第三章 本当に優しい大人は、ちゃんと注意できる大人です
御庭番衆の外の世界というのは、どんなものだろう。は御庭番衆の外のことも、江戸城の外のことも知らない。自分の意思で知らない世界へ踏み出すということすら、今日まで知らなかった。けれど、今日からは違う。誰でもない、自分で選んだ世界で、自分の意思で生きていくのだ。
新しい場所がにとって優しい場所なのかは分からない。けれど何が待っているとしても、絶対に後悔なんかしない。
「俺がお前の担当なんだとさ。ま、仲良くしようぜ」
『葵屋』に迎えに来たのは、斎藤だった。無理矢理押し付けられた役なのだろう。心の底から面倒臭そうだ。
斎藤は子供が苦手だと言っていた。は自分を子供だとは思わないけれど、子供だとかそういうのを抜きにしても斎藤がの扱いに困っていることは分かる。こういう役は、本当は沖田の方が向いているのだろう。
しかし、翁と交渉したのが沖田だということを考えると、彼は斎藤よりも立場が上だと推測できる。元は愚連隊のような集団とはいえ、組織の上の人間がの世話が仮になるはずがない。こういうのは下っ端の仕事だ。
「無理しなくてもいいよ。気を遣われるとやりづらいし」
「〜〜〜可愛くない奴だな」
せっかく気を遣ってやったのに、斎藤は面白くなさそうな顔をした。子供嫌いだから、が何を言っても面白くないのだろう。
この調子では、新しい世界もにとって安らかな場所にはならないらしい。けれど、『葵屋』に居続けることに比べれば、まだマシだと思う。
「可愛げがあっても、どうせ斎藤さんは可愛いとは思わないでしょ」
「まあ、そうだが………」
図星だったらしい。斎藤は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「それなら可愛ぶっても無駄じゃない。長い付き合いになるんだから無駄なことはやめましょ」
我ながら、可愛げも子供らしさの欠片も無い台詞だ。が、これからずっと取り繕って生きていくわけにもいかないのだから、最初に本性を見せておくのが親切というものだろう。
仲良しごっこをしに行くわけではないのだから、積極的に斎藤と仲良くするつもりは無い。斎藤の世話になることにはなるだろうが、だって新選組で働くことになるのだ。この状況は斎藤には不本意だろうが、大人なのだから割り切ってもらいたい。
「本当に可愛くないな、お前」
憎憎しげにを見下ろして、斎藤は吐き捨てるように言った。
斎藤は下っ端だと思っていたら、意外にも幹部なのだそうだ。三番隊組長らしい。ちなみに、沖田は一番隊組長なのだそうだ。
新選組がまだ新しい組織だということを考慮しても、幹部が若すぎる。他の組長も斎藤たちとそう変わらぬ若さで、局長ですらまだ三十代なのだ。若い集団だけあって活気はあるものの、これを纏めるのは一筋縄ではいかないだろうとも思う。
「そのために局中法度がある。破ったら切腹だから、覚えておけよ。」
「へー………」
斎藤はそう言うけれど、切腹なんてにはいまいちピンと来ない。ああいうのは、芝居の中のもののような気がする。
反応の薄いに、斎藤は面白くなさそうな顔をする。
「言っておくが、脅しじゃないぞ。此処は、切腹と粛清で死ぬやつが一番多いんだからな」
「………………」
『葵屋』以外の場所なら何処でもいいと思っていたけれど、此処は此処でとんでもないところのようだ。どうやらには安息の地なんか無いらしい。
しかし、今更引き返すわけにもいかない。どの面下げて『葵屋』へ戻るのかというのあるが、今になって帰るなんて言ったら、それこそ切腹だ。
「殉職より切腹と粛清が多いって、頭おかしいんじゃないの?」
怖気づいたと思われるのは悔しいので、は毒づいてみせる。
新選組がこんな異常な集団だとは思わなかった。素性の分からぬ人間を束ねるには、恐怖で押さえつけるのが効率がいいと判断したのだろうが、これを忠実に実行して内部で殺し合いなんて頭がおかしい。
毒づくに、斎藤はこちらに向かってくる男を顎で指して、
「“頭おかしい”奴のお出ましだ」
どうやら曲中法度を考案した張本人らしい。どんな人間が考えたのかと思っていたが、離れて見た感じでは普通の男のようだ。
「土方副長。此処をシメてるのは、実質あの人だ」
斎藤が耳打ちする。
土方がたちの前で足を止めた。
「あ………」
土方を見上げ、は目を瞠った。
歳は斎藤よりずっと上のようだが、蒼紫に似ている。蒼紫が歳を取ったらこうなるのではないかと思うような容貌だ。
蒼紫は天涯孤独の身の上だと聞いていたから、こんなところに血縁者がいるはずがない。けれど、本当によく似ている。
驚いているを一瞥して、土方は斎藤に尋ねる。
「総司が言ってた子供か?」
「ええ。それなりに仕込まれているようなので、すぐに使いものになると思います」
上司に対してはのようにはいかないらしく、斎藤は別人のように礼儀正しい。それとも、それだけ土方というのは恐ろしい男なのか。
新選組を恐怖で纏め上げている男なのだから、見た目によらず冷酷で残忍な男なのかもしれない。けれど、蒼紫に似ているこの男は、にはそんなに悪い人間には思えない。
「あのっ……私、といいます。よろしくお願いします!」
緊張でガチガチになりながら、は大きな声でそう言って深々と頭を下げる。
本物の蒼紫には二度と会えないかもしれないけれど、彼に似た男の下で働けるのだ。それだけで、此処に来てよかったと思う。
土方は興味なさそうにをちらりと見た後、斎藤に言った。
「お前に任せる」
「はい」
拒絶するかと思いきや、斎藤は軽く頭を下げて承諾する。最初から拒否権など無いのだろう。
土方ではなく斎藤の下で働くのかと思ったら、はがっかりした。まあ、いきなり土方の下に就くのは無理にしても、いつか直接命令を請ける日が来るかもしれない。まずは実績を積んで、信頼を得ることだ。
「私、お役に立てるように頑張りますから! 何でもしますから!」
「ああ、そうか」
熱く訴えるとは対照的に、土方の声は冷め切っている。どうせ子供の言うことだと思っているのだろう。
がもっと大人だったら、土方の反応は違っていただろうか。彼から見れば子供かもしれないが、は見た目よりもずっと大人だ。その辺の大人よりも、それこそ斎藤なんかよりもいろいろなものを見てきたと思っている。
何とかして、一日も早く土方に認めてもらわなくては。そのためには何をすればいいのだろう。はぎゅっと拳を握り締めた。
「最近のガキは色気づくのが早いなあ」
土方と別れてすぐ、斎藤が皮肉っぽく言った。の反応を、土方に惚れたのだと思っているのだろう。
「そんなんじゃないから」
どうしてこの男は、そういう風にしか人を見れないのだろう。斎藤の頭の中はそれしかないのかと、は苛立った。
の土方への感情は、そんな下世話なものではない。純粋な忠誠心とも違うけれど、斎藤が想像しているようなものではないことは確かだ。
は土方の顔を思い浮かべる。冷淡にも見える端正な顔も、静かな低い声も、本当に蒼紫によく似ていた。あの人に認められたい。此処に来たのは、あの人のために働くためだとさえ思えてきた。
最初こそどうしたものかと後悔したけれど、やっぱり御庭番衆を出て正解だった。あの土方という人が、これからは蒼紫の代わりになってくれる。
「あの人は子供を甘えさせてくれるような人じゃないぞ。期待するだけ無駄だ」
「そんなんじゃないってば」
斎藤はどうしてもそういう方向に話を持っていくけれど、が求めているのはそういうことではないのだ。それとも、自分の受け入れてもらいたいと思うことが甘えだと、斎藤は言うのだろうか。
何を言っても無駄だと悟ったのか、斎藤は諦めたように溜め息をついた。
「まあいい。俺は忠告したんだ。お前がこれからどうなろうと、俺は知らんからな」
斎藤は吐き捨てるように宣言する。
そういう言い方をすればが少しは考えると思っているのだろうが、斎藤に言われたところでどうということはない。斎藤にはの気持ちなど理解できはしないのだ。
「別に斎藤さんに知ってもらおうなんて思ってないから」
これから何があったとしても、斎藤に頼る気なんか無い。今までだって、誰にも頼らずやってきたのだ。これまでと何も変わらない。
頑ななを横目で見て、斎藤は面白くなさそうにむっつりした。