第五章 あなたが寝てる間に
蒼紫に友谷の居場所を捜してもらうつもりでいたが、彼と直接話ができなくなってしまった今、が全部自分でやるしかなくなった。けれど考えようによっては、蒼紫を面倒に巻き込むことは避けられたのだから、これはこれでよかったのかもしれない。次期御頭が決まっている彼に、危険なことはさせられない。派手に動けない身の上で人捜しは難航するかと予想していたけれど、案外あっさりと友谷は見つかった。阿佐緒が実家を知っていたのと、友谷自身が出世して城の近くに住んでいたのが幸いした。
阿佐緒が和宮の身代わりになった後、友谷は異例の出世をしたらしい。許婚を差し出した代償としての出世なのか、出世のために許婚を差し出したのかは判らない。おまけに、阿佐緒が輿入れをした直後に妻を迎え、子供も何人かいるようだ。
友谷にも家の事情があるだろうから、一生独身を貫けとまではも言わない。けれど、阿佐緒以外との結婚は考えられないと言ったその直後に妻を迎えるなんて、あまりにも酷いではないか。阿佐緒はその言葉を信じて、偽和宮の役目を受け入れたというのに。
友谷は最初から阿佐緒を騙すつもりだったのだろうか。友谷の妻は、彼の家とは不釣合いな上級武士の娘だと聞く。阿佐緒を差し出す代償として破格の出世と身分違いの縁談を提示され、心変わりした可能性は否定できない。
阿佐緒の家はかなり裕福であったようだが、所詮は商人の家だ。妻となった女に比べれば、家の格は見劣りする。友谷が野心的な男だったとしたら、今回は魅力的な話だっただろう。
そんな彼に阿佐緒の手紙を渡したら、どんな顔をするだろうか。中身は見ていないけれど、きっと友谷のことを思いやる文章が綴られているに違いない。それを読んで、自分の行いを悔やむくらいの両親が残っていればいいのだが。
どんな形であれ、友谷の居場所は判ったのだから、あとは手紙を渡すだけである。屋敷に訪問するわけにもいかないし、そもそも普通に渡しては拒否されるかもしれない。やはり夜中に進入して本人に直接手渡すのが一番か。
そうとなったら、行動は早いほうがいい。今夜にでも友谷の家に行ってみようと、は決めた。
友谷の家は、まさに“お屋敷”といった邸宅だった。まったく、阿佐緒を輿入れさせて一体どれだけ出世したのかと、は改めて唖然とする。
この立派な屋敷が阿佐緒の犠牲の下に成り立っていると思うと腹立たしい気持ちになるが、まだ友谷が彼女を売ったのだと決まったわけではないと思い直した。もしかしたら彼も今頃後悔しているのかもしれないし、妻は迎えても心の底では阿佐緒を想っているかもしれないではないか。
純粋に友谷のことを信じている阿佐緒の姿を思い出すと、そんな彼女が愛した男が、女の気持ちを利用して踏み台にするような人間であると思いたくない。そんな男だったとしたら、阿佐緒があまりにも哀れだ。
きっとは、阿佐緒の姿に自分の母親を重ねているのだろう。母親も大切な誰かのためにあんな仕事をしていたのだとしたら、やはり相手の男はそれに誠実に応えてくれる人間であってほしい。
立派な白壁の塀を、は見上げる。この塀の向こうに友谷がいるのだ。彼に会ったら、一番に何を言ってやろうか。阿佐緒が大奥で孤独な生活をしていること、形だけは宮様として遇されているけれど、大きな秘密を抱えているせいでいつも塞ぎ込んでいること―――――友谷のせいで、阿佐緒は一生監視されることになったのだ。できることなら、それを一思いに責め立ててやりたい。
の気持ちは既に臨戦態勢である。友谷が保身のための言い訳をするようだったり、逆に居直ることがあったりしたら、後先考えず殴りかかってしまいそうだ。流石にそれをやってしまったら、全てが白日の下に曝されて全員が破滅してしまうが。
何があっても取り乱すことがないように何度も深呼吸をして心を落ち着け、は白壁を乗り越えた。
立派な塀に相応しい、見事な庭である。これを維持するにも金がかかるだろう。友谷は相当羽振りがいいらしい。
屋敷は敷地の奥まったところにあるようだ。灯りは全て消えている。時間が時間だけに、家人は皆寝ているのだろう。
友谷の寝所が何処なのか判らないけれど、屋敷の奥の方だろうと見当を付ける。警備のない屋敷に入り込むのは、には造作も無いことだ。
が、屋敷に向けて一歩踏み出したその時、突然口を押さえられて後ろに引っ張られた。
「っ?!」
「今すぐ戻れ。友谷とは二度と接触するな」
