第十七章 彼女の名前
血の臭いで頭がくらくらする。目の前には、膾切りにされた死体が二つ並んでいる。生前の姿をとどめていないが、たちが港で落ち合う予定だった三島栄一郎の両親だという。
新月村の出身だからということで送り込んだ密偵だったのだが、家族だけでも逃がそうと焦って、ヘタを打ったのだろう。
そこで焦るから、と思うところもあるが、村の惨状を見れば、三島が焦ったのも解る。斎藤たちと合流したところで、村が救われるという保証はどこにも無いのだ。失敗すれば家族が皆殺しになることだけは確実なのだから、一か八かの賭に出たのだろう。
そして、その結果がこれだ。両親は惨殺された上に見せしめとして村の真ん中に吊され、三島自身も村から脱出することは成功したものの、その後すぐに絶命したらしい。幼い弟を残して―――――
忍装束の少女と一緒に墓穴を掘っている少年が、三島が命を懸けて守った弟の栄次だ。弥彦と変わらないくらいか、もしかしたらそれよりも幼いかもしれない。
これからこの子はどうするのだろう。家族はもう誰もいない。村の誰かが、という線も絶望的だ。
三島一家はもう、村の厄介者になっている。このままにしておけば、村の人間が志々雄たちに栄次を差し出しかねない。
村人たちは今頃、栄次をどうするか話し合っているのだろうか。このまま村から追い出すか、それとも村の支配者である尖角に差し出すか―――――
この子を守らなくてはいけない。三島のためではなく、自身が守りたいと思う。
身寄りも無く、村中に疎まれている栄次は、昔のと同じだ。には蒼紫がいたけれど、栄次には誰もいない。
黙々と穴を掘り続ける栄次の横顔からは、悲しみや絶望は読みとれない。そういう感情はもう少し経ってからやってくるものだ。今はまだ、現実に圧倒されて感情が停止しているのだろう。
やがてやってくる悲しみと絶望に、この少年は耐えられるだろうか。
は耐えられずに壊れた。蒼紫は現実を拒むように、抜刀斎の打倒に執念を燃やしている。
恋われるにしても、現実を拒否するにしても、行き着く先は破滅しかない。蒼紫だって今は今は執念だけで生きているが、抜刀斎を倒した後に何も無いことに気付いてしまったら―――――否、抜刀斎に出会う前に、何かのきっかけで“最強”の称号に意味が無いことに気付いてしまったら、蒼紫は壊れてしまうだろう。
壊れるだけなら、まだいい。どんな形でも生きてさえいれば、普通の生活を送れるようになるかもしれない。が恐れているのは、生きることにさえ意味が無いと判断することだ。
蒼紫は今、何処で何をしてるのだろう。斎藤の話を信じれば、京都に向かっているはずだ。蒼紫の足ならもう到着しているかもしれない。
誰よりも早く蒼紫に会いたい。会って、違う方法で四人を弔うべきだと伝えたい。
「―――――蒼紫……」
その名を呟いた途端、今まで堪えていたものが綻びたようで、涙が出そうになった。
今何処にいるのだろう。何を思っているのだろう。会いたい。会って話がしたい。
「蒼紫様のこと知ってるの?!」
それまで黙々と穴を掘っていた少女が、急に大声を出した。その声に、は現実に引き戻される。
少女も蒼紫のことを知っているということは、やはり御庭番衆の一員か。しかし彼女の見た目から察するに、徳川の頃からの人間とは思えない。ということは、京都御庭番衆の人間か。旅館兼料亭を続けていることは聞いていたが、まだ隠密を育てていたのか。
確認したいことは山ほどあるが、頭が混乱して纏まらない。こんなところで蒼紫を知っている人間、しかも御庭番衆の一員に遭遇するのは想定外だった。
対処できずに唖然としているに、少女は掴みかからんばかりの勢いで矢継ぎ早に質問を投げかける。
