第三章 一心同体
さと姫は猫の割には賢いらしいけれど、所詮は猫だ。餌をちらつかせると、にもホイホイ寄ってくる。そうやって暇な時に餌付けを続けていたら、の顔を見るだけで寄ってくるようになった。「本当に賢いのかな、この猫………」
膝の上で丸まっているさと姫を撫でながら、は呟く。
餌付けされたとはいえ、天樟院以外にこんなに懐くなんて、噂ほど賢くはないのかもしれない。まあ、ここまでに懐いているのなら、今夜にでも作戦に使えそうだ。
「さと姫さまぁ〜」
遠くから中臈たちの声が聞こえた。さと姫の姿が見えなくなって、天樟院が騒いでいるのだろう。
「やばっ……ほら、あっち行って」
さと姫を放り投げると、は慌ててその場を離れた。
今夜は将軍のお渡りが無い。いつも通りなら、和宮は一人で寝ているはずだ。
さと姫を抱えて、は鼠のように天井裏を這いずり回っている。廊下には寝ずの番が目を光らせているから、宮の寝所に忍び込むには天井裏を通るしかない。
さと姫が鳴かないのは助かるが、この蜘蛛の巣と埃には参った。黒い忍装束が、いつの間にか真っ白になってしまった。
「この辺りかな………」
城の見取り図によれば、宮の寝所の真上にいるはずだ。はそっと天井板をずらした。
思った通り、宮の寝所のようだ。周りには誰もいない。
布団の中の宮は四方を几帳に囲まれている。朝から晩まで几帳の中なんて、やんごとない身分というのは随分と不自由なものだ。
部屋の外にも人の気配が無いことを確かめて天井板を外すと、はさと姫を几帳の外に落とした。
「にゃっ!」
猫は高い所から落ちても平気なものだと思っていたが、さと姫はそうではなかったらしい。着地に失敗して悲鳴を上げた。大事にされすぎて野生の本能を忘れてしまったのだろう。
鈍くさい猫だと呆れていると、和宮が目を覚ました。
「猫………?」
几帳の外でもぞもぞしているさと姫に気付いて、和宮は手を伸ばす。
「天樟院さんの猫ね。何処から入ってきたの?」
「宮様、こっちこっち」
さと姫を抱き上げる和宮に、が天井から顔を出して声をかける。宮がびっくりして悲鳴を上げそうになるのを、は唇に人差し指を当てて制した。
「怪しい者じゃありません。ほら、この前の………」
そう言っても、宮は怪訝な顔をするだけだ。あの時は化粧をしていたし、髪型も違うから、とは判らないのだろう。そもそも、あの時はほんの一瞬だったから、顔を見ていないのかもしれない。
は部屋に飛び降り、宮に顔を近付ける。
「この前、さと姫様を引き取りに来た者です。と申します」
「この子、さと姫っていうのね」
自己紹介したというのに、宮はよりさと姫に興味があるらしい。の方など碌に見もせずに、さと姫を撫で回している。
人を人と思わないのか、ただの馬鹿なのか判らないが、浮き世離れしていることは間違いない。蒼紫の言っていた通り、どこかの箱入り娘だったのだろう。
間近で見る宮は、よりいくらか年上のようだ。日に当たらないせいか、不健康そうな青白い肌をしている。左腕を庇うようにさと姫を抱いているところを見ると、左手首から先が無いという噂は本当らしい。
「宮様は猫がお好きなんですか?」
宮はさと姫をすっかり気に入っているようだ。ずっと几帳の中で退屈してるのもあるだろうが、もともと動物が好きなのかもしれない。
「猫だけじゃなくて、犬も好きよ。此処に来る前は、犬を飼ってたの。元気にしてるかなあ………」
「京にいた頃ですか?」
目の前の宮は明らかに関東の喋り方だが、はわざと尋ねてみた。
堅く口止めをされているのか、宮は困ったように口を噤む。そのまま暫くさと姫を撫でた後、宮は思いついたように話題を変えた。
「さんって、どういうお仕事をしているの? 天井裏から来るなんて、凄いわあ」
「えっと………」
そこを追求されると、も困る。御庭番衆だとは言えない。
言葉に困るを見て、宮は可笑しそうに笑った。
「ねぇ、あなたも訊かれたら困ることがあるでしょ?」
馬鹿かもしれないと思っていたが、意外と賢いのかもしれない。何となくが何者か判っているようだ。
の正体が判っていても、誰かの命令を受けているわけではないのだから問題は無い。いざとなれば、一人が罰を受ければ済むことだ。どうせ御庭番衆もを庇うことはないだろう。
そう思ったら、何も恐れることは無いような気がした。は堂々として言う。
「私は大奥の警護をしてます。宮様の噂を聞いて、どんな方なのか確かめに参りました」
「………噂?」
