第一章 そして、一粒の光
初めて知った真実に、どうして良いか分からないまま『葵屋』を飛び出してしまっただったが、これからのことを考えると真実から目を逸らすわけにはいかない。父親が御頭であること、そして母子共々捨てられたこと―――――こんなことなら、父親が判らないままの方がよかった。母親が勝手に生んで、父親はのことを知らないままというのなら、まだ許せる。母親は好きな男の子供を生んで勝手に満足したと思えるし、父親も最初から知らないのだから捨てたわけでもない。
だが、同じ御庭番衆の中の、しかも御頭が部下の女に子供を生ませて、しかも自分の子だと知りながら今までずっと知らぬふりをしていたなんて、明らかな悪意を持って捨てたとしか思えない。そんな父親をどうして許せるだろう。“父親”という言葉を使うことすら汚らわしいくらいだ。
けれど翁はきっと、に御頭を許すことを求めるだろう。父親だと名乗ることは無くとも、陰ながらお前の事を守ってきたのだと繰り返し言うに違いない。
御頭は陰ながら守ってきた―――――それは本当かもしれない。けれどにとっては、ずっと捨てられていたも同然だった。御庭番衆の中でを守ってくれたのは蒼紫だけで、それ以外の人間はみんな敵だ。
守る気があ
ったのなら、どうして母親のことも守ってくれなかったのだろう。御頭が母親の事を守ってくれていれば、御庭番衆の中に彼女の居場所があれば、にはもっと違う今があったはずなのに。
今更どんな言葉を尽くされても、許せるわけがない。が許してしまったら、母親があまりにも哀れではないか。母親のためにも、絶対に御頭のことは許せない。
御頭も許せないが、同じくらい翁も許せない。このことを知っていながら黙っていたなんて。が生まれた頃、翁はまだ江戸城にいたはずだ。どうしてその時にみんなに真実を語らなかったのだろう。御頭と母親が隠していても、おきなが口を開けばだって―――――
と、すれ違いざまに大柄な男とぶつかった。
「あっ………!」
ぼんやりしていたせいで、男に跳ね飛ばされて尻餅をついてしまった。
「何処見てやがる! 気ぃ付けろ!」
立ち上がろうとするの背中に、男の怒声がぶつけられる。
ぼんやりと歩いていたも悪いが、避けなかった男も悪いだろう。男の言い草にカチンときて、も怒鳴り返す。
「そっちこそ気を付けなさいよ!」
「何だと?!」
聞き流すかと思いきや、男が戻ってきた。しかも連れまで一緒である。連れもまた大男であるから、普通の子供であれば怯えて声も出せないところだが、あいにくは普通の子供ではない。は舌打ちをして睨み付けた。
ぶつかった男と連れを合わせて、相手は三人。柄の悪い喧嘩慣れしていそうな連中だが、御庭番衆のの敵ではないだろう。
立ち上がって着物に付いた土を払い、は男たちを見上げてゆっくりと言う。
「そっちこそ気を付けろって言ったのよ。聞こえなかった?」
小馬鹿にするように言われ、男たちはぽかんと間抜けな顔をした。まさかこんな子供に喧嘩を売られるとは思わなかったのだろう。
何も知らないものから見れば、は気が強いだけの非力な子供である。周りに頼れる大人の男がいるわけでもない。それで大の男三人を相手に喧嘩を売ろうというのだから、馬鹿だと思っているのだろう。
男の一人が、の胸倉をぐっと掴み上げる。
「口の利き方を知らねぇガキには躾をしてやらないとなあ」
そう言うが早いか、男はの顔をめがけて拳を振り上げる。が、は男の拳を片手で軽々と受け止めると、思い切り向こう脛を蹴りつけた。
「ぐぁっ………!!」
「このクソガキっ!」
蹲る男の代わりに、今度は連れの二人が同時に殴りかかってきた。はそれをぴょんと避ける。
阿佐緒の件で牢に入れられて以来、ずっと大人しくさせられていたから、いい運動だ。体慣らしにはこれくらいの雑魚の相手が丁度いい。
