第六章  地下室

 身体がひどく痛む。両腕を後ろ手に固定されて、寝返りを打つのも儘ならない。
「……………」
 江戸城の地下奥深く、日の光も射さぬ此処は、秘密裡に処分される人間を置く部屋だ。此処に入れられたが最後、二度と日の目を見ることなく処刑され、城内の空井戸に捨てられるのだと聞く。
 母親のようになりたくないと、ずっと思っていた。あの女のように誰にも顧みられることなく、塵のように打ち捨てられる惨めな死に方だけはしたくないと思っていた。そう思っていたのに、現実はこの有様だ。裏切り者として仲間の手で殺され、空井戸に捨てられるなんて、これほど惨めな死に方はない。
 一体どこで間違えたのだろう。はただ、蒼紫のために力が欲しかっただけなのに。蒼紫の隣には般若とかいう新参者ではなく、こそが相応しいということを認めさせたかった。それが間違いだったということなのか。
 否、違う。間違いだったのは、蒼紫を信用し、信頼してしまったことだ。味方だと信じ、全てを曝け出してしまったこと。他人を信じれば裏切られると解っていたのに、どうして信じてしまったのだろう。
 生まれのせいで御庭番衆に馴染めなかったに、蒼紫だけがいつも優しくしてくれた。だから信じてしまった。どんな時も自分の味方になってくれると信じていたのに。
 自分の愚かしさに笑いがこみ上げてくる。
 他人の優しさに飢えていたは、さぞかし騙しやすかったに違いない。犬のように盲目的な信頼を寄せるの姿は、蒼紫の目にはどう映っていたのだろう。あの優しい顔の裏で、馬鹿な奴だと嘲笑っていたのだろうか。
 結局、は誰からも大切に思われることの無い人間だったのだ。利用されるだけ利用されて、都合が悪くなったら捨てられる―――――母親と同じではないか。否、信頼していた人間に捨てられた分、の方が下か。
 あまりの可笑しさに腹を抱えて笑いたいところだが、笑いの代わりに涙が出てきた。
 本当に馬鹿だと思うけれど、この期に及んでまだ蒼紫の優しさに縋りたい自分がいる。あれが演技だったとしても、少しは真実の優しさがあったのではないか。たとえそれが物や獣に対するものと同じだったとしても、優しくしてやろうと思う一瞬があったのではないか。あれが全部嘘だったなんて思いたくない。
 ふとあの時の、友谷の家の庭での蒼紫の姿を思い出す。あの時、蒼紫はを連れ戻そうとしていた。「今なら誰にも気付かれない」と。そして御頭が現れた時のあの驚いた顔。最初から嵌めるつもりだった人間が、あんな顔をするだろうか。
 もしかしたら蒼紫も、と阿佐緒のことを御頭が知っているとは思っていなかったのではあるまいか。彼もまた、と同じく泳がされていたのではないだろうか。
 それは現実逃避の空想に過ぎないかもしれないけれど、それが真実であってほしい。ほかの人間だったらそんなことは考えもしないけれど、蒼紫だけはそうだと思いたい。こんなことになってしまった今でも、彼が自分を裏切ったとは思いたくない。
 とにかく蒼紫に会いたい。会って話がしたい。本当にを裏切ったのか、それとも蒼紫にとっても予想外のことだったのか、真実を知ってから死にたい。
 と、牢の鍵が外される重い音がした。
「やっと気が付きましたね。このまま目を覚まさなかったらどうしようかと思いました」
 入ってきたのは般若だった。よりにもよって、最後に見る顔がこれだとは。
 きっと、が意識を取り戻すのを待って始末することになっていたのだろう。新入りに度胸を付けるさせるために仲間の始末をやらせるのは、よくあることらしい。そういえばの初めての仕事も、仲間の処刑だった。
 泣いた顔を見られないように、は顔を背ける。最期の様子は蒼紫にも伝えられるだろうから、その時に「泣いているようだった」と言われるのは嫌だった。
 顔を背けたまま黙り込んでいるに、般若は心配そうに話しかける。
「大丈夫ですか? どこか痛むところはありませんか?」
 これから殺す相手にそんなことを訊くなんて、間抜けにも程がある。始めて人を殺すのだから、何を言っていいのか分からないのだろう。こんなのが蒼紫の片腕だなんて信じられない。
 何を言えばいいのか分からないなら黙っていればいいのに。下手に言葉を交わして情でも移ったら、始末する手が鈍ってしまうではないか。
 としても、こういうことはさっさと済ませてもらいたい。殺されるまでの時間が長いというのは、いい気分はしない。
「あんたが来たんだ。さっさと済ませたら?」
 般若の方を見もせずに、はぶっきらぼうに吐き捨てた。
「え? 俺は迎えが来るまでの見張りなんですけど………」
 般若は訳が分からない様子で困惑する。
「………迎え?」
 ここで初めて、は般若を見た。
 どうやら般若はを殺しに来たわけではないらしい。しかし、“迎え”とは一体何なのか。
 じっと見つめるに、般若はしどろもどろになりながら説明する。
「明日、京都から迎えが来るんです。だからそれまで、様が自害なさらないように………」
「京都?!」
 般若の意外な言葉に、は思わず頓狂な声を上げた。
 京都にも御庭番衆があると聞いている。“迎え”というのは、その京都御庭番衆のことだろう。偽宮の正体を知っている人間が大奥にいると厄介だから、遠い京都に放り出すことにしたのか。
 しかし、こんな重大な秘密を知った人間を殺さずに京都にやるだけで済ますなんて、どういうことだろう。の言うことなど、誰もまともに取り合わないと思っているのだろうか。御頭がそんな甘い人間だとは思えないのだが。
 命こそ助かったものの、それが喜ばしいことなのかには分からない。京都御庭番衆にもの出自を知っている者はいる。蒼紫のように優しくしてくれる者もおらず、大奥という逃げ場も無い京都での暮らしは、今以上に辛いものになるのは確実だ。
 向こうに行ったら、此処で死んでおけばよかったと思うこともあるかもしれない。けれど、生きてさえいればまた蒼紫に会える。いつか蒼紫に会うことができれば、あの日のことを訊くこともできるだろう。そう思えば、これから何があっても耐えられるような気がした。
 もしかしたら、の京都行きを提案してくれたのは蒼紫なのかもしれない。遥か遠い京都にやってしまえば、偽宮のことも諦めて大人しくなると、御頭たちを説得してくれたのかもしれない。が知っている蒼紫なら、きっとそうしてくれるはずだ。
 その想像は、今の状況も身体の痛みも忘れさせてくれるくらいを幸せにしてくれた。と同時に、一瞬でも蒼紫のことを疑ってしまった我が身を恥ずかしく思う。物心付いた頃からずっと傍にいて優しくしてくれた蒼紫が、今更を裏切るなんてあるはずがないではないか。
 漸く表情が柔らかくなったを見て、般若はほっとしたように言葉を続ける。が、その言葉はを落胆させるものだった。
「御頭が京都行きを決めてくださったんですよ。皆は反対したんですけど、絶対に殺すなと仰って」
「御頭が?! 蒼紫じゃないの?!」
 蒼紫が御頭を説得してくれたと思っていたのに、御頭自らがこの処分を下したとは。御頭こそが一番許さないと思っていたのに、意外な情報だった。
 けれど、何故御頭がを許そうと思ったのかよりも、蒼紫がどう意見したのかが気になる。の処分を決める会議には、次期御頭候補の蒼紫も出席していたはずだ。
 の思いが伝わったのか、般若は一瞬迷ったように視線を揺らしたが、思い切ったように言った。
「蒼紫様は……昨日からご静養中ということでお部屋に籠もっていらっしゃいます。誰にも会いたくないと仰って、食事にも手を付けられないで………」
「静養?」
「何も仰らないけれど、きっと様のことが心配なのだと思います。昨日お戻りになられた時、真っ青な顔をなさってましたから………」
「………………」
 他人には絶対弱いところを見せない蒼紫が真っ青な顔をしていたとは。食事も摂らず、自ら拾って可愛がっている般若にさえも顔を見せずに部屋に籠もっているなんて、蒼紫は何を思っているのだろう。
 最後に蒼紫にぶつけた言葉を思い出す。

