第四章  彼女に似た人

 偽和宮は、本名を阿佐緒という豪商の娘だったらしい。友谷という御家人との結納を済ませ、あとは祝言を迎えるだけという時になって、突然和宮の替え玉として据えられたのだという。
 どういう経緯でそんなことになったのかとは何度も訊いたけれど、どうも本人にもよく解っていないらしく、要領を得ない。ある夜、許婚の御家人から至急輿入れをして欲しいと言われて迎えの籠に押し込まれたかと思うと、何故か旅籠に連れて行かれて見知らぬ少女と着物を交換されられ、今に至るらしい。
 恐らく、阿佐緒が旅籠で見たという少女が、京都御庭番衆から報告のあった“五体満足の和宮”なのだろう。何故京都から来た替え玉ではなく阿佐緒が大奥に入ることになったのか、そして替え玉は何処に消えたのか。解らないことが多すぎる。
「いきなり籠に詰め込まれて替え玉にされて、何も訊かなかったんですか?」
「訊ける雰囲気じゃなかったし、友谷様も“国のために堪えてくれ”としか言われなかったから………。お武家様に頭を下げられたら、それ以上何も言えないでしょう」
 何とかして阿佐緒から情報を引き出そうと、は毎晩彼女の寝所に通っているのだが、毎回これの堂々巡りだ。毎晩相手をさせられているのだから、せめて何か情報を引き出してやろうと思っていたのに、当てが外れた。
 それにしても、聞けば聞くほど周りに流されるままに此処に来たという感じだ。普通では考えられない状況で思考停止して、許婚からも“国のため”と頭を下げられたとはいえ、今日まで沈黙を貫いてきたなどには信じられない。
 例えばが、蒼紫に「国のために堪えてくれ」と頭を下げられて、将軍家の姫の代わりに入内するというのなら、それは御庭番衆の仕事として請けるだろう。だが、阿佐緒は普通に育てられた普通の娘である。そんな使命感も何も持たない普通の娘が、“国のため”と言い含められただけで好きでもない男に嫁ぐものなのだろうか。
「祝言を挙げるだけの許婚がいたのに、その許婚から他の男と結婚しろって言われて、嫌じゃなかったんですか?」
「うーん………。その時は、“この娘と入れ替わってくれ”としか言われなかったから、あんまり………。流石に此処に連れてこられた時は、びっくりして泣いたけれど」
 その時のことはもう遠い記憶になっているのか、それとも意図的にそう言っているのか、阿佐緒の口調は他人事のようだ。
「本当のことを誰かに言って逃げようとは思わなかったんですか?」
「そんなことをしたら、友谷様に迷惑がかかるから。将軍様を騙したのだから、切腹を言い渡されるかもしれないでしょう?」
 確かにそれは阿佐緒の言う通りだ。彼女が自分の正体を明かせば、友谷とやらにも累が及ぶ。彼女にしてみれば、かつての許婚を人質に取られているも同然だ。
 阿佐緒は本当に友谷のことが好きだったのだろうと、は思う。そうでなければ、今日まで沈黙を守って、好きでもない男に身を任せるなんて出来ない。
 もしかして死んだ母親も同じ思いであんな仕事をしていたのだろうかと、はふと思った。何の根拠も無いが、御庭番衆の中に誰か想い人がいて、彼のために身体を張って情報を集めていたような気がしてきた。色仕掛けで情報を集めるくの一は他にもいたけれど、母親のやり方はまだ子供だったの目から見ても形振り構わないものだったのだ。
 彼女の仕事ぶりを、あの女は色狂いだからと嘲笑う仲間が多かったけれど、形振り構わない分、他のくの一よりはずっと有益な情報を集めていた。そのお陰で未然に防げた謀略や、死なずに済んだ仲間は沢山いる。も他の仲間と同じように彼女を軽蔑していたけれど、阿佐緒の姿を見ていたら、それは間違いだったのではないかと思えてきた。