一気に片を付けてもよかったが、適当に手を抜きながら相手をする。が手を抜いているのは相手にも伝わっているようで、苛立つ男たちの顔を見るのは面白い。
相手の必死な顔を見て面白がるなんて、我ながら根性が悪いとは思う。きっとの根性の悪さは、父親に似たのだろう。
小馬鹿にするようにぴょんぴょんと避けながら適当に相手をしていたが、そろそろ飽きてきた。もう潮時かとが構えた時、後ろから若い男の声がした。
「はいはい、そこまで」
この場に不相応な暢気な声でそう言うと、若い男はの肩を掴んで自分の方に引き寄せた。
振り返ると、そこにいたのは少女のような優しげな顔をした青年と、彼より背の高い痩せた目つきの悪い男だった。青年はその優しげな見た目からは思いもよらない強い力でをしっかり押さえつけると、殺気立っている男たちに暢気な声で言う。
「相手は子供なんですから、そろそろ許してあげてくださいよ。天下の往来で大の大人が三人がかりで、みっともない」
「うるせえっ! そのガキ、こっちに寄越しやがれ!」
「こんなところで暴れられると、皆さんのご迷惑にもなりますし―――――」
「この辺でやめておけ。もっとみっともないことになるぞ」
目つきの悪い男が横から口を挟む。どうやらこの二人はずっとたちのことを見ていたらしい。
何だかよく分からない二人だが、彼らが邪魔だと思うのはも同じだ。せっかくの鬱憤晴らしの機会が転がり込んできたのに、勝手に仲裁をされたら面白くない。
「何のつもりか知らないけど、邪魔しないでよ」
抗議するの口を、目つきの悪い男が大きな手で塞ぐ。そして今度は男たちに向かって、
「これ以上ゴタゴタするようだったら、こっちにも考えがあるぞ」
男の放つ殺気に、目の前の男たちどころかまで血の気を失った。ここで大人しくしていないと、まで殺されるかもしれない。
この二人は一体何者なのだろう。背の高い男の目つきもそうだが、を捕まえている青年も只者ではないような気がする。にこにこして捕まえているだけのように見えるが、青年には全く隙が無いのだ。下手に動けば、こいつにも何をされるか分かったものではない。
背の高い男に睨み付けられて金縛りに遭ったように固まっていた男たちだったが、そのうちの一人が忌々しげに舌打ちをした。
「今日のところは勘弁してやるけどな! 次は承知しねぇぞ、クソガキ!」
負け惜しみの手本のような捨て台詞を吐くと、男たちはぞろぞろと歩いていった。
何だか訳の分からないまま丸く収まってしまったようである。ここはが礼を言うべきなのだろうが、何だか釈然としない。
ぶすっとしているに、青年が優しく声をかけてきた。
「いやあ、良かった良かった。お譲ちゃんも気を付けないと駄目だよ。最近、柄の悪いのが多いからね。また絡まれたらいけないから、家まで送ってあげるよ。何処に住んでいるの?」
「………………」
『葵屋』には帰りたくない。不機嫌な顔のまま、は押し黙った。
優しそうな青年は沖田、目つきの悪い男は斎藤というのだそうだ。二人は同じ仕事をしている仲間なのだと、沖田は歩きながら説明した。
仕事仲間と出かけるなんて、には信じられないことだ。御庭番衆の誰かと外出したことなど無いし、蒼紫とさえ一緒に出かけたのは一度きり―――――母親の死体を見に行ったあの日だけ。もともと御庭番衆は単独行動が多いせいで、他の者も誰かと連れ立って遊びに行くということは無かったようだから、そういうものだと思っていた。どうやら世間では、仕事仲間と遊びに出かけるというのは当たり前のことらしい。
それにしても、この二人が一緒にしている仕事というのは何なのだろう。あの雰囲気からして普通の仕事とは思えないのだが、二人は仕事について何も言わない。
「ほら、食え」
連れて行かれた団子屋の長椅子に座っているの前に、斎藤が串団子を突き出した。