探るような目で、宮はを見る。自分を巡る噂については、宮も気付いているのだろう。
が堂々としていることで、これは秘密の行動ではないと勘違いしたようだ。天樟院に抗議したところで、逆にやり返されると解釈したのかもしれない。
「天樟院さんに話すの?」
「いいえ。噂が本当なら、宮様をお慰めしたいと思いまして。身代わりでこんな所に閉じ込められて、お気の毒ですもの」
「まあ………」
の言葉は口から出任せだが、そんな言葉でも宮は感激したようだ。こんなのに感激するなんて、偽物の生活は余程辛いものらしい。
その姿を見たら、も本当に宮が気の毒になってきた。贅沢な生活をして、将軍とも仲睦まじいと聞くけれど、優しい言葉に飢えているのかもしれない。
「宮様が動物がお好きなら、他の中臈が飼ってる犬猫もお見せしますよ。そうだ、子猫がいるから、今度連れてきます。小さくてふわふわしてるんですよ」
さと姫を連れ出すのは危険だが、他の犬猫なら簡単に持ち出せる。子猫なら可愛い上に持ち運びも楽だ。
犬猫で手懐けておけば、観行院たちの情報を引き出すこともできる。こちらからこの偽宮を動かすことだって可能だろう。偽宮を使って幕府の勢いを盛り返すことだってできるかもしれない。
これが上手くいけば、蒼紫はきっと喜んでくれるはずだ。御庭番衆の奴らを見返して、蒼紫が御頭になった暁には、がその片腕になることも夢じゃない。
「私は宮様の味方です。ずっと一緒ですよ」
偽宮がの味方になれば、薔薇色の未来が約束される。蒼紫のために、と宮は一心同体でなくてはならない。
の言葉に、宮はますます感激した。
般若とかいう新入りは、いつも蒼紫と一緒だ。修行の時は勿論、と会う時も付いてきている。後から入ったくせにが欲しかった場所を易々と手に入れるなんて、本当に憎たらしい。
この新入りのせいで、蒼紫と会う嬉しさも半減だ。昔のように“二人だけの秘密”も持てなくなってしまった。
「あのさ、一寸他人には聞かれたくない話なんだけど………」
般若をちらりと見て、は蒼紫に追い返すように促す。が、蒼紫は平気な顔で、
「般若は口が堅い。俺が黙ってろと言えば絶対に口を割らないから安心しろ」
「………………」
般若の口が堅かろうが関係ない。は蒼紫にだけ話したいのだ。
自分が拾ってきたからなのか、蒼紫は般若を特別扱いしているようだ。その立場はのものだったはずなのに。般若が来てから蒼紫は変わってしまった。
「あの、俺………」
のただならぬ雰囲気を察したのか、般若は怯えたように身を引いた。いつもくっついて来ているから、図々しい奴だと思っていたが、一応遠慮は知っているらしい。
が、蒼紫はそれを制して、
「構わん。お前も聞いておけ」
「私は蒼紫にだけ聞いて欲しいの」
「俺と般若は一心同体だ。気にしなくてもいい」
蒼紫はこともなげに言ったが、その一言では奈落の底に突き落とされたような気がした。
ずっと一緒にいたのはなのに、こんな新入りが“一心同体”だなんて。蒼紫はより般若を選んだのか。は蒼紫のために偽宮を差し出すつもりでいるのに、何もしない般若の方が信頼を得るなんて。
「これからは今までのように来れなくなるかもしれない。だから般若にも―――――」
「何で?!」
は思わず叫んだ。
蒼紫がいるから、は今日まで頑張れたのだ。いつまでも一緒だと信じていたのに、蒼紫も他の者と同じようにを見捨てるのか。
「御頭になるから? だから私が邪魔になったの?」
「そうじゃない。だけど―――――」
般若に任せればいいって思ってるの? この子が蒼紫の代わり?」
御頭になったら、だけに構えないことは解っている。皆に平等に気を配らなければならないし、いざとなれば城と御庭番衆を守るために仲間を切り捨てることも要求されるのだ。だけ特別扱いしていては、集団の結束が乱れてしまう。
頭では解っているけれど、蒼紫が自分から離れていくのは耐えられない。“一心同体”という般若が代わりになったとしても、蒼紫でなければには意味がないのだ。
「私は蒼紫じゃなきゃ嫌なの! どうして解らないの?」
「………済まない」
謝罪の言葉を口にするけれど、蒼紫はを持て余しているようだ。今すぐにでも話を切り上げたそうな雰囲気が伝わってきた。
が離れたくないと思えば思うほど、蒼紫は離れていってしまいそうだ。けれど黙っていては、確実に離れていってしまう。どうしたらずっと蒼紫を繋ぎ止めておくことができるのだろう。
こうなったら、一日も早く宮を手懐けなければ。それしか方法がないように、には思えてきた。