 けれど、自分を踏み台にするような男のために、そこまで出来るのだろうか。もしが同じ立場だったら、蒼紫のために同じことが出来るだろうか。
「今でもその友谷さんって人のことが好きなんですか? 好きだから我慢してるんですか?」
「そうねぇ………。私、こんな手をしているから一生誰からも好きになってもらえないと思っていたの。だけど、友谷様はこんな手でも好きって言ってくれたから」
 そう言って左側の袖を軽く捲って手の無い腕をちらりと見せると、阿佐緒ははにかむように微笑んだ。
 片手が無いということで劣等感を持つのはにも解るが、「それでも好き」の一言でそこまで出来るのだろうか。初めて“好き”と言ってくれた人だから、自分を女として認めてくれた人のために尽くしたいと思ったのだろうか。そういう気持ちは、にはよく解らない。
 けれど、もしの母親も同じ気持ちだったら、と想像してみる。御庭番衆の仲間から冷ややかな目で見られたり爪弾きにされたりして、それでも想い人だけは感謝してくれたとしたら、その人のためにもっと情報を集めたいと思ったかもしれない。
「それにね―――――」
 考え込むをよそに、阿佐緒は楽しげに言葉を続ける。
「私にだけこんな思いはさせない、自分は一生独身を貫くって約束してくれたの。阿佐緒以外の女との結婚は考えられないって。そこまで言われたら、女冥利に尽きるわ」
 そう言われた時のことを思い出したのか、阿佐緒は頬を染めて身もだえするように全身をくねらせる。
 “阿佐緒以外との結婚は考えられない”と言いながら、そんな女を替え玉として差し出すのはどういうことかとは突っ込みたかったけれど、そこは黙っている。本当に好きだったら、いくら国のためでも好きな女を他の男に嫁がせたりなんかしない。が男だったら、絶対にそんなことはしない。
 第一、“一生独身を貫く”と宣言したところで、御家人の息子が一生独身だなんて周りが許さないだろう。それでも友谷が独身を貫いていたら大したものだが、きっと妻を迎えているか婿に入っているかのどちらかだ。子供の頃から否応無く大人の世界に組み込まれたせいか、はそういうところは年上の阿佐緒よりもずっと擦れてしまっているらしい。
 けれど、阿佐緒は友谷の言葉を無邪気に信じているようだ。一頻り浮かれた後、急に真面目な顔になって言う。
「だけどね、一生独身を貫くなんて周りが許さないと思うの。だから、もういいって伝えたいの。どうせもう、二度と会えないんだから」
「はぁ………」
 阿佐緒が何も言わなくても友谷はもう結婚しているだろう、とは心の中で突っ込んだが、流石にそれは口にはしなかった。子供でも言って良いことと悪いことの区別はついている。
 が黙っていると、阿佐緒は思いついたように化粧道具入れの引き出しを上から外し始めた。何をしているのだろうとが訝っていると、阿佐緒は全ての引き出しを外した化粧道具入れの奥に手を突っ込んで封書を出す。
「だからね、これを友谷様に渡して欲しいの」
「へ………?」
 封書を差し出され、はびっくりして固まってしまった。
 差し出された封書はずっと化粧道具入れの奥に隠されていたのか、皺だらけになっている。宮様の持ち物は全て少進を始めとするお付きの侍女たちに完全に管理されているはずなのに、よくもまあ今日まで隠し持っておけたものだ。その技には、は感心した。
 阿佐緒は封書の皺を丁寧に伸ばしながら、
「いつか渡せる時が来ればと思って隠し持っていたのだけれど、捨てずにいて良かったわ。返事は無理に貰わなくてもいいから、お願い」
「でも………」
 当たり前のように阿佐緒に封書を握らせられて、は困惑する。
