしたのを、は聞き逃さなかった。
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