第三章 阿片
茶器を載せたワゴンを押して廊下を歩いていると、微かな女の悲鳴が聞こえた。空耳かと思うような声だったが、絶対に空耳などではない。はその場にワゴンを置くと、声の方に走った。
「?!」
声の正体は、屋敷では見たことの無い、道行を着た女だった。長い髪は結っておらず、顔はよく見えない。ただ、姿の感じから若いらしいことだけは判った。
女は蒼紫に腕を掴まれていて、それを振りほどこうと暴れている。よく解らないがただならぬ雰囲気に、は思わず近くの観葉植物の陰に身を隠した。
蒼紫は女を壁際に引っ張って行こうとするが、女は何やら喚きながら抵抗する。蜘蛛の巣がどうとか言っているようだが、には意味が解らない。
意味は解らないが、蒼紫が女と揉めているというのはただ事ではない。あの女は何者なのだろう。
「あの女は高荷恵という者です」
二人を凝視するの頭上から男の声がした。
びくっとして上を見るが、天井に変わった様子は無い。からは見えないが、天井裏から見える隙間があるのだろう。
こんな所にいるということは、御庭番衆の誰かということだ。そしてずっとを見張っていたということなのだろう。
ずっと見張られていたというのに、声を掛けられるまで気付かなかった。が屋敷を探っていたのを蒼紫に報告していたのも、この男だったのだろう。
にも気付かれないほど気配を消しきることの出来るこの男は―――――
「般若なの?」
ここまでできるのは、蒼紫直々に仕込まれた般若しかいない。懐かしい思いでは天井を見上げた。
「お久し振りです」
天井からも懐かしい声が返ってきた。
声は大人のものに変わってしまったが、中身は変わっていないようだ。般若の口調は昔と変わらず優しい。
「あの女、何なの?」
般若なら、あの女のことを教えてくれるような気がした。を見張っているのだから、いざとなれば彼女を妨害する側に回る人間なのだが、それでもきっと教えてくれる。般若にとって、は蒼紫と同じなのだから。
少しだけ間が空いて、天井から返事が返ってきた。
「観柳の“金のなる木”です」
「どういうこと?」
観柳に表の仕事以外に資金源があることは解っていた。おそらくそれが本業だろうということも。ただそれは裏社会の人間と関わることで、あんな若い女が資金源だとは思わなかった。
あんな小娘が莫大な金を生み出すなんて、一体何を握っているのだろう。親から受け継いだ資産か、それとももっと違う何か――――― 例えば政財界の大物を強請れる情報を集める女なのだろうか。
女を使って標的の情報を引き出すのは、大昔からある古典的な手法だ。も昔はそういう要員だった。
蒼紫と恵は少し揉み合った後、壁の中に吸い込まれるように消えた。
「?!」
思わず目を疑っただが、冷静に考えてみれば壁に仕掛けがされていただけのことだろう。壁の向こうに隠し部屋でもあるのか。
蒼紫と観柳が持っていたあの鍵は、壁の向こうにある隠し部屋の鍵だったのだ。隠し部屋の鍵なら、家政婦が持っているはずがない。
だがそうなると、恵の存在はますます謎だ。隠し部屋に閉じ込められているのだとしたら、彼女はどうやって金を作っているのだろう。
「“蜘蛛の巣”という薬をご存知ですか?」
「噂話程度にはね」
巷を騒がせている新型阿片の名が出てきて、は些か面食らった。
“蜘蛛の巣”は阿片から精製される麻薬で、生産量も依存性も通常の阿片の倍になるらしい。売人にとっては夢のような薬だ。
通常の阿片でも一国を潰す力があるのだから、それの改良品となったらその威力は想像するだけでも恐ろしい。現に、出回ってまだ間もない“蜘蛛の巣”を巡る事件は、連日新聞を賑わせている。
これほどまでに世間を騒がせている“蜘蛛の巣”であるが、出所は未だ掴めていないという。まさか―――――
「高荷恵は、“蜘蛛の巣”の製造法を知る唯一の人間です」
般若の声からは何の感情も窺えない。完全に仕事と割り切って、“蜘蛛の巣”の製造にも密売にも関心が無いようだ。
主が犯罪に手を染めていようが、それに従って自分の任務を果たすのが隠密だ。隠密は主人の道具に徹するべきであって、意見を差し挟むものではない。般若も蒼紫もそう思って、此処での仕事を淡々とこなしているのだろう。