「蒼紫様に会ったの? 蒼紫様たちは何処にいるの? 般若君たちも一緒なの?」
「私は………」
この少女も蒼紫を捜している。どんな関係なのかは判らないが、年上の般若を“般若君”と呼んでいることから、かなり親しい仲なのは窺えた。
蒼紫を捜している者同士、情報交換を兼ねて現状を話すべきだろうか。斎藤があてにならないとなれば、この少女と協力して蒼紫を捜すという手もある。
情報は圧倒的にが持っている。これをどこまで相手に提供するかが問題だ。加減を間違えれば出し抜かれる可能性がある。
まだ子供とはいえ、相手は隠密。否、子供だからこそ、“子供”であることを利用して、から最大限に情報を引き出そうとするだろう。かつて“子供”と“女”を都合よく使い分けていたのように。
自分が興奮しすぎてが何も言えずにいると解釈したのか、少女は一歩退いた。そして、興奮を抑えた口調で自己紹介をする。
「私、巻町操っていうの。蒼紫様を捜して旅をしてるのよ」
「―――――巻町………」
その名前に、は鼓動が早くなるのを感じた。見えない手で胸を押さえつけられたようにい息苦しい。
忘れたくても忘れられない名前。“巻町”は―――――
「あなた……先代御頭の………?」
「おじいちゃんのことも知ってるの?!」
操の顔が、ぱあっと明るくなる。の動揺は巧く隠せていたようだ。“おじいちゃん”ということは、操は先代御頭の孫なのだろう。こんなところであの男の血縁者と出会うなんて。
御一新と一緒に振り切ったはずのものが、この数ヶ月の間に次々と追いかけてきている。どこまで逃げても過去からは逃れられないということなのか。
蒼紫のことも祖父のことも知ってるということで、操はを仲間と判断したらしい。操の口調が更に親しげになる。
「あたしね、爺やたちと京都に住んでるの。蒼紫様たちも一緒だったんだけど、何年も前に出て行っちゃって、それっきり………。噂を聞く度にそこに行くんだけど、全部空振りで………。何でもいいの、蒼紫様たちのこと、知らない?」
「私………」
はそのまま口を噤んだ。
操が蒼紫を見つけ出したら、彼はどうするだろう。操は先代御頭の孫だから、あの時にしたように無碍にはできまい。しかも、操には京都御庭番衆という仲間がいる。操が先に蒼紫を見つけたら、の勝ち目は薄い。
「……ごめんなさい。私にも判らないの」
申し訳なさそうには答える。
操が先代御頭の孫だと判った時点で、には協力する気はない。何が何でも先に蒼紫を見付けて、操から遠ざけなければ。
こんな子供相手に本気で争うなんて馬鹿げていると、自分でも思う。けれど、操には先代御頭や御庭番衆の仲間からの愛情という、がどんなに望んでも得られなかったものを持っているのだ。それなら蒼紫だけはに譲ってくれてもいいではないか。
「そっか………」
の演技にすっかり騙されたようで、操はしょんぼりとした。こんなのに騙されるなんて、まだまだ子供だ。
「でもね、捜し続ければ、いつかきっと会えると思うの。だから諦めないで。ね?」
白々しい励ましも忘れない。こう言っておけば、見青はを協力者と思って、京都御庭番衆からの情報も流してくるだろう。
「あ、そうだ。自己紹介してなかったわね。私は。いろいろあって、警視庁で密偵やってるの」
冷ややかな心とは裏腹に、は出来るだけにこやかに自己紹介をする。“いい人”を演じきるのも、隠密や密偵に欠かせない技術だ。
は続けて、
「今はそんなことより、ご両親を埋葬してあげましょう。あと、三島さんの弟さんの今後も考えてあげないと」
「そっか……そうだよね」
栄次の苦しみを忘れ、自分のことばかりになっていたのを恥じたのか、操は俯く。そして再び埋葬の作業に戻った。