序章 秘密
京都からの迎えの者は詳しい事情を知らされていないはずだが、が何故江戸城を追われることになったのかは察していたらしい。厄介者を引き受ける羽目になったとでも言いたげな様子が痛いほど伝わってきて、こんな空気には慣れているはずのも道中はひどく気詰まりだった。おまけに迎えの人間はの一挙一動を四六時中監視し続け、彼女が何かする度に緊張が走る。今更自害をするつもりも、江戸へ戻るつもりも無いのだが、同行者はそうは思ってくれなかったようだ。江戸に戻られては困るというのは理解できるが、厄介者が自害したところで困ることは何も無いはずなのだが、彼らにとっては何か困ることがあるのだろう。
あんなことがあっても追放だけで済んで、自害をされても困る事情というのは一体何なのだろう。訊いてみたいが、相手はとの会話を完全に拒絶している。口を利いてはいけないと言われているのかもしれない。
そんな旅だったから、京都に入った時は心底ほっとした。連れもそれは同じだったようだ。雰囲気が幾分和らいで、それにもはほっとした。
が、安心したのはその一瞬だけで、目的地に到着した頃には再び微妙な空気に包まれることになる。江戸でのこともの素性も既にこちらまで伝わっていたらしく、誰も彼もがよそよそしい。よそよそしいくせに、のことを監視しているようだ。
京都御庭番衆の拠点は、『葵屋』という旅館である。こちらの隠密は御頭の“翁”を主人として、以下使用人という形で組織されている。
拠点が旅館というのには驚いたが、江戸と京都を行き来し、街中で情報を収集するには大変都合のいい隠れ蓑だ。しかも、旅館の体を取っていれば、さまざまな人間が出入りする。彼らの会話からも情報を集めることが可能で、下手をすれば情報収集に関しては江戸城御庭番衆より上かもしれない。
ここで仲居の仕事をしながら情報収集をするのが、これからのの仕事になるのだろう。それは構わないのだが、これから此処で生活するのは正直気が重い。江戸城にいた頃は蒼紫が何くれと無く支えてくれていたけれど、今日からはたった一人で生きていかなければならないのだ。
「あの時の子が………道理で儂も歳を取るはずだ」
と二人きりになって、それが翁の第一声だった。その声が何故か懐かしげで、は怪訝な顔をする。
は翁のことを知らないが、翁はを知っているらしい。きっと彼女が物心つく前に会ったことがあるのだろう。しかし、この懐かしげな様子は何なのか。忌まわしい子として生を享けたをそんな目で見るなんて、不思議で仕方が無い。
「ますます母親に似てきたな。お前の母親が御庭番衆に入ったのは、ちょうどお前くらいの歳だった」
わざとなのか、翁はが一番耳にしたくない話題を持ってきた。嫌がらせなのかと思いきや、本当に昔を懐かしんでいるだけのようだ。
翁の真意が全く解らない。何故を見て懐かしそうな顔をするのか、そして彼女の母親のことを懐かしげに語るのか。
あの女の存在に、はずっと苦しめられてきた。あの女飲む輔というだけで居場所も無く追い詰められた挙句に、取り返しのつかない失敗を犯して京都に追いやられてしまった。蒼紫も阿佐緒も巻き込んで―――――何もかもあの女のせいだ。そんな女のことを今更引っ張り出されても不愉快でしかない。
江戸城では名前すら出ることも無く、自身も思い出すまいと努めていたのに、今になって翁の口から懐かしげに語られるとは。まるで墓の下にあるはずの死体が蘇ってきたかのようだ。
気持ち悪さを堪えるようなの表情に気付いて、翁は諭すように言う。
「そんな顔をするな。気持ちは解らぬでは無いが、それでもお前の母親だ。たった一人の肉親がそんな顔をしては、あまりにも憐れじゃろう」
その言葉は遠い昔にも聞いたことがある。同じことを言ったのは、蒼紫だったか。
地を分けたたった一人の肉親に疎まれ、憎まれるのは、確かに憐れだとは思う。しかし、母親のせいで生れ落ちた瞬間から周りに疎まれ続けてきたは憐れではないのか。の方こそ被害者だ。
まるでの方が一方的に悪いような言い草に、ますます不機嫌になる。死んだ人間のことを悪く言わないのは美徳なのかもしれないが、それではあまりにもの立場が無いではないか。
「私はあんな人を母親だとは思っていませんから。後先考えずに父親が誰とも知れぬ子供を産むなんて、考えられません」
「お前は父親の事を何も聞いておらぬのか」
の言葉に、翁は少々驚いたようだ。何故驚くのか、その方がには分からない。
ひょっとして、翁はの父親について何か知っているのだろうか。もしそうだとしたら、この反応も納得がいく。
「私の父について、何かご存知なのですか?」
今更父親に会いたいとは思わないけれど、もし知ることができるのなら知りたい。たとえそれが自分の望む答えではないとしても、自分が何者なのか知りたい。
父親が誰だとしても、今更の立場は変わらないのだ。その男が今も生きているのか判らないが、仮に生きていたとして、それが不逞浪士の誰かだったとしても、は躊躇わずに斬ることができるだろう。父親なる男も、を苦しめた人間の一人なのだ。いっそ、この手で殺してやりたい。