 ―――――許さない! 許さない! 一生恨んでやるっっ!!

 その言葉が、そのまま自分の胸に突き刺さる。
 今までずっと優しくしてくれて、いつもの味方になってくれるたった一人の人だったのに。それなのに自分の身が危なくなると真っ先に疑って、どうやっても償いきれないほどの酷い言葉を投げつけてしまった。
 誰よりも大切な、誰よりも守りたい、そして誰よりも愛しい人だったのに、誰よりも酷く傷つけてしまった。こんなことになるなんて、もう蒼紫に合わせる顔がない。
 どうして蒼紫を信じることができなかったのだろう。のような人間にも優しくしてくれる人が、騙したり裏切ったりするはずがないのに。
「………………っ!」
 大切な人を傷つけてしまったこと、そして自分の情けなさに涙が出てきた。弱みを見せたら潰されるから、人前では絶対に泣かないと決めていたのに、子供のように泣きじゃくる。
 今よりも良くなりたいと身の程知らずのことを思ってしまったから、きっと罰が当たってしまったのだ。蒼紫を傷つけ、きっと阿佐緒にも真実が伝わって傷つけてしまっている。 どうしてこんなことになってしまったのだろう。どうして何もかも上手くいかないのだろう。蒼紫も阿佐緒も、がいるから不幸になってしまったのだ。母親だって、が生まれなければ今も生きていたかもしれない。の存在そのものが周りに不幸を撒き散らしているのだ。
様………」
 泣きじゃくるに、般若も困惑した顔をする。
 この件には全く関係のない般若さえも困らせてしまっている。やはり自分は疫病神なのだと、ますます泣けてきた。
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