第一章  般若

 和宮が偽者だと、大奥では皆が噂している。いつも几帳の陰に隠れて姿を見せないのと、将軍以外は誰もその声を聞いたことが無いのが、動かぬ証拠らしい。確かに、大奥総取締の滝山も、天樟院ですら、宮の肉声を聞いたことが無いそうだ。
 公家の女は下位の者には姿を見せず、会話もお付きの者を通して行うというから、は不思議に思わなかったが、言われてみれば、宮様といっても降嫁した身であるから、姑である天樟院にも声を聞かせないというのは奇妙だ。宮がいるところには必ず、母親の観行院と嗣子という女房がぴったりと張り付いているのも、偽者を監視していると考えれば納得できる。
 宮が嗣子を通して話すのも、偽者が御所言葉を話せないからかもしれない。宮と面会した天樟院も、京女らしからぬ顔だと漏らしていたという。聡明な天樟院がうっかり漏らすほど、和宮の様子には違和感があったのだろう。
 何より、輿入れ前には脚が悪いと噂されていた宮が、普通に歩けるのだ。京都御庭番衆の情報によると、宮は片足を引きずるように歩いていたという。ところが、旅の途中では普通に歩く五体満足な姿が目撃され、江戸城で天樟院と面会した宮には片手が無かった。
 これが一体何を意味しているのか。城内で“和宮”と呼ばれている女は、何処からやって来て、脚の悪い“和宮”と五体満足の“和宮”はどうなったのか。
「普通に考えれば、本物は逃げたな。降嫁はお嫌だったと聞いている」
 の話を聞いても、蒼紫は大して驚きもしない。大奥の噂は、彼の耳にも届いていたのか。
「じゃあ、今の“和宮”は誰よ?」
「さあ。だが、それなりの育ちの女だとは思うぞ。作法はしっかりしているらしい」
「それなりって?」
「卑しい身分じゃない。かといって、武家の娘でもない。大きな商家か、豪農の娘ってところだろう。まあ、上様のお渡りがあるなら、どっちでもいい」
 それはも同意だ。とにかく跡継ぎができなければ、公武合体は完成したとはいえないし、大奥も存在意義を失ってしまう。
 聞いた話によると、将軍と宮はとても仲睦まじいそうだ。御懐妊の噂が流れたことがあったから、夫婦の勤めは果たしているのだろう。宮の正体が何であれ、将軍が気に入ったのなら、外野が口を出すことではないのかもしれない。
 しかし、何処の誰とも知れぬ女が“御台所”の地位にあるのは、何とももやもやする。御所が、幕府を騙してやったと思っているのも、には面白くない。
「でも、偽者を有り難く奉ってるっていうのがなあ………。御所の奴らは手を叩いて喜んでるよ」
「ところが、そうでもないんだな」
 蒼紫は意地悪く笑った。
「京都御庭番衆の情報では、いつ正体がばれるか戦々恐々としているらしい。“宮様”が生きている限り、気の休まることが無いだろうさ」
「自分から仕掛けておいて、馬鹿じゃん」
 “偽宮”という壮大な詐欺の裏側がこんなにもお粗末だなんて、は心底呆れた。今頃になって怯えているなんて、それなら最初から本物を降嫁させれば良かったではないか。それとも、男たちの思惑から外れたところで、和宮の脱出は行われたのか。
 和宮は、東下りを本当に嫌がっていたらしい。公家の連中には京都の外は人外魔境だし、“東の代官”に嫁ぐことは、宮には屈辱と恐怖以外の何ものでもなかったのだろう。京女たちのこちらを見下す様子に、はっきりとそれが窺える。二言目には京都を恋しがる女たちが、は大嫌いだ。
 遠くから覗き見たことしかないが、将軍は目元の涼やかな青年だ。蒼紫には負けるが、整った部類だろう。人柄も穏やかだそうで、先代と違って健康でもある。本物の和宮だって、実際に会えばそれほど嫌がらずに降嫁したと思う。まあ、会う前に逃げられたのだが。
「そう言う馬鹿馬鹿しいことの積み重ねで、国は動いてるんだ」
 蒼紫は知った風な口を利く。