「私の父親が誰なのか知ってるんですね? 誰なんですか?」
膝を詰め、答えを聞くまでは絶対に逃がすまいとするの強い目に、百戦錬磨であるはずの翁もたじろいだ。真実を知ろうとする気持ちは、何よりも強いものらしい。
の父親が誰か、確かに翁は知っている。彼女の両親以外に真実を知っているのは、おそらく翁だけだ。この機会を逃したら、父親の正体は一生謎のままだろう。
翁は苦しげに小さく唸る。の父親のことは、それほどまでに大きな秘密なのか。
長い長い沈黙があって、漸く翁は覚悟を決めたように口を開いた。
「話をする前に、これだけは言っておく。お前の父親は、決してお前やお前の母親を見捨てたわけではない。いつもお前たちのことは気にかけていた。今でもそうじゃ。それだけは信じてやってほしい」
「………え?」
翁の真剣な前置きに、は嫌な胸騒ぎがした。緊張ではなく、もっと禍々しいもののせいで、胸が締め付けられるようにドキドキする。
の父親は敵ではなく、こちら側の人間だったのか。そして、どうやら父親は今でも生きているらしい。
しかし今までのの人生で、のことを気にかけてくれた人間など、蒼紫以外にはいなかった。一体誰が父親なのだろう。
隠密だった母親に接触できる人間は、ある程度限られてくる。彼女の行動範囲は江戸城内か潜入先しかないのだ。そうなると父親の可能性のある男は、城内の人間、それも御庭番衆周辺の人間に限られてくる。
「それは………」
そんなことはありえない。御庭番衆の人間は、蒼紫を除いて誰も彼もに冷たかった。蒼紫以外の誰か一人でも優しく接してくれる者がいてくれたら、こんなことにはならなかったはずだ。
掌にじっとりと嫌な汗を書いては膝の上で拳を握り締める。
翁は見捨てたてたわけではないと言っているが、にとっては母娘まとめて父親に打ち捨てられたも同然の扱いだった。今更許せと言われても、許せるものではない。
硬い表情で俯くに、翁は諭すように言葉を続ける。
「確かにお前からすれば、今更何を言ったところで言い訳にしかならんじゃろう。しかしな、お前の父親は、表立ってお前を守ることはかなわなんだが、陰ではいつもお前を守っておったんじゃ」
「守られていた覚えなんてありません」
怒鳴りたいのを必死に堪え、はどうにかそれだけ言う。
「それはお前が気付かなかっただけだ。御庭番衆の中で居辛かったお前を大奥に移したのは誰だ? 偽宮の一軒を揉み消し、本来なら始末されるはずだったお前を京都に行かせて有耶無耶にしたのは誰だ?」
「それは………。だって、そんなこと………まさか………」
翁の言葉に、は激しく動揺した。翁の言うことが真実だとしたら、の父親は―――――
そのことを受け入れられず真っ青な顔で震えるに、翁は止めを刺すように言った。
「お前の父親は、御頭だ」
「御頭………」
言葉にされてもそれを受け入れることを全身が拒否して、は魂が抜けたような弱々しい声で呟く。
御頭が自分の父親だなんて、ありえない。の母親と御頭は、親子ほどの歳の差があるのだ。そんな二人の間に子供ができるなんて、信じられない。
信じられないが、がここにいるのだから、親子ほど歳の差があっても子供はできるのだろう。しかし、いくら何でも御頭が父親だなんてあり得ない。第一、御頭の娘なら御庭番衆の中でのの立場は、今と正反対であってもいいはずではないか。御頭の息子は若様扱いである。それならだって姫様だ。
勿論、正式な子ではないを姫様扱いしろなんて言わないが、せめて御庭番衆の一員として普通に扱ってほしかった。他の御庭番衆の子供たちと同じように、普通に愛情を注いでほしかった。御頭は守ってくれたと言うけれど、本当に守ってくれていたのは蒼紫だけで、それを恨むなと言われても恨まないわけがない。
大体、御頭がを娘だと認めてくれていれば、こんなことにはならなかったのだ。母親だって、あれほどまでに仲間に蔑まれなくても済んだはずだ。そう思ったら、今まで憎んでいた母親が急に憐れに思えてきた。
口では何とでも言える。結局御頭はと母親を捨てたのだ。情報を取るためなら誰彼構わず男と寝るような女など、本気で大事にしようなどとは思わなかったのだろう。そんな女から生まれた娘も同じだ。
それでも母親にとっては、御頭は大切な男だったのだろう。だから誰にも邪魔されないように一人で産んで、御頭の名に傷が付かないように相手の男の名前を墓場まで持って行ったのだ。にしてみれば自分勝手な女だが、それでも憐れだと思う。
「お前から見れば卑怯な男に見えるかもしれない。だが、御頭は―――――」
「………もう結構です」
翁はまだ何か言いかけたが、はもうこれ以上何も聞きたくなかった。今更何を言い訳されても、納得できるわけがない。しかもその言い訳を自分の口からではなく、部下の口から言わせるなんて最低だ。
「私には父親なんて最初からいませんでしたから。これからもずっとそうです」
冷ややかな声でそう言うと、は部屋を出て行った。