かつての江戸城御庭番衆が麻薬密売の片棒を担いでいるなんて、には衝撃的なことであったが、それも時代の流れだと思い直す。蒼紫の性格では商売人は無理だし、どこかに勤めるにしても職種に限りがある。仕官の話はあったらしいが、残った部下ごと引き受けるところがあるはずもなく、そうなるとこんな如何わしい実業家くらいしか仕事の口はない。蒼紫も般若も思うところはあるだろうが、生きていくためには仕方のないことだ。
それよりもが気になるのは、高荷恵とかいう女のことだ。あんな若い女が一人で、世間を騒がす麻薬を作っているとは思わなかった。しかも製造法を知る唯一人の人間だとは。
は薬の製造にそれほど詳しくはないが、阿片を精製して新たな麻薬を作るにはそれなりの知識と技術が要求されることくらいは察することが出来る。そんな知識は、その辺の女が容易く手に入れられるものではないはずだ。男にだって難しい。
女の身で、しかもあの若さで薬物の知識を身につけるとは、一体何者なのだろう。そして、新型阿片の製造という大罪に手を染めるなんて、若い女の身で何を考えているのか。
「高荷恵、か………」
その名を呟いて、は考え込む。
恵のことは全く知らないが、その名前には心当たりがある。もし彼女がの考える通りなら、これは大変なことだ。
真相がどうであれ、一度恵に接触してみる必要があるようだ。問題は、どうやってあの壁の向こうに入るかだが―――――
蒼紫と般若がいる時には、絶対に無理だろう。いつが一番良いか、鞘は自分の仕事も忘れて考え始めた。
「般若と話したそうだな」
の部屋に入って早々、蒼紫が口火を切った。
般若と話したときの様子は、全て蒼紫に筒抜けなのだろう。それはも予想していたことである。
「ええ。“蜘蛛の巣”のことも聞いたわ」
何でもないことのように、はあっさりと答える。
「高荷恵のことを気にしていたようだが?」
「あなたと何か特別な関係でもあるんじゃないかとおもっただけ。でも般若の話を聞いたら誤解だったみたいだから、もういいわ」
そこは咄嗟に嘘をついた。本当のことを話したら面倒なことになるのは目に見えている。
の答えに、蒼紫は不機嫌そうに眉間に皺を寄せた。つまらぬ誤解が面白くなかったのかと思いきや、蒼紫の口から出たのは全く別の言葉だった。
「お前、高荷恵を知っているのか?」
般若もの変化には気付いていたらしい。子供の頃から知っている相手なのだから、気付かないはずがない。
ここは知らない振りをするべきか。否、変に隠せば、いらぬことまで探られるだろう。そうなれば余計に動きにくくなる。
どう答えれば自分にとって一番得か素早く考えて、は口を開いた。
「高荷恵については、会ったことも無い、知らない女よ。高荷って名前が、一寸気になっただけ」
「そうか………」
そう言ったきり、蒼紫は黙って考え込む。が恵に関心を持つのが面倒だと思っているのか。
蒼紫の立場では、が恵に関心を持って何か行動を起こしたら面倒だろう。も出来れば蒼紫とは事を構えたくはない。
蒼紫が困るような真似はしないと言いかけた時、蒼紫が先に口を開いた。
「あの女には手を出すな。あれは俺たちにとっても大事な女だ」
「………は?」
予想外の言葉に、の表情が固まった。
“大事な女”だなんて、一体どういう意味なのか。金を生み出す女だから、という意味ではない言い方だ。一人の女として大事だとでもいうのだろうか。
もしそうであるなら、よくもまあの前で言えたものである。それはそれ、これはこれ、などと調子の良いことを思っているのだろうか。
否、蒼紫は言葉が足りないところがあるから、の思い違いなのだろう。主の大事な“金のなる木”を守るのは蒼紫たちの大事な仕事だから、そういう意味では“大事な女”に違いない。
心を落ち着けて、は試すように言ってみる。
「そうね。あの女がいなくなったら、観柳が大変だもの」
「観柳は関係無い」
きっぱりと言い切られ、は頭がくらっとした。怒りのせいなのか嫉妬なのか、自分でもよく判らない。
観柳関係無しで大事だなんて、どういうつもりなのだろう。“大事な女”だなんてにも言ってくれたことが無いのに。
恵のことに関しては蒼紫と角を立てないようにしようと思っていたが、もう知ったことではない。のやりたいようにやらせてもらう。
「ああ、そうですか。じゃあこんな所で遊んでないで、せいぜい大事な恵サンを見張ってなさいよ。はい、サヨナラ!」
「え………? ちょっ………」
突然怒り出したに戸惑う蒼紫を、彼女は乱暴に廊下に押し出した。