 は大奥の人間ではないから、当然大奥の外にも江戸城の外にも出ることができる。しかし、大奥のものを、しかも偽和宮の手紙を持ち出すなど、それが明るみに出たら一人が罰を受けるだけでは済まなくなってしまうのだ。毎晩阿佐緒の話し相手をしているというだけでも、はいつもはらはらしているのに、これ以上危険な橋は渡れない。
 断ろうとが口を開こうとすると、それを先回りするように阿佐緒が言った。
「無理を言っているのは解っているわ。でも、あなたにしか頼めないの」
 の手を握り、阿佐緒は縋るような目で見詰める。断ったら泣き出すのではないかと思うような表情だ。否、泣くだけならまだいいが、絶望してとんでもない行動に出られたら堪らない。
 自棄になって、大奥の人間に自分の正体を告白したり、これまでのとの遣り取りを喋られでもしたら大変だ。“和宮様乱心”の原因として、だけでなく、御庭番衆の幹部まで罰を受けることになってしまう。御頭たちはどうでもいいけれど、蒼紫まで巻き込むわけにはいかない。
 上手い断り文句がないかと考えていると、阿佐緒は止めを刺すように言った。
「私たち、一心同体でしょう? あれは嘘だったの?」
 阿佐緒を手懐けるための方便が、こんなところで足枷になるとは。あんなことを言わなければよかったと、は今更ながら後悔した。
 ここで断れば、今までの苦労が水の泡だ。だが逆に、ここで阿佐緒の信頼を勝ち取れば、彼女はの言いなりになってくれるだろう。
 友谷との接触に成功すれば、阿佐緒からは聞き出せなかった情報を聞きだすことができるかもしれない。偽和宮計画の裏側が分かれば、きっと蒼紫の役に立つことができる。そうなれば、般若ではなくが蒼紫の片腕になれるだろう。
「いいえ、私たちは一心同体ですよ」
 これを成功させるしか、般若に勝てる方法はない。は阿佐緒の手を強く握り返した。





 いつもの場所に蒼紫を呼び出したのに、何故か般若しか来ていなかった。誰にも秘密だと手紙に書いていたのに、どうして般若が来ているのだろう。
「何であんたが此処にいるの?」
 般若が此処に来ているなんて、蒼紫への手紙を盗んだとしか思えない。もしかして、と蒼紫の遣り取りの監視を命じられているのだろうか。
 敵意剥き出しのの様子に、般若は怯んだ様子を見せた。
「蒼紫様から代わりに行けと言われて―――――」
「蒼紫がそんなこと言うわけないでしょ!」
 は即座に否定する。
 これまでずっと、蒼紫はからの呼び出しをすっぽかすことも、誰かに託すことも無かった。それを急に般若なんかを代理にするなんて、信じられるわけがない。般若が手紙を盗み出したに決まっている。
 般若はきっと、と蒼紫を引き裂きたいのだろう。御庭番衆の大人たちから、のことを吹き込まれたに違いない。蒼紫は般若を信用しているようだったけれど、般若は平気で蒼紫を裏切っているではないか。やはり“蒼紫の右腕”はしかいない。
「本当に蒼紫様が………。蒼紫様はお城を離れられなくなったので、これからは俺が代わりに話を聞いてこいって………」
 般若の表情を見る限りでは、嘘を言っているようには思えない。しかし、彼は蒼紫が連れてきた少年なのだ。御庭番衆にはいってまだ間もないけれど、演技力は凄いのかもしれない。
 蒼紫以外の人間の言葉を信じては駄目だ。御庭番衆の中での味方になってくれたのは、彼だけだったではないか。が言ったことを蒼紫だけに伝えるならいいけれど、般若が他の者に喋らないと言う保障はどこにもないのだ。
「蒼紫が来てくれないなら、もういい」
 阿佐緒の手紙のことを蒼紫に相談するつもりだったけれど、般若を通してとなると無理だ。危険だが、が一人でやるしかない。
「私は蒼紫以外とは話すつもりはないって伝えて」
 吐き捨てるように言うと、は走って大奥へ戻っていった。
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