 次期御頭候補に選ばれてからの蒼紫は、時々こんな言い方をする。が大奥にいる間に、蒼紫はいろいろなことを見聞きしているのだろう。が知らないことも知っているだろうし、言えないこともあるのだろう。そう思うと、蒼紫がどんどん遠くへ行ってしまうようで、は寂しくなる。
 一緒に育って、いつも一緒だったのに、やはり蒼紫もから離れてしまうのか。御頭になったら、今のように仕事を抜けて会うことはなくなるだろう。そうなったら、には本当に誰もいなくなってしまう。
 蒼紫が出世するのは嬉しい。嬉しいけれど、自分だけ取り残されそうで、怖いのだ。
「な〜んか、やなカンジ〜」
 過剰の子供っぽい口調でそう言って、はぷうっと膨れる。
 蒼紫はいつまでも、を保護する存在でなければならないのだ。御頭になったからといって、から離れるなんて、許さない。
「世の中っていうのは、そういうものなんだ」
 の気持ちに気付いていない蒼紫の口調は、子供に無理矢理納得させる大人のものだ。
 「や〜なカンジ」なのは、御所でも京女でもなく、蒼紫のことなのに。一寸見ない間に“知らない人”になっていく蒼紫が、「や〜なカンジ」なのだ。
 このまま何もせずにいたら、蒼紫はどんどん遠くへ行ってしまう。何か大きな手柄を立てて、“次期御頭”に少しでも近い立場を確保しなくては。大奥の中にいるにできることは、限られている。
「京都の奴らがびびってるってことは、あの女は使えるね」
 が手柄を立てる機会があるとすれば、偽宮関係だ。あの女を探るも良し、こちら側に引き入れるも良し。偽宮は必ず、こちらの切り札になるはずだ。
 が、蒼紫はけんもほろろに、
「お前は関わるな」
「何で?」
 偽宮に一番近いのはだ。大奥に常駐しているなら、偽宮の部屋にだって潜り込める。向こうは隠密を連れていないのだから、身辺をかぎ回るくらいは簡単だ。
「あれは俺たちの手には負えない。そっとしておくのが一番だ」
 蒼紫らしからぬ弱気な言葉である。それが御庭番衆の総意なのだろうか。
 そんなことを言っているから、偽者を掴まされるのだと、は思う。やる時はやるのだというところを見せないと、幕府はずっと見くびられっぱなしではないか。
 御庭番衆が及び腰なら、一人でやるしかない。そして、御所も幕府もぎゃふんと言わせてやるのだ。
「相手は素人だよ? 大丈夫よ」
「そうじゃなくて―――――」
「蒼紫様ー!」
 蒼紫が何か言いかけた時、遠くから少年の声が聞こえた。
 駆け寄ってきたのは、の知らない少年だ。忍装束を着ているから、新入りなのだろう。歳はよりも下かも知れない。
「あ………」
 を見て、少年は固まった。の噂は聞いているのだろう。
 一歩引かれた態度は慣れているから、今更傷付かない。が、やはり嫌な気分にはなるものだ
「誰?」
 少年を指さして、は蒼紫に尋ねる。
「“般若”だ。親に捨てられたと言うから連れて来た」
「ふーん………」
 “般若”は嫉妬に狂った女の面だと聞くが、目の前の少年は気弱そうな印象さえある。蒼紫に執着するの方が、“般若”に相応しいだろう。
 “般若”の名を貰った少年は、きっと蒼紫の右腕になるだろう。根拠は無いが、は直感した。が欲しかった場所を、いつかこの少年が手に入れるのだと想像したら、無性に妬ましくなった。
「どうした?」
 少年を見るの顔に、般若の相が出ていたのだろう。蒼紫が怪訝な顔をした。
「何でもない」
 蒼紫には、自分の中の醜い感情を知られたくはない。蒼紫に見捨てられたら、は本当に独りになってしまう。
 少しでも蒼紫の近くにいるためには、やはりあの偽宮を手に入れるしかない。あの女の正体を探ろうと、は決心した。
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