背後からを羽交い絞めにしたのは、蒼紫だった。何故こんな時間にこんなところにいるのか。が友谷のことを調べていたことは、誰も知らないはずである。
まさか、般若が何か言ったのだろうか。あんな奴に勘付かれるとは思わなかった。本当に、般若と蒼紫は“一心同体”だ。
逃げようとするを力ずくで押さえ込んで、蒼紫は低い声で言葉を続ける。
「友谷は出世のために偽宮を売ったんだ。今更お前がしゃしゃり出ても、お互いのためにはならない。だからもうこの件からは手を引け」
何故蒼紫が友谷と阿佐緒のことを知っているのか。蒼紫はずっとを監視していたのだろうか。
蒼紫に監視されていたことに加え、一番恐れていた答えを突きつけられて、は全身が凍りついた。薄々そうではないかと思ってはいたけれど、あの夜の阿佐緒の顔を思い出すと本当は違うのではないかと思いたかった。現実は残酷だ。
固まってしまったの口から、蒼紫は漸く手を離した。そしてその手で今度は腕を掴んで、
「帰るぞ。今ならまだ、お前が城下へ出たのも気付かれずに済む」
が城から出たことが明るみになれば、それなりの罰を受けることになる。おまけには常に孤立しているから、庇う者もいない。蒼紫なりにを庇おうとしての行動なのだろうが、今の彼女にはただの邪魔者だ。
「嫌よ! 手紙を渡すの! 約束したんだもんっ」
蒼紫の手を振り払って語気を荒げて言うと、は屋敷に向かって走り出した。
蒼紫の言うことが本当なら、尚更この手紙を友谷に渡さなければならない。監視を掻い潜って大切に持っていた手紙なのだ。これには阿佐緒の気持ちが詰まっている。これを友谷に突きつけて、自分が如何に卑劣な人間だったか思い知らせてやりたい。そして、できることなら阿佐緒への謝罪の手紙も書かせたい。
ところが―――――
「―――――――っ?!」
走るの足許に、苦無が突き刺さった。
「御頭っ!!」
苦無が飛んできた方を向いて、蒼紫が珍しく驚きの声を上げる。そこには、忍装束の壮年の男が立っていた。
そしても、血の気の引いた真っ白な顔で御頭を見上げる。身体が小刻みに震えて、口を半開きにしたまま声さえ出ない。もう何もかもお終いだ。御頭にまで知られたら、阿佐緒のことも誤魔化せない。
しかし―――――と、は混乱しながらも不審に思う。江戸城警護の要である御頭が将軍のいる江戸城を空けるなど、ありえないことだ。いくら城を出たを追いかけるためとはいえ、わざわざ御頭が出てくるというのもおかしい。否、それ以前に、彼女が此処に来るかもしれないというのは誰も知らないはずなのに、何故御頭まで此処にいるのだろう。
蒼紫は次期御頭になるための特殊訓練を受けていて、既に御頭に匹敵する力を付けつつあると聞いている。そんな彼が、うかうかと御頭につけられることは無いはずだ。ということは―――――
の表情が恐怖から怒りへと急激に変化していく。急激な感情の昂ぶりのせいで充血した目は、御頭から蒼紫へと移された。
「裏切ったのねっ?! 信じてたのにっっ!!」
眦を吊り上げ、眼光で蒼紫を射殺さんばかりに睨みつけて、は悲鳴のように叫ぶ。
蒼紫はを心配してつけてきたのではない。御頭に報告するためにずっと監視していたのだ。もしかしたら、今まで二人きりで会っていた時のことも、話の内容も、全部御頭に筒抜けだったのかもしれない。
蒼紫だけは自分の味方だと信じていた。どんなことがあっても、自分に寄り添って守ってくれると信じていた。には、幼い頃から蒼紫しかいなかったから。だから、いざという時は、蒼紫のためにこの身を投げ出して良いとさえ思っていた。それなのに、こんなところで裏切られるなんて。
結局蒼紫も、友谷と同じだったのだ。よりも、“次期御頭”の立場を取ったのだ。好きな男に裏切られた阿佐緒に同情して、心の何処かで自分は絶対に裏切らない男が付いていてくれると思っていたけれど、何のことはない。も阿佐緒と同じ種類の女だったのだ。
「俺は―――――」
「あんたも友谷と同じだったんだ! 許さない! 許さない! 一生恨んでやるっっ!!」
何か言おうとする蒼紫の言葉を遮って、は絶叫した。
信じていた気持ちの分、憎しみも深くなる。怒りと悲しみで目の前が真っ赤になって、行き場のない激情が身体の中をぐるぐる駆け巡り、このままでは気が狂ってしまいそうだ。狂わないためには、蒼紫を斬るしかないと思った。
は腰の小太刀に手をかけると、躊躇い無く一気に抜いた。そして蒼紫に向けて足を踏み出した刹那、
「…………っっ?!」
首筋に激痛が走ったかと思うと、の視界は暗転した。