「あ……ありがとう………」
躊躇いながらもは団子を受け取ると、はもそもそと食べ始める。
あれから何度も家の事を訊かれたが、は一言も答えていない。子供好きらしい沖田はともかく、斎藤はもう持て余し気味のようだ。団子を食わせて懐柔しようと考えたのだろう。
「で、家は何処だ? いい加減帰らんと、親が心配するだろう」
「親なんかいないし」
「親はいなくても、家はあるだろう。送ってやるからさっさと言え」
「まあまあ、斎藤さん。取調べじゃないんですから。相手は子供なんですから、怖がらせちゃ駄目ですよ」
まるで尋問するような口調で尋ねる斎藤を宥めるように、沖田が口を挟む。が、斎藤は憮然として、
「こいつが怖がるようなタマか」
「いや、でも一応女の子ですし―――――」
「訓練を受けているような奴は“女の子”とは言わん」
沖田の言葉を遮って、斎藤はきっぱりと言った。そして今度はを睨み付け、本格的に尋問のような口調で尋ねる。
「お前、一体何者だ? あの様子だと、随分昔から訓練されているようだが」
やはりこの二人は、最初からあの騒ぎを見ていたらしい。面倒な輩に捕まったものだと、は溜め息をついた。
相手が何者か判らないのに、自分のことは話せない。は隠密で、しかも今は微妙な立場なのだ。ただでさえ他人には言えない立場なのに、明らかに只者ではない二人に話せるわけがない。
は団子を飲み下すと、茶を啜った。
「人の素性を聞く前に、自分の素性を言うのが先でしょ」
「………このクソガキ」
すました顔で応じるの様子に、斎藤は忌々しげに舌打ちをした。
今日はよくよくクソガキ呼ばわりされる日だ。確かにクソガキなのだろうと、も思う。まあ、クソ爺の子供なのだから、クソガキに決まっている。
すっかり険悪な雰囲気が出来上がってしまっている二人を見て、何が可笑しいのか沖田は楽しげに笑う。
「面白い子だなあ。斎藤さんを怖がらないなんて、大したもんだ」
「別に怖くないよ、こんなおじさん」
「おっ………?!」
の言葉に、斎藤の顔が真っ赤になる。同時に、沖田がぷっと噴いた。
「おじさんは酷いなあ。斎藤さん、僕より年下なのに」
「えっ?! 嘘っ?!」
今度はが顔を赤くした。沖田と斎藤の顔を交互に見比べてみるが、どう見ても斎藤の方が十は年上に見える。これで斎藤の方が年下だなんて、相当な老け顔だ。
世の中には老け顔の人間はこれはいくら何でも老けすぎだろう。あまりのことに、は唖然として言葉が出ない。
落ち込んでいる斎藤を無視して、沖田は勝手に話を進める。
「まあいいや。僕たちは新選組っていってね、この町を守るお仕事をしてるんだよ」
「新選組………」
京都の事情に疎いでも、新選組のことは知っている。不逞浪士を取り締まる仕事なら、多分京都御庭番衆と似たようなものだ。確か会津藩の預かりになっているが、元締めは幕府なのだから、仲間といえば仲間である。
元締めが同じなら、を引き取ってくれないだろうか。新選組がどんなところかは知らないが、『葵屋』にいるよりはいくらかマシだと思う。あそこは剣客集団らしいが、きっとにできる仕事もあるはずだ。
この二人は若いから下っ端だろうが、上の人間に話を付けてもらって、それからおきなに話を持っていってもらえば、京都御庭番衆から新選組に異動できるかもしれない。おきなだってきっと、のようなお荷物はどうにかしたいと思っているはずだ。
そうと決まれば即行動だ。何が何でも絶対に御庭番衆とは縁を切ってやる。
は沖田の方にぐっと身を乗り出した。
「私は京都御庭番衆の隠密です。でも新選組で使ってください」
御頭が母親を捨てたように、今度はが御庭番衆ごと御頭を捨ててやる。そのためだったら何だってできる。
の言葉に、沖田も斎藤も驚くと同時に困ったように顔を